イエスのさばき ヨハネ7:53~8:11


ヨハネの福音書の8章のはじめに記された有名なお話について学んでいきましょう。この部分、ヨハネ7:53~8:11には、角括弧(かくかっこ)が付けられていますね。聖書の注釈を見ると、「古い写本のほとんどがこの部分を欠いている。また、この部分を含む写本間の違いも大きい。」と書かれています。さらに、「この部分がルカの福音書に含まれている異本もある」とも書かれています。
これは何を意味しているのでしょうか?長い年月を経て、新約聖書の原本は既に無くなってしまい、いくつかの写本を基にして現在の聖書が作られています。この箇所は、実際にイエス様の行った出来事だとは考えられていますが、この出来事がどの福音書に記されていたのかははっきりしていないのです。もう一つの候補としては、ルカの福音書21章38節の後に書かれていたのではないかという説もあります。
また、アウグスティヌスという初期の教会の指導者は、「姦淫の場の女性を赦すイエス様の姿が、聖書から削除するべき」と述べるほど、この部分はショッキングな内容であったとも言われています。
もしこの箇所が、現在のヨハネの福音書に記載されている通りの場所にあったとするなら、この出来事はイエス様が十字架にかけられる半年ほど前に起こったことになります。一方で、ルカの福音書にあったとすれば、十字架にかけられる週の出来事ということになります。
いずれにしても、この話にはイエス様を憎む律法学者とパリサイ人たちの行き過ぎた行為と、それに対するイエス様の愛と裁きが記されています。この大切な内容を一緒に学んでいきましょう。

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1.律法学者とパリサイ人の権威
7:53 〔人々はそれぞれ家に帰って行った。
8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。
8:2 そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。
8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。
8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」
8:6 彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。

神殿でイエス様が教えを終えた後、そこに集まった人々はそれぞれの家に帰りました。イエス様はオリーブ山に行かれたと記されています。オリーブ山はエルサレムから約3キロメートル離れた場所にあり、その南側のふもとには、マルタとマリアが住んでいたベタニア村がありました。もしかすると、イエス様は彼らの家に泊まっていたのかもしれません。
次の日の朝早く、イエス様は再び神殿に行き、神の国について教え始めました。人々は神を求めて集まってきており、イエス様と人々の関係は、神の国を求めるという共通の思いでつながっていました。
しかし、その時、突然、律法学者とパリサイ人たちが現れました。彼らはイエス様の教えを中断させ、その場に緊張感を与えました。彼らは姦淫の現場で捕まえられた一人の女性を連れてきて、みんなの前に立たせました。
聖書には、たくさんの人々について書かれています。私たちは「聖書」という名前から、その中身が美しくて、道徳的で清らかなものだと思うかもしれません。しかし、実際に聖書を読んでみると、憎しみや争い、妬み、嘘、殺人、そして不倫といった人間の醜い本性についても詳しく書かれていることがわかります。それでも、こんな私たち人間を創造した神様が愛している、ということが記されているのです。
今日は、ある女性が姦淫の場で捕えられた場面についてのお話です。姦淫という言葉は、少し気が引けるかもしれませんが、聖書には66回も出てくる重要な言葉です。姦淫は、不倫とも呼ばれます。姦淫の場とは、不倫によって実際に肉体関係を持っている状態のことを指します。
この女性は、夫がいるのにも関わらず不倫をしている現場で捕まり、律法学者やパリサイ人たちによってイエス様の元へ連れてこられました。
律法学者やパリサイ人たちは、イエス様が安息日という休む日にもかかわらず病人を治したこと、そして神様を自分の父と呼んだことを理由に、イエス様を憎み始め、殺そうと考えました。一方で、イエス様は神殿で人々に神様の教えを伝え、その結果、人々から慕われるようになっていました。これが宗教指導者である律法学者やパリサイ人にとっては、イエス様が邪魔な存在に感じられ、敵だと思うようになったのです。彼らはなんとかしてイエス様を捕まえる理由を見つけたいと考えました。そして、彼らは姦淫を犯した女性を連れてきて、イエス様にこの女性についての意見を聞くことで、人々の前でイエス様を偽り者に見せかける計画的な犯行に至ったようです。
これがなぜ、計画的犯行だと言えるのでしょうか。
まず、ユダヤでは、姦淫をしている人を見つけ出し、その人を罰することがとても難しかったのです。なぜなら、姦淫の罪に対する裁きについては、聖書のレビ記に次のように記されているからです。
レビ20:10 人が他人の妻と姦淫したなら、すなわち自分の隣人の妻と姦淫したなら、その姦淫した男も女も必ず殺されなければならない。
律法によると、姦淫をした男女は死刑にされることになっていました。しかし、実際に律法に従って人を死刑にすることは簡単なことではありませんでした。申命記に、
申 17:6 二人の証人または三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。一人の証言で死刑に処してはならない。
とあるように、死刑を執行するためには、複数の証人が必要です。この証人たちは、実際に犯罪が行われている現場を見て捕まえる場合でなければ、証人になることはできません。特に姦淫のような行為は、誰にも気づかれないように時間や場所を選んで行われることが多いため、その現場を複数の人が目撃することは、実際にはほとんど不可能なのです。
もう一つの理由は、姦淫を犯したとされる人たちのうち、連れてこられたのが女性ひとりだけだったことです。レビ記には、姦淫は男性と女性の両方が罪に問われるべきとされています。しかし、律法学者やパリサイ人が連れてきたのは女性だけでした。これでは公平ではないのではないでしょうか。
これはあくまで想像ですが、ある男性が女性に対して恨みを持っていて、その女性を困らせるために計画を立てたのかもしれません。彼は、律法学者やパリサイ人たちに時間と場所を教えて、女性が罪を犯しているところを見つけさせ、女性だけが捕まるようにしたように思えます。この女性は、計画的に罪人に仕立て上げられたと考えられます。そして、この出来事を律法学者やパリサイ人たちはイエス様に罠を仕掛け、捕らえるために利用したのだと思われます。
彼らは「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」 
と言うのです。彼らの考えは、正式な裁判をするというよりも、イエス様の発言の一部を取り上げて、イエス様を追い落とそうとするものでした。そこで、彼らはモーセの律法を引き合いに出し、「こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています」と言って、イエス様に意見を求めたのです。さて、ユダヤでの死刑執行方法は、石打ちです。
申 17:7 死刑に処するには、まず証人たちが手を下し、それから民全員が手を下す。こうして、あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。
姦淫の場で捕えられた女性の罪を裁いて、イエス様を罠に陥れようとした理由は、律法学者やパリサイ人たちがイエス様の権威や教えを試し、弱点を探ろうとしたからです。
彼らは、イエス様が愛や赦しを教えていたため、もし女性を赦せと言った場合、モーセの律法に反することを理由に、イエス様が律法を無視していると非難するつもりでした。逆に、石打ちにするように命じた場合、イエス様が愛と赦しの教えに反する言動をとったとして、イエス様の信頼を失わせることを狙っていました。
この状況は、イエス様にとって非常に困難なもので、どちらを選んでも批判される可能性がありました。つまり、律法学者やパリサイ人たちは、どちらの答えを選んでもイエス様を非難できるように罠を仕掛けたのです。
律法学者やパリサイ人たちが姦淫の場で捕えられた女性の罪を裁き、イエス様を罠に陥れようとしたのは、彼らの持っていた一つの自負心が理由です。彼らは自分たちを「モーセの弟子」だと考えていました。
つまり、彼らはモーセの律法に忠実であることを誇りに思っており、その律法に基づいて人々を裁く立場にいると信じていました。しかし、彼らはその律法を使ってイエス様を試し、イエス様がどのように対応するかを見て、イエス様を罠にかけようとしたのです。彼らはイエス様の教えや行動が自分たちの律法解釈と異なると感じていたため、イエス様の権威を疑い、試そうとしました。
ヨハ 9:28 彼らは彼をののしって言った。「おまえはあの者の弟子だが、私たちはモーセの弟子だ。
モーセは、イスラエルの人々をエジプトから脱出させてカナンの地へ導くために、神様から大きな力と権威を与えられました。それは、ユダヤ人を守り、正しい道へと導くために必要なものでした。申 34:12 また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力強い権威と、あらゆる恐るべき威力をふるうためであった。
権威というのは、とても強い力を持ったものです。権威があると、人々を裁いたり、命令して働かせたり、時には人を殺すこともできるようになります。例えば、モーセの権威のもとで、姦淫の現場で捕まった女性を石で打ち殺すように言うことができたのです。
しかし、この権威は神様がモーセに与えたものであり、律法学者やパリサイ人に与えられたものではないのです。
ですから、マタイ23:2に、イエス様は、
マタ23:2 「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。
と言っています。彼らは、自分たちがモーセと同じくらいの権威を持っていると考えていました。そのため、モーセのように人々を裁き、罪を宣告したのです。
では、イエス様の弟子である私たちに対して、イエス様はどう教えているでしょうか。
ルカ22:25 すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々に対し権威を持つ者は守護者と呼ばれています。
22:26 しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。

つまり、イエス様から権威を求める人は、謙虚で謙遜な姿勢を持つように神様から求められているのです。これは、イエス様の弟子たちがみな平等に、イエス様に仕えている者だからです。
私が以前の仕事である部門長になったときのことを思い出します。前任者前から「上に立つと、部下との間に摩擦が生じやすくなる。そのため、部下と同じ目線になるためには、役職が上であるほど、より謙虚に接するべきだ」と言われたことがあります。企業でも同じなのですから、教会ではなおのこと謙虚でありたいものです。
マタイ23:8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人(キリスト)で、あなたがたはみな兄弟だからです。                                 
私たちは、教会のかしらであるキリストに仕える者。キリストが主であり、私たちは互いに兄弟姉妹です。誰が上で誰が下はない、正にルターが述べる万人祭司なのです。

2.イエスのさばき
8:7 しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
8:8 そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。
8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。
8:10 イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」
8:11 彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」〕

彼らが何度もしつこく質問を続ける中、イエス様は立ち上がりました。そして、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」と言いました。これは、イエス様が持つ特別な権威からの答えです。ここで言う「罪のない者」とは、神様ご自身とその御子であるキリストだけなのです。
昔、モーセがユダヤ人たちをエジプトから約束の地カナンへ導いたとき、神様から特別な権威を与えられ、姦淫をした男女を殺すことを許されました。しかし、イエス様の教えでは、人を裁くことができるのは、罪のない神様だけだというのです。この話を聞いて、年を取った人たちから順に一人ずつ去っていきました。
イエス様は、山上の説教で、
マタイ7:1 さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。
7:2 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。

と言われました。イエス様の弟子は、人をさばいてはいけないと教えられています。それは、私たち自身が神様からさばかれないためです。
私たちには、人の罪に対して「さばくこと」と「赦すこと」の二つの選択肢があります。ここで、人をさばくのが難しい理由は、私たちが行うさばきは、私たちも神様から同じようにさばかれてしまう恐れがあるからです。人をさばく際に、その人を公平に見ることができないことが多く、そのため誤った判断をしてしまうこともあります。次のことが、人をさばくときに犯しやすい過ちです。
1.相手の行動や性格を最初から悪意をもって見てしまうこと。
2.相手の失敗や欠点だけを強調してしまうこと。
3.相手の人生での失敗や悪い行いだけでその人を決めつけてしまうこと。
4.相手の行動、理由、動機を自分の考えで勝手に決めつけてしまうこと。
5.自分が同じ状況にいたらどうだったかを考えずに、相手を批判すること。
6.自分も他の人や神様の基準で裁かれる存在であることを忘れること。
このように、私たちのさばくの秤(基準)は、公平ではありません。

もし、姦淫の場で捕えられた女性に対して当てはめるなら、次のように言えるかもしれません。

例:ひとをさばくときに犯しやすい過ち (この姦淫で捕まった女性の場合)
1.最初から悪意をもって見る:浮気性、騙されやすい人
2.失敗・欠点を強調:人を誘う容姿があるから
3.人生の失敗・悪い行いで決めつける:彼女はこれで人生詰んだな。
4.行動・理由・動機を勝手に決めつける:きっとご主人と不仲なんだ。
5.同じ状況下を考えず批判:騙されて当然だ
6.神様の基準で裁かれる存在である:自分は大丈夫!彼女とは違うから

 姦淫で捕まった女性を考えただけでも、私たちの秤は不公平なことがわかりますね。

しばらくして、イエス様は立ち上がり、その女性に言いました。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」ここで使われている「女の人」という言葉は、ヨハネ2:4で母マリアに対して使われた尊敬の表現です。つまり、イエス様はこの女性に対しても、とても優しく敬意をもって接していたことがわかります。
イエス様は、その場にいた誰もが彼女を裁かなかったことを確認しました。彼女は、自分の罪が裁かれるべきだと感じて、その場に立ちすくんでいました。彼女は、「はい、主よ。だれも」と答えました。つまり、彼女はその場で、自分が罪のために裁かれるのを待っていたのです。そして、彼女はイエス様こそが裁きを下すことができる方であると理解していました。
しかし、イエス様はこう言いました。「わたしもあなたにさばきを下さない」。これは「わたしもあなたを罪に定めない」という意味です。周りの人々は、自分自身も罪を持っていたのでその場を去りましたが、イエス様は罪を裁く権威を持っていたため、その場を離れる必要はありませんでした。でも、彼女を罪に定めることはしなかったのです。そして、イエス様は彼女に「これからは罪を犯さないように」と伝えました。
イエス様は、その女性に「行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」と言われました。これは、「人生を進んで生きていきなさい。そして、もう二度と過ちを犯してはいけません」と励ましながら、彼女に新しい道を示した言葉です。
では、なぜイエス様は彼女を裁かなかったのでしょうか。それは、イエス様が彼女の罪の罰を身代わりとして引き受けたからです。イエス様は人々の罪を赦し、その罪のための罰を自ら受けるために来られたのです。
Ⅰペテ 2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
キリストは十字架の上で、彼女の罪を自分の身に引き受けました。そして、彼女が罪から離れて正しいことのために生きることを望まれたのです。
私たちがイエス様の弟子として生きるためには、イエス様の教えに従うべきです。更に、人をさばくことがどれほど難しいかを私たちは知りました。神様の基準ではなく、私たち自身の基準で人を判断してしまうからです。その結果、相手を「罪がある」と決めつけてしまうことがあります。
私は以前、教会の礼拝に出席していない人をさばいてしまったことがありました。それは、間違った秤(基準)で判断していたからです。それは、
「クリスチャンなら教会の礼拝に出席するのは当然だ」、安息日を守るべきだ、信心深さは礼拝出席日数と等しいと思っていたからです。しかし、聖書を学ぶにつれて、正しい秤(基準)があることが分かりました。クリスチャンは、イエス様の教えに従う者であり、そのイエス様は、人を裁くことをゆるしていないことです。また、信心深さと礼拝出席日数は関係なく、それよりも日々の信仰生活が重要であること、安息日が日曜日でなく、イエス様すら安息日を破られたということです。誤った秤だと、裁いてしまうのですが、神様の秤だと、相手を理解し、赦し、受け入れることができるのです。
イエス様は、私たちに、裁きよりも易しい、赦すことの大切さを教えてくださいました。
主の祈りに、
マタ6:12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
という言葉があります。毎日、この祈りをするときに、自分に赦していない人がいないかどうかを確認し、その方を赦してあげましょう。
エペ 4:32 互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。

から。神様の祝福がありますように。

勧士 高橋堅治