大宴会のたとえ ルカ14:15~24


みなさんは、お盆を迎えて、てんぷらを食べたでしょうか。信州では、お盆にてんぷらを食べることが一般的であるようです。その理由のひとつには、精進料理として、肉類を避け、野菜中心に食卓を飾ることがあり、何といっても、一番の理由は、信州では沢山の夏野菜が取れる時期なので、それを遠くから来た親類や帰省した家族に振舞える料理にてんぷらがあるためなのだそうです。

日本では、「おもてなし」という言葉が、東京オリンピックの招致のときの決め言葉だと言われています。滝川クリステルさんがいった「お・も・て・な・し」の心、これは、

私たちが、親戚や家族に食事を振舞うときに、同じような「おもてなし」の心をいだくのではないでしょうか。

本日は、聖書でも宴会について取り上げます。特に、神様が開かれる大宴会、神様の「おもてなし」の心を、一緒にみてまいりましょう。

  1. 神の国で食事をする人

さて、私たちは、色々な方と食事を共にする機会があります。特に、気心の知れた友人たちとの食事は、話も弾んでとても楽しいです。

また、宴会となると、色々な仲間や仕事場での歓迎会、送迎会、そして忘年会、新年会などがあるでしょう。宴会の幹事になると、宴会日時と場所の選定、予算と料理や飲み物の設定、宴会に招待する人を選ぶ必要があったり、挨拶をしてもらう人を決めたり、大変です。

手慣れた幹事さんだと、更に、ビックリするような一芸や催しまで用意しますし、宴会の場を盛り上げるために、至れり尽くせりです。こんな幹事さんは大変だと思いますが、幹事さんのおもてなしの心を受けて、その宴会に参加して本当に良かったと思うことがあります。

さて、ルカ14章には、イエス様がパリサイ人の指導者から食事に招待されたことが記されております。このパリサイ人の指導者は、食事の席で、イエス様に恥をかかせようと、罠を仕掛けました。それは、わざと、イエス様の席の前に、病気の人を座らせ、安息日にイエス様が病気を癒すかどうか、ためしたのでした。

このようなことでは幹事さん失格ですね。おもてなしの心がなく、招待したお客様を困らせようとしたのですから。このような人を日本語で、「ろくでなし」と言います。

ところが、招待されたイエス様は、病気の人を治し、更に、食事についての神様の教えを続けてなさったのですから、まさに「いうことなし」と言えましょう。

さて、食事のとき、そのイエス様の話を聞いて、食事に招かれた客の一人が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」とイエス様に言いました。

当時、ユダヤ人にとって、神様が開かれる宴会に招かれることが、非常に大きな関心事でありました。彼の言葉は「あぁ、なんと幸いなんだろう!神の国で食事をする人は!」と深々と表現したと思います。それほど、当時のユダヤ人たちにとって、夢見ていることなのです。

どうして、夢見るほどの事かというと、旧約聖書イザヤ書25章6-9節にある神様の約束だからです。

まずは、私たちも聖書を開いてみましょう。

25:6 万軍の【主】は、この山の上で万民のために、脂の多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多い脂身とよくこされたぶどう酒の宴会を開かれる。

25:7 この山の上で、万民の上をおおうベールを、万国の上にかぶさる覆いを取り除き、

25:8 永久に死をのみ込まれる。【神】である主は、すべての顔から涙をぬぐい取り、全地の上からご自分の民の恥辱を取り除かれる。【主】がそう語られたのだ。

25:9 その日、人は言う。「見よ。この方こそ、待ち望んでいた私たちの神。私たちを救ってくださる。この方こそ、私たちが待ち望んでいた【主】。その御救いを楽しみ喜ぼう。」

これは、イエス様がおられた当時から更に遡ること700年前に、預言者イザヤが語った神様の言葉です。

万軍の主、すなわち、この世界の創造主である神様が、すべての人々のために、宴会を開かれるというのです。この宴会の料理があげられていますね。脂の多い肉、良いぶどう酒、髄の多い脂身とよくこされたぶどう酒とあります。ちょうど、脂肪がのって甘味のある最高級神戸牛(100g 6000円)と、ワインの年代物の特徴であるおりをこした最高級ワインが用意されていると言えましょう。

そして、この宴会では、神様の大きな祝福が約束されています。まさに、幹事である神様が、とびっきりのおもてなしの心をもって、私たちを喜びに満たしてくださるのです。それは、人々の死を永久に取り去り、そして人々の涙をぬぐい取ってくださることです。ゆえに、宴会に出席した人々は、神様の救いを楽しみ、喜ぶ、主催者である神様を大いにほめたたえているのです。

神様は、人々を神様が主催される宴会に招いて下さり、そして、そのときに永遠のいのちと救いの喜びを与えて下さるというのですから、それを事前に知った者は、この神様の宴会への招待を夢見るのは当然かもしれません。

2.大宴会のたとえ

さて、イエス様は、客の一人が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」というのを聞いて、ひとつのたとえを話されました。

16節から22節までをみてまいりましょう。

「ある人が盛大な宴会を催し、大勢の人を招いた。宴会の時刻になったのでしもべを遣わし、招いていた人たちに、『さあ、おいでください。もう用意ができましたから』と言った。

ある人が盛大な宴会を開こうとして、大勢の人を招いたのです。当時の宴会では、宴会のずっと前に、招待客の人数を把握するために一度目の案内をしました。盛大な宴会、そして大勢の人を招いたとありますから、その食事の準備には、とても多くの時間を必要としたと思われます。そして、宴会当日になり、準備が整ったので、二度目の案内をしました。

ところが、18から20節をみますと、こう記されています。

みな同じように断り始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、見に行かなければなりません。どうか、ご容赦ください。』

別の人はこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それを試しに行くところです。どうか、ご容赦ください。』

また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』

とあります。

まず、彼らは、畑、牛を買った後で、確認しに行くと言っています。

おかしいですね。通常、買う前に確認するはずです。

以前に、中国人高校生の短期日本滞在のボランティアをしました。数人の中国人高校生がお土産の購入するとき、お店で彼らをサポートしました。彼らは、商品を買う前に、必ず箱から取り出して全てチェックしました。日本人はそこまでしませんので、お店に理由を説明して、お店からお許しを頂く必要がありました。彼らは、粗悪品を買わないように、事前の商品チェックはきちんとしていたのです。

それから、結婚を理由に断わった人もいました。ユダヤでは、結婚した男子が、兵役から免除されるというきまりがあります。それは、妻との生活をきちんとするのが、ユダヤ人男性の責任と規則なのです。しかし、宴会を免除されるというきまりはありません。

彼らの馬鹿げた言い訳は、宴会を主催する人へのあからさまな中傷であり、主催者である主人への嫌がらせです。

こんな招待者の態度に、さすがの主人も怒りました。本当に、馬鹿にしていますよね。しかも、既に、宴会は、準備が整い、いつでも開くことができる状態になっています。

主人は考えます。

さぁ、どうしよう? 「まったなし」です。

困ったぞ、席が沢山空いてしまった・・・

そのとき、この主人は、ひらめいたのです。

しもべに言いました。「『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たちをここに連れて来なさい。』

これは普通、ありえないことです。なぜなら、招待もしていない人々を連れてきません。それも、身分も低い、当時、罪びとと言われてユダヤ社会から蔑まれていた人々を、主人は招ねこうとしたからです。

実は、このありえないことに、イエス様のメッセージが隠されています。

引き続いて、ありえないことが主人によって行われます。

まだ、席が一杯にならないので、主人は、更に、しもべに指示をしました。『街道や垣根のところに出て行き、無理にでも人々を連れて来て、私の家をいっぱいにしなさい。』

なんと「身のこなし」の早い主人でしょう。

さて、このたとえを紐解いていきましょう。

このたとえの主催者誰でしょう? ⇒ 神様ご自身です。

神様は、先ほど、開きましたイザヤ書25章に記されているような、ユダヤ人が夢見るような宴会を開こうとしていたのです。

そして、その宴会の時間になるので、しもべは、招待していた人々を訪ねました。

(ノック)パリサイ人さん、宴会に来てください。

⇒いや、我々の決まりを守らないあなたの招待なんて受けたくないよ!

(ノック)律法学者さん、宴会に来てください。

⇒いや、罪人たちの友の招きなんて受けられるか!

そうなのです。彼ら、生粋のユダヤ人と呼ばれ、自らをアブラハムの子孫と考えている人々は、イエス様も、そのイエス様の福音を受け入れようとはしません。それどころか、イエス様を馬鹿にし、否定し、十字架に架けてしまったのです。彼らは、神様の招きであるイエス様の福音を断ったのです。

一方、罪びと、病人、貧しい人々は、イエス様の福音を聞き、神様の招きを受け入れました。

それから、街道、垣根で表されている人々は誰でしょう?

その人々は、ユダヤ人ではない異邦人と呼ばれる人々です。彼らは、サマリヤから始まり、ローマ帝国、そして欧米の諸国、私たち日本人にまでおよぶ人々です。彼らには、「無理にでも」とあるように、現在、神様による神の国への招待、福音が、至る所で述べ伝えられているのです。

このたとえに隠されたメッセージは、イエス様の福音を受け入れる者はすべて、神様の招待を受けることができるということです。まさに、これは、神様のもてなしの心を受け入れることなのです。

3.神の食事を味わう者

主人は、しもべに言います。「 言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいません。』」

主人が招いた宴会を断った人々はどうなるのでしょうか。

この主人である神様は断言されます。私の食事を味わう者は一人もいないと。断った人々は、神様が用意されておられる、永遠の命と救いを取り逃がしてしまうのです。

神様のもてなしの心を踏みにじった者は、神様からの祝福も得られません。

さて、イエス様がこのたとえを話されたのは、客の一人が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったことがきっかけでした。彼は、預言者イザヤが語った、神様が開かれる宴会に招かれることを夢見た人でした。ところが、イエス様は、せっかく、神様が招待しているのに、その招待を拒んでは、神様の宴会、その祝福を受けることができないことを警告されました。

さて、私たちはどうでしょうか。あなたは、神様の招待、イエス様の福音を断ってはいませんか? 

私は、神様のご愛を知り、19歳のとき、洗礼を受けました。その後、教会学校の教師をしました。教会学校では、子供たちに、聖書のお話をし、御言葉を守るように指導しておりました。当時、私は、モーセの十戒と呼ばれる聖書の教えを教えていました。しかし、私は子供たちに教えるほど、辛くなりました。それは、教える私自身が、その御言葉を守れないことを知ったからです。私の心に、「お前は偽善者ではないか」という声が聞こえていました。そが嫌で、もう、私には神様は必要ないと思い、教会から離れました。

しばらくして、神様の無い生活に、私は虚しさを感じるようになりました。それで、数年後、新潟の長岡市の教会の礼拝に再び出席するようになったのです。私は、自分がクリスチャンであるということを隠していました。ある日、その教会の牧師との個人面談のときがありました。牧師は、私に、短刀直入、「あなたは、クリスチャンですよね? 何故、聖餐式を受けないのですか」という質問でした。私は、驚きつつも、素直に認めて、それまで自分が神様から離れていたこと、そして、私のような者が聖餐式を受けるに値しないと答えました。その答えに、牧師は、改めて、私にイエス様の十字架のご愛をお示し下さり、聖餐式は、実は誰も受けるに値する者はいないこと、聖餐式は罪びとへの神様からの一方的な恵みであることを教えて頂きました。私は、それまでの神様への背きを悔い改め、イエス様の救いの招きを受け入れました。

さて、みなさんに伺います。

自分には神様など必要ないと思う方はいないでしょうか。また、神様にとって今の自分は相応しくない、もっと良い人になるまで、神様からの招待は受けられない、と思う方はいないでしょうか。

今日、神様は、あなたに神様の招待を受け入れて頂きたいのです。その神様の招待とは、イエス様の福音、すなわち、イエス様の十字架の死による罪の赦しと、復活による永遠の命です。

もし、イエス様の十字架が私のためであったと受け入れるなら、それは、神様の招待を受け入れることなのです。

更に、この招待は、あなたの未来を決めることになります。

ヨハネの黙示録19章9節をみてみましょう。

19:9 御使いは私に、「子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ、と書き記しなさい」と言い、また「これらは神の真実なことばである」と言った。

招待を受け入れた者は、「子羊の婚宴に招かれている者たち」となります。あなたは、神様から、幸いな者だと言われるのです。

聖書に、「これらは神の真実なことばである」と約束しております。

どうか、今日、神様の宴会への招待であるイエス様の福音をお受け入れ下さい。

それから、既に、イエス様の福音、神の国の大宴会の招待を受け取っておられるみなさんは、ご自分が子羊の婚宴に招かれている者、幸いな者として、主の再臨を待ち望みながら、日々、神様と共に、希望をもって歩ませて頂きましょう。

勧士 高橋堅治