水の上を歩くイエス ヨハネの福音書6:14~21

水の上を歩くイエス

今日はヨハネの福音書6章14~21節にあるイエス様が湖の水の上を歩かれたという奇跡について学びます。この奇跡は、弟子たちにとってとても驚くべきことだったようで、マタイ14章22~33節やマルコ6章45~53節にも記されています。

今回は、講解メッセージからは、少し離れますが、これら3つの福音書から見てまいります。

1.目を覚まして祈っていなさい

人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。(ヨハネ6:14)

イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、(ヨハネ6:15)

イエスは弟子たちを無理やり舟に乗り込ませ、向こう岸に先に行かせて、その間に、ご自分は群衆を解散させておられた。(マルコ6:45)

イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。(マタイ14:23)

ヨハネの福音書6章に、イエス様が多くの人々を満腹にした奇跡が書かれています。男だけで5千人、女・子供を含めれば1万人以上の人々を満腹にしたのです。

この奇跡の前、イエス様の弟子たちは、村々での宣教旅行から帰り休息のためにベツサイダ付近に出かけました。イエス様自身もバプテスマのヨハネの死を知り、静かな場所で祈るために同じところに向かったのです。ところが、大勢の人々がイエス様を捜して追いかけてきました。イエス様はこれらの人々を迎え、病人を癒し、福音を語りました。

夕方になって、イエス様は少年が差し出した大麦のパン5つと魚2匹により、パンと魚を振舞いました。そして、多くの人々が満腹になりました。この奇跡を目の当たりにした人々は非常に驚き、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言い、「イエス様(自分)を王にするために連れて行こうとし」たのです。これを知ったイエス様は、まず、弟子たちを無理やり舟に乗せ、それから、イエス様自らが群衆を解散させたのです。弟子たちは、次のようにイエス様を慕ってました。

私たち(弟子たち)は、この方(イエス様)こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。(ルカ24:21)

ですから、群衆の「王様にしよう」という声を聞いたら弟子たちは直ちに賛同し、「先生、時が来ました。いまこそ、決起するときです」と言いかねません。ゆえに、まず、弟子たちを去らせ、興奮状態の群衆を解散させたのです。

イエス様は、奇跡を用いて、パンを作り出しました。それから、人々から王様になることを求められたのです。イエス様にとって、このことは以前に荒野で経験された悪魔の試みと同じです。

そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになるように命じなさい。」

イエスは悪魔に答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」

すると悪魔はイエスを高いところに連れて行き、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、

こう言った。「このような、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう。それは私に任されていて、だれでも私が望む人にあげるのだから。 (ルカ4:3~6)

悪魔はイエス様に「石をパンに変えなさい」と言い、「この世界の権力と栄光をあげよう」と言いました。今回の奇跡は、イエス様がパンを作り、王様にしようという誘惑です。この誘惑に対して、イエス様は、要因となる弟子たちを去らせ、群衆を解散させたのです。それから、ひとり祈るために山に登られました。

イエス様は、祭司長や律法学者たちに捕らえられる前に、「十字架を避けたい」という強い誘惑に直面し、ゲッセマネで祈ったのです。このとき、弟子たちにこのように語っています。

誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。(マタイ26:41)

イエス様は、私たち人間は弱い存在であることを知っておられ、目を覚まして祈り続けることを勧めています。ですから、もし何かで誘惑されたとき、イエス様が行われたように、誘惑を引き起こすものを自分から遠ざけ、心を鎮めて祈る時間を持ってはどうでしょうか。

2.しっかりしなさい、わたしだ

夕方になって、舟は湖の真ん中にあり、 強風が吹いて湖は荒れ始めた。(ヨハネ6:16,マルコ6:47)

舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。(マタイ14:24)

イエスは、弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねているのを見て、夜明けが近づいたころ、湖の上を歩いて彼らのところへ行かれた。そばを通り過ぎるおつもりであった。(マルコ6:48)

二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。(ヨハネ6:19)

イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。(マタイ14:26)

イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。(マタイ14:27)

舟に乗った弟子たちは、あっという間にガリラヤ湖の真ん中に着きました。しかし、強風が吹き始めたのです。

ガリラヤ湖は、ぶどうの房のような形をした湖で、南北21km、東西13kmほどの大きさです。ちょうど善光寺平の大きさです。ガリラヤ湖面は、海よりも低い海抜マイナス213mです。ガリラヤ湖の西50km先に地中海があります。日中、強い日差しによりガリラヤ湖は暖められ、強い水蒸気が上昇します。そして、地中海付近の冷たい空気が西側の丘陵地帯から湖に流れ込むのです。この流れ込む空気が強風を引き起こします。この強風は、風速15mにも達し、波の3mほどになることがあるようです。私たちの悲しい記憶に残る知床遊覧船沈没事故では、欠損がある全長12mの遊覧船に当時3mの波が襲い沈没したと言われています。一方、1986年、ガリラヤ湖北西岸で、一世紀の古代舟が発掘されました。全長8m程の木造舟で、弟子たちの舟が同程度だとすれば、3mの波となれば大変な情況だったはずです。弟子たちにはペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人の漁師がいました。しかし、この強風下では舟を思うように漕げなかったようです。夕方(午後6時頃)、湖の真ん中(岸から6km)にあった舟は、夜明け近く(午前3時頃)になっても、岸から5km(25から30スタディオン、1スタディオンは185m)で、殆ど移動していなかったのおですから。彼らは約9時間の間、必死に漕いでいたけれども、お手上げ状態だったのです。

しかし、イエス様は、「弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねているのを見て」いました。そこで、夜明け近くに、弟子たちのところに歩いて向かいました。しかし、イエス様は弟子たちを助けようとせず、「そばを通り過ぎるおつもりであった」(マルコ6:48)のです。何故でしょうか。

旧約聖書に、大変な状況下に陥っている人物に、神が通り過ぎたという出来事が記されています。その人物は、エリヤです。エリヤは、王妃イゼベルから命を狙われて逃亡しました。逃亡に疲れ切ったエリヤを神はホレブ山に行くことを勧めます。

主は言われた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」するとそのとき、主が通り過ぎた。主の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。(Ⅰ列王記19:11,12)

神すら見失ったエリヤを、神が通り過ぎました。そのとき、彼は大きな風、地震、火を見ましたが、神を見失ったままです。しかし、静かになったとき、彼は、彼に語る微かな声を聞いたのです。

さて、弟子たちは、9時間の間、風と波に翻弄され、転覆の恐怖と疲れがピークを迎えていました。舟には嵐を鎮めるイエス様も居ません。彼らはエリヤのように神を見失った状態だったのです。しかし、暗闇の中、湖に人影が見えます。彼らは、幽霊だと思い、恐怖で怯えました。このとき、イエス様は、弟子たちに語りかけたのです「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と。

私たちの人生を振り返ってみて下さい。この嵐のような状態、先が見えず、そして恐怖と疲労で何も出来ない状況に陥ったことはありませんか。そのとき、神も仏も無いと自分の運命を呪うこともあったかもしれません。でも、イエス様は、私たちの大変な情況を見ておられ、私たちのところに来ておられた筈です。私たちは、どうしてそこから助け出されたのでしょうか。そこに、不思議な出来事があったかもしれません。弟子たちと同じように、私たちに「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と語って下さったお方を見出すことはできるでしょうか。もし、そこに主がおられたことを見つけたら、今でも遅くありません、主を褒めたたえてはいかがでしょう。

3.キリストについてのことばを通して

するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。(マタイ14:28)

イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。(マタイ14:29)

ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。(マタイ14:30)

 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」(マタイ14:31)

彼らのいる舟に乗り込まれると、風はやんだ。弟子たちは心の中で非常に驚いた。(マルコ6:51)

舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。(マタイ14:33)

彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになっていたからである。(マルコ6:52)

それから、彼らは湖を渡ってゲネサレの地に着き、舟をつないだ。(マルコ6:53)

弟子たちはイエス様が水の上を歩いて渡って来られたことに驚きました。そのとき、ペテロは「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言います。

ペテロは好奇心が強く、なんでもやってみようと思う積極的な人物だったようです。彼は、イエス様が命じれば、イエス様のように水の上を歩くこともできると思いました。イエス様はペテロに「来なさい」と言い、彼は水の上を歩くことができたのです。

以前、韓国でこんなことがありました。三人の若く熱心なクリスチャン女性が次のように言いました。「わたしたちが水の中を歩けない話ってあるかしら?だって、ペテロは水の上を歩いたし、ペテロの神様は、わたしたちの神様、ペテロのイエス様は私たちのイエス様。ペテロの信仰はわたしたちの信仰じゃないかしら。あのペテロだって信じたのだから、私たちももっと信じましょう。さあ、この川を渡りましょう。」彼女たちは大雨で水嵩が増した川に入って行きました。しかし、三人は流され、三日後に亡くなった状態で見つかりました。このときの新聞記事には「神、けなげな少女たちを救いえず」と書かれたようです。この出来事で多くのクリスチャンが信仰を捨てたそうです。

聖書には、

イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」(マタイ17:20)

と書いてあります。更に、

今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。(ヨハネ16:24)

とも書かれています。ヨハネの福音書では、ほかの4箇所で同じように、イエス様は「わたしの名前によって求めるものは与えられる」と約束されています。ですから、私たちはお祈りのとき、イエス様のお名前で祈ります。でも、その祈りが答えられると本当に信じているでしょうか。これまで答えられないことに失望していないでしょうか。

それでは、次のことを一緒に考えてみましょう。

質問1:

イエス様が「来なさい」という言葉を言う前に、ペテロは、「信じれば、自分もイエス様のように水の上を歩くことができる」と考え、舟から湖の上に出たらどうなると思いますか?

質問2:

イエス様が「来なさい」という言葉を聞いて、アンデレが舟から湖の上に出たら、アンデレはどうなると思いますか?

質問1,2の回答は「溺れる」です。何故か、イエス様の「来なさい」という言葉は、ペテロ個人に向けられたもので、イエス様の権威によりペテロが湖の上を歩けるようになったからです。

聖書の「ことば」という単語には二種類あります。

ひとつは、ロゴス、 聖書に記された神の言葉を示します。聖書を読むとき、私たちはロゴスを読んでいるのです。

もうひとつは、レーマ、神様から対象者に直接語られた言葉です。神の声と言っても良いでしょう。

聖書でレーマが用いられている御言葉の例を挙げますと、

イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」 (マタイ4:4)

この「神の口から出る一つ一つのことば」の「ことば」がレーマという単語です。すなわち、私たちは食べ物だけで生きるのではなく、神様から私たちに直接語りかけられることばで生きるということです。御言葉をただ読むのではなく、神様からの声として自分の心に受けとめることが必要です。

ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。(ローマ10:17)

信仰は、キリストについて、私たちに与えられた「ことば」を通して実現する(始まる)のです。キリストの御言葉が心に入り、私たちを変えていくことが信仰と言ってもよいでしょう。

レーマは、神様から直接語りかけられた言葉のことです。「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現する」とあるように、私たち一人一人にキリストから直接語られる言葉が実現するのです。このレーマこそが、私たちを生かし、癒し、変えるのです。

では、このレーマを聞くにはどうすれば良いのでしょうか。まず、自分の思いを神様に委ねることです。先に自分で決めてしまったら、私たちは神様のことばを聞くことはできません。そして、神様の言葉が最善であると信じることが必要です。このためには、幼いサムエルの祈り、「お話しください。しもべは聞いております」(Ⅰサムエル3:10)が良いでしょう。

もし神様からレーマを頂いたとしたら、次のように判断すると良いと言われています。

  • その言葉を頂いたとき、心に平安がある
  • 頂いた言葉が、聖書の御言葉、神様の御心に沿ったものである
  • その言葉が自分の心に長い間留まる。
  • その言葉は、多くの人々にとっても最善なことになる。

なお、レーマによる神様の約束は、神様の時と環境が整ったときに実現するものです。

これは私が26年前に頂いたレーマです。

私は、家内と結婚したとき、両親が救われることを毎朝祈っていました。その祈りがとても自己中心的であることに私は気づきました。もし、両親が救われれば、私の信仰を認めてもらえると考えたのです。

それに気づいたとき、主は私に次のように語って下さったことを今もはっきり覚えています。

「あなたには、将来、子供が与えられる。子供を育てる中で、あなたは、両親があなたを愛していることを知るだろう」

何故、このような言葉を頂いたのかは分かりませんが、それからちょうど、1年後に私たちは長男を授かりました。そして、二人の子供たちを与えらえたのです。あのときからすでに26年が経ち、子供たちは立派に成長しました。先日、次男のことについて祈っていたとき、主は幼い次男が魚をじっと見ているイメージを見せてくれました。それまで、私が忘れていた次男の愛らしい姿を思い起こし、私自身が息子を愛していることに気づかせて頂きました。そして、26年前に語られた言葉の意味を改めて思い起こしたのです。両親にとっても私がかけがえのない息子であり、私はその両親を心から尊敬して愛していることに気づいたのです。

私たちの人生を振り返ったとき、大変なときが必ずあり、それを乗り越えて私たちの現在があります。大変なとき、もし、主が近くにおられることを知っていれば、状況は変わらなくとも、主の声を聞いて私たちは乗り越える力を頂くことができるはずです。そして、主の声を聞けば、その声の約束の通りになることを通して、私たちは益々、主を愛し信頼するでしょう。

神様の祝福があなたと共にありますように。

勧士 高橋堅治