ヨハネの福音書6章には、イエス様のパンの奇跡が記されています。それは、男だけでも五千人、女や子供も含めると約1万人の人々が、5つのパンと2匹の魚でイエス様は満腹にしました。この奇跡に遭遇した人々は、驚きのあまり、イエス様を王様にしようとしました。イエス様は彼らから逃れるため、直ぐに弟子たちを舟に乗せて立ち去らせ、群衆を解散させた後、一人で夜遅くまで祈ったのです。そのとき、ガリラヤ湖上で弟子たちの舟が風で動けずにいると、夜明け前にイエス様は湖の上を歩いて弟子たちの元に向かい、彼らを助けました。そして、なんとか、カペナウムに着いたのです。ところが、解散させた群衆の残りの中に、イエス様を王様にしようとする人々がいて、イエス様がいないことが分かると、イエス様を捜し、ついにカペナウムの会堂でイエス様を捜しあてたのです。
1.永遠のいのちに至る食べ物のために働く
6:26 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
6:27 なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」
6:28 すると、彼らはイエスに言った。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」
6:29 イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」
イエス様を捜しあてた人々は、イエス様に「いつここにおいでになったのですか」と言いました。イエス様は、自分を王にしようとする人々を避けたい訳です。イエス様は、彼らの動機が、奇跡によって神様を求めるのではなく、満腹により私欲を果たしたいという悪い動機であることを見抜きます。しかし、彼らの動機を、「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」と、福音に向けたのです。
これを聞いた人々は、「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか」と尋ねました。彼らは、「永遠のいのちに至る食べ物のために働く」ことが「神のわざを行う」ことだと考えていました。「わざ」とは、「義務として行うべき行為」を言い、「神のわざ」は、律法(神の教え、旧約聖書のモーセ五書に書かれた内容)を行うことと考えていたのです。
マタイの福音書に、同じようなことを求めた青年が記されています。
すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」
マタイ19:16
青年は、「永遠のいのち」を得るために、どんな良いことをすればよいかをイエス様に質問したのです。そこで、イエス様は、
いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。
マタイ19:17
と言いました。イエス様はモーセの十戒(出エジプト20:3~17)のいくつかをあげると、青年は全部守っていると言いました。しかし、イエス様は完全を求めて、財産を売り払い貧しい人に施し、イエス様に従うことを言うと、青年は出来ずに立ち去ったのです。律法を守ることにより、永遠のいのちを得るのは限界があることを伝える出来事でした。当時、それでも、聖書に詳しい律法学者やパリサイ人たちは、律法を厳密に守るために、沢山の戒律を作り、なんとか律法を守ろうと努力したのです。
さて、私は、青年の頃、洗礼を受けて、教会学校の教師になりました。当時は、3、4年生を分級で受け持ち、毎週、聖書を子供たちと一緒に学びました。ちょうど、子供たちに出エジプト記の20章の十戒を守るように教えていました。そのとき、私の心に「偽善者、子供たちに教えているおまえ自身は守らないじゃないか」という声が聞こえてきました。この声に私は耐えられなくなり、その後、教会から離れたのです。その後、数年間、私は教会には行くことができませんでした。現在、改めて聖書を読むと、その理由が分かります。それは、聖書に、
なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。
ローマ 3:20
と書かれているからです。聖書の教えを守ろうとすればするほど、生じるのは罪の意識なのです。
よく、私は教会に来ているのに、聖書の教えを守ることが出来ないと言う人がいますが、大丈夫です。聖書の教えを完全に守るなんて無理なんですから。
では、私たちが救われるには、どうしたら良いのでしょうか?
それは、神が遣わした者、イエス・キリストを信じることです。イエス様は、「神のわざ」は、「神が遣わした者をあなたがたが信じること」だと言っています。「神のわざ」は人間が努力して実施するものではありません。「神のわざ」は、神様ご自身が計画を立て、実施されたことなのです。それは、
キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
Ⅰコリント 15:3,4
です。
私たちは、ただ、神が遣わした者、イエス・キリストを信じるだけです。聖書に、
もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
ローマ 10:9
とある通りです。
パウロは、それでもなお、聖書の教えを守ることで、救われようとしているなら、次のように警告しています。
律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。
ガラテヤ 5:4
無駄な努力を止めましょう。私たちは、神様の恵みによって、救われたのですから。私たちが聖書の教えを守ろうとするのは、神様が私たちを愛して下さったことを知ったからです。動機が違いますし、守ることに失敗したからと言って、私たちを裁くものはありません。
2.いのちのパン
6:30 それで、彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。
6:31 私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」
6:32 それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。
6:33 神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」
6:34 そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」
6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
人々は、イエス様ご自身が「神が遣わした者」であると言われるのを聞きました。そこで、彼らは、イエス様を信じるために、何かしるし(奇跡)をみせてほしいと言いました。彼らユダヤ人の祖先には、神が遣わした者モーセがいます。モーセは、エジプトから解放するために、神が遣わした者でした。そして、神様は天からのパンとして、マナをモーセを介して、人々に与えたのです。
イスラエルの子らはこれを見て、「これは何だろう」と言い合った。それが何なのかを知らなかったからであった。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として下さったパンだ。」
出エジプト16:15
彼らの要求に対して、イエス様は、「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです」と言いました。それは、「あなたがたは、これまでモーセの律法によって永遠のいのちを得てきたのではない」ということ、すなわち、モーセの律法を守って永遠のいのちを持とうとしたが、いのちは得られなかったというのです。しかし、「わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです」、すなわち、父なる神様は、現在も、本当のパンを与え続けているというのです。この「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるもの」であるとイエス様は言います。すなわち、いのちのパンこそ、イエス様ご自身だと言うのです。
私たちは、身体を維持するために毎日、いろいろな食べ物を必要とします。食べ物を食べないと、飢えて、やがて死んでしまいます。しかし、神と似たものとして創造された人間は、魂を持っています。身体に対して食べ物が必要なように、魂には、神のことばが必要なのです。
それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は【主】の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。
申命記8:3
私たちに、神のことばが無ければ、私たちの魂は飢えて、やがては死んでしまうのです。神のことばは、イエス様ご自身です。
(神の)ことばは人(イエス様)となって、私たちの間に住まわれた。
ヨハネ1:14
私たちがもし、魂の飢え渇きを感じるなら、「主よ、そのパン(イエス様ご自身)をいつも私たちにお与えください」と言うべきなのです。主は、すみやかに、私たちの魂を満たしてくださるはずです。
3.いのちのパンを食す
6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
6:58 これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
イエス様は、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています」と言われました。
昔、この教えを聞いた人々は、人間の血肉を食らう恐ろしい教えだと思う人がいたようです。ユダヤ人にとっては、血を飲む行為は非常識な行為でした。ですから、
これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」
ヨハネ6:60
と言うのも理解できます。
実際にイエス様の血肉を食べないとすれば、イエス様の肉を食べるとは、どんな意味を持つのでしょうか。
イエス様の肉を食べるとは、神の御霊、聖霊を心に迎えることを意味します。また、イエス様の血を飲むとは、イエス様の十字架の血による罪の赦しときよめを信じることです。
それによって、イエス様は「わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます」と言うのです。私たち人間は必ず死にますが、この世の終わりに、イエス様はよみがえらせると言うのです。これが永遠のいのちです。
また、イエス様は、私たちに豊かないのちも約束しておられます。「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです」(ヨハネ10:10)。私たちの魂が飢え渇くことなく、喜びに満ちた人生を与えてくださると言うのです。
イエス様にすがりましょう。
神様の祝福がありますように。
勧士 高橋堅治