ルカの福音書12章35~40節のイエス様のたとえから、イエス様の再臨について学びましょう。
1.再臨を待ち望む姿勢
イエス様は、2000年前にユダヤのベツレヘムにお生まれになりました。そして、このイエス様がお生まれになったことをお祝いするのがクリスマスです。そして、イエス様はユダヤのナザレと呼ばれる村で育ち、30歳までは人目につかないような生活をしました。イエス様の父ヨセフは大工であり、また、父ヨセフが早く亡くなったために、イエス様は早くから大工のせがれとして一家を支えていたようです。そして、バプテスマのヨハネが出現し、その悔い改めの活動でイエス様が世に現れます。それから、神の国の福音を述べ伝え、三年半の活動をなさいました。この福音を述べ伝える活動の最後に、イエス様にとっての最大の出来事、十字架の死、と復活がありました。そして、復活なさったイエス様は、40日後、天国に昇られたと聖書に記されています。天国に昇ったイエス様は、今、どうされているかというと、へブル人への手紙8:1にありますように、父なる神様の右に座られ、大祭司として私達のためにとりなしをしておられます。
さて、この世界に目と留めたとき、このままで永遠に続くのかというと、聖書には必ず、この世界に終わりがやって来ると記されています。この世界の終わりは、どうなるのかというと、聖書には、天国に昇られたイエス様が、再び、この世界に戻って来られると記されています。それは、2000年前に、イエス様が貧しい馬小屋にお生まれになったときのような幼子としてではなく、また、人の姿ではなく、栄光と権威に満ちた神の国の王として地上にやってこられるのです。
そして、この世界が終わるとき、再び、イエス様がこの世に戻って来られることを、「再び臨む」と書いて、再臨と呼んでいます。この世界が終わってほしいと思っておりますか?
もし、イエス様の再臨を祈るなら、それは、世界の終わりを願うことでもあり、私達は実に大変なことを神様に願っていることになります。
イエス様の再臨のときに、何が起こるのでしょうか。世界の終わりと聞くととても恐ろしく感じます。それは戦争や災害、自然破壊などがもたらし、人類が絶滅することだと思っているからかもしれません。聖書は、戦争や様々な災害、自然破壊などは、この世が終わる前兆として起こることであるけれど、それが世界の終わりではないと言っています。聖書がいう世界の終わりは、ただひとつ、イエス様が再臨されることです。イエス様の再臨が、人々に何をもたらすかというと、それは、さばきと栄光であると言われております。有名な宗教家のジョン・ウェスレーは、そのさばきのときを、「我々はゆりかごから墓場に至るまでのすべての行いについて、すべての言葉、すべての欲求と気質、すべての思いと意図、心・体・財産といった種々の賜物をどのように使ってきたかということもすべて、申し開きをしなければならない」と言っています。栄光については、パウロが、Ⅱテモテ4:8で、彼が死を前にして「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」と述べています。イエス様が再臨されるとき、すべての人がさばきを受けること、そして、イエス様の十字架の功績による義の栄冠を、主の現れを慕い求める人、すなわち、イエス様の再臨を願う者に授けて下さるのです。
ルカの福音書12章35~40節の御言葉は、イエス様の再臨に備える私たちの姿勢がどうあるべきかを、イエス様がたとえを用いて語られたところです。ここでイエス様は、再臨を待つ私たちに対して、ちょうど、婚礼から帰ってくる主人を待つしもべのようでありなさいと言っておられます。
当時のユダヤの婚礼は、日本の今の婚礼とは大分違うようです。ユダヤでは、結婚式の行事は、夕方に始まったようです。それは、花婿と花婿の友人らが、花嫁の家に花嫁を迎えに出向くことから始まります。花嫁の家へ出発する前に、花婿の友人たちは花婿へのお祝いのスピーチをし、また花婿をたたえる詩を朗読したり、花婿の家族のために歌を歌ったりしました。それだから、彼らが実際に花嫁の家に向かって花婿の家を出発するのは、実に真夜中近くになったようです。一方、このような花婿一行を、花嫁とその花嫁の友人たちは、花嫁の家でじっと待つのです。これは、マタイの福音書25章の「花婿を出迎える10人の娘」のたとえに記されている花嫁の友人たちの姿勢です。花婿を迎えることは、花嫁の友人たちにとっても睡魔との闘いのときだったようです。こうして、花婿が再び、花嫁を連れて自宅に戻るのは、かなり遅い時刻になるのです。花嫁が着いたら、結婚式が執り行われ、引き続き、宴会が行われます。すなわち、婚礼の招待客も、結婚式当日は、かなり遅い時刻まで拘束され、帰宅するのは夜明け前ということもあるようです。すなわち、婚礼に招待され出かけた人のしもべたちは、遅くまで主人の帰りをまつことが必要でした。
さて、ルカ13:35-36では、イエス様は、「腰に帯を締め、あかりをともしていなさい」と忠告しています。腰に帯を締めるとは、準備を完全に整えておくことを言っています。また、あかりをともしている、これはあかりをともし続けることで、夜遅くに主人が帰ってくることを想定して準備していることです。すなわち、しもべは、主人が帰ってきて戸を叩いたら、すぐに戸を開けることができるように準備しておくことを勧めています。
このたとえに記されているしもべの準備は、主人であるイエス様に対する、しもべである私たち、イエス様を信じる者が行うべき準備をいいます。私たちは、イエス様の再臨に対して、準備を怠らないようにすることを、イエス様は話しておられるのです。
では、私たちは何を準備したらいいのでしょうか。しもべたちの普段は、主人が眠りについた後に、しもべたちも床に就いて休みます。しかし、主人が留守のときは、しもべたちは主人の帰りを待つということが一番大切な仕事なのです。そして、主人の留守であっても、彼らは主人の家に留まって、主人から言いつけられた留守中の仕事を行います。すなわち、主人の帰りをじっと待ち、いつ主人が帰って来られてもいいように、主人の家を適切に管理するのです。これは、イエス様が帰られるのを待ちつつ、イエス様の家、教会、そして私たちが神様から預かったものを大切に管理するということなのです。
2.幸いな者
37節、38節では、イエス様の再臨に際して、幸いな者の2つの例が語られております。
ひとつは、主人に「目をさましているところを見られるしもべたち」が幸いである。もうひとつは、「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、いつでもそのようであることを見られる」しもべたちが幸いであるということです。幸いな者の2つの例には、目を覚ましていることと、主人に見てもらえるという共通した事柄があります。「目を覚ます」とは、信仰をもって歩んでいること、主人に見てもらえるとは、イエス様に私たちの信仰を知っていただくことを意味します。
もし、私たちが信仰をもって、再臨のイエス様に出会うなら、私たちにどのようなことを約束しているでしょうか。聖書には、「主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれ」ると記されています。この箇所は、主人がしもべに給仕をするという普通では、ありえないことが記されています。たとえの中にある普通ではありえない事柄は、重要な教えが隠されているところです。この主人は、しもべの主人を待つ姿勢をみて、しもべを食卓に着かせて、主人自らがしもべに給仕するというのです。ここには、主人であるイエス様の姿勢が見られます。ご存じのように、イエス様は、最後の晩餐のときに、イエス様自らが弟子たちの足を洗いました。それは、イエス様が、私たちをしもべと呼ばずに、友の身分にしてくださる約束でした。再臨のイエス様は、イエス様を待つ私たちをイエス様の友として扱ってくださるというのです。
ところで、私たちにとって、目を覚ましたままでいるということは、時によっては、とても難しいことです。難しい話を聞く時、眠くなるときがあると思います。また、緊張しているときに、緊張の糸が切れて眠ってしまったという経験を持つ方が多いと思います。
私の場合ですが、私の家の前にいかり川という小さな河川がありますが、そこには排水機場、ポンプ小屋があります。雨が多く降ったとき、沢山川が満水となると、それ以上、水をポンプで上げることが出来なくなり、ポンプ小屋のポンプを停止させます。ポンプが止まると、川の水はみるみるうちに上昇し、道にあふれ出します。子供が小さいころ、私は家の二階で沢山川の水をじっと見ていました。いつ、満水になるかわからなかったからです。ところが、長い時間を要したので、私の緊張の糸が切れ、寝入ってしまいました。家内の声に気が付き、飛び起きたときは、もうポンプ小屋のポンプが止まろうとしていた慌ただしいときでした。幸い、気が付いたのが早かったので、すぐに家内と子供を家内の実家に避難させました。10分ほど、遅れていたら、避難は出来なかったと思います。寝入ってしまうと、大切なときを逃してしまうことがあるのです。この対策は、ひとつは、「自分は眠らない」と過信せず、家族にも頼ること、平素から災害の対応できるように準備しておくことかと思います。
このような災害のときの寝落ちは、ときによって生死を分けるほどに重大なことが起こる可能性があります。特に地震や火事などは本当に危険なのです。
イエス様の再臨についてはどうでしょう。もし、信仰の寝落ち、たとえば、この世の様々な気遣いから、信仰から離れてしまうなどがあります。その結果、イエス様の再臨に出会うことが出来ないなら、それは、残念では済まされないことです。
3.主人の心(39-40)
イエス様は、最初に、「このことを知っておきなさい」と言われました。これは、心得ておきなさいという意味で、イエス様が私たちに重要なことを語られるときにお用いになるお言葉です。大切なことだから、私たちがきちんと理解するように、イエス様は語られておられます。
なにが大切かというと、「もしも家の主人が、どろぼうの来る時間を知っていたなら、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのですから。」という御言葉です。
それは、家の主人が泥棒の来る時間を知っていたら、主人は泥棒に入られることを許す筈がありません。ところが、私たちは泥棒がいつ来るかを知らず、知らないうちに泥棒に入られてしまうのです。その対策は、あらかじめ、きちんと用心することです。そして、同様に、イエス様は言っておられるのが、家の主人、イエス様がいつ来られるかは私たちに知らされていません。泥棒のように、突如、おいでになるというのです。
では、私たちはどのようにすべきなのでしょうか。
私たちは、泥棒に用心するように、イエス様に用心する、すなわち、イエス様が再び来られる心構えをもって待つ姿勢が必要なのです。
さて、ルカの福音書12章41節以下では、「再臨に備える賢いしもべ」についてのたとえが加えて記されています。その45節に、悪いしもべについて記されています。彼は、「主人の帰りはまだだ」と心の中で思っていたため、しもべとして主人を待つ姿勢を怠ってしまいました。その結果、主人が思いがけないときに帰ってきて、彼の不忠実を見て厳しく罰したのです。それは、47節に記されているように、このしもべは、「主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべ」とみられたからです。すなわち、私たちは、主人の心を配慮し、主人に仕えていくことが必要なのです。
それでは、イエス様がどうして再臨を遅くされているのかを考えてみましょう。それが、主人であるイエス様の心だからです。
ペテロの手紙 第二3:9に「 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」と記されています。
すなわち、イエス様が、再臨を遅らせているのは、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるからというのです。それは、イエス様にとって再臨は、さばきに伴う苦しみを持つものだからです。
ルカの福音書12:50に、「わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。」と記されていますが、これは、イエス様が行うこととなっているバプテスマ、すなわち、最後の裁きについて、イエス様ご自身が大きな苦しみをお持ちであるということなのです。イエス様は、一人として滅びることを望んでおられないのです。
私たちは、イエス様のご愛を知っております。イエス様は、私たちひとりひとりを愛され、私たちのために、ご自身のいのちまで十字架に捧げられたお方です。それは、私たちの罪を赦し、永遠の命を与えるためです(ヨハネ3:16)。このすべての人が悔い改められ、救われるというイエス様の強い願いがある一方、再臨のときは、イエス様がすべての人を裁き、ある魂には永遠の死の宣告をしなければならないのです。私達に対する憐み深いイエス様のお心を察すれば、その裁きがイエス様にとってどれほど大変なことであるかがわかります。ルカ12:47にあるように、イエス様は、この主人であるイエス様の心を知りながらも、主人が遅いからと、イエス様のお気持ちを逆なでするような生活をする者にどれ程、悲しまれるかわかりません。
このさばきに伴う苦しみをもって再臨されるイエス様を、私たちはどのような姿勢でお迎えすればよいのでしょうか。
私は、このイエス様のお心を知らずに、これまで歩んできたことに恥じるばかりです。
主の再臨を待ち望んで祈るとき、私たちは、主のお心、すべての人が悔い改めに進むことを望んでらっしゃること、人々の裁きに対して心を痛めておられるイエス様を心に覚えて祈りましょう。祈りに続くもの、それはイエス様のお心を自分自身のように受け止め、出て行ってイエス様の救いを証しし、イエス様の福音を伝えていくことではないでしょうか。 イエス様の再臨を待ち望む私たちの姿勢だと思います。
勧士 高橋堅治