捜し求める神 ルカ15:1~10


コロナ禍になって、知人や友人との会食がかなり減ったのではないでしょうか。教会でも愛餐会が出来なくなってかなり立ちます。私たちが互いに親密なコミュニケーションを取るためには、食事はとても重要です。会社によっては、宴会、接待の場を得意とする方もおり、私も若い頃は、まわりを巻き込む宴会ということで訓練され、自分たちのグループ以外のところにお酌に出向き、最終的には大きな集まりになって楽しむということを学びました。

福音書には、多くの食事での話が出てきます。

今日は、ルカの福音書15章から学びましょう。

  1. イエス様の食事会

前回のルカの福音書14章の話も、パリサイ人の指導者に、イエス様が食事に招待された場面でした。このとき、パリサイ人の指導者は、イエス様と病人のほかは、自分の仲間たちを招待し、その面前でイエス様をさらしものにしたという本来、宴会の席ではあってはならないことをしました。

このルカの福音書15章でも、今度は、取税人や罪人と呼ばれる人々が、イエス様のお話を聞くために、イエス様と一緒に食事をなさったことが記されています。そして、その食事の席には、パリサイ人と律法学者も同席したようです。あくまでも、推測ですが、あるイエス様を慕う人がイエス様のための食事会を開こうとしたとき、イエス様の普段のお話を聞いて、パリサイ人、律法学者、取税人、罪人を一緒に食事に招いたものではないかと思われます。

この食事の席を伴った人々がどんな人々だったかおさらいしましょう。日本では、表社会というのは一般的な社会を表し、裏社会を犯罪が関わる社会と表現することがあります。このように分類すると、パリサイ人、律法学者は、りっぱな人々、表社会の代表者、取税人、罪人は悪い人々、裏社会の代表者と言えるかもしれません。

パリサイ人:パリサイ人は、敬虔で規律正しい生活を送り、幼い頃から律法を守る教育を受けて育った人々です。ユダヤの人々は、祭司たちよりも、パリサイ人の宗教的指導に従うほどでした。ユダヤの最高議会サンヘドリンを支配し、今でいう政治家、宗教家、教師に相当します。

律法学者:律法学者は、律法を伝える学者で、彼らの律法の解釈が、聖書の御言葉よりも重要視され、彼らの解釈した規則が人々に対して拘束力をもつようになりました。彼らは、40歳になると、弁護士、裁判官、司法・行政などの役職に就くことができ、人々から最も尊敬されていました。

取税人:取税人は、ローマ帝国の後ろ盾を受け、ローマ帝国に納めるため、税金を集める者で、集めたその一部を自分の懐に入れることが許されていました。厳しい取り立てもあり、同胞のユダヤ人からは、ローマ帝国の犬、売国奴と言われて、憎まれました。

罪人:ユダヤのしきたりを守ろうとしなかった反社会勢力と言われる人々です。実際に犯罪を犯した人も含まれていたようです。

そして、このイエス様の食事会に、これらのユダヤのりっぱな人と悪いやつらが一緒の席に招待されたことになります。住む世界が違う人々が、イエス様の食事会にいました。

パリサイ人や律法学者からすれば、軽蔑する取税人や罪人らが同じ食事の席にいることが、とても嫌だったと思います。彼らがイエス様と親しく言葉を交わしていたことに、イエス様に対して、しつこく、文句を言ったのでした。

しかし、考えてみますと、イエス様が招いた人々は、当時のユダヤ人社会を代表する人々でした。それは、神様からみたときに、人間が定めた、尊い・卑しいという社会的身分(貴賤の差)は関係ありません。実際にこれらの人々で神の国は構成されます。これは、私たちの教会にも言えることだと思います。私たち一人一人は、キリストのからだの部分であり、そこに上下関係はなく、すべての人が対等なのです。私たちは、主の家の家族です。イエス様は、どのような人でもその垣根を取り除いて下さり、家族として共に喜び、共に悲しみ、共に祈りあうことを願っておられるのです。

あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。 Ⅰコリント12:27

  1. 捜し求める神

イエス様は、パリサイ人と律法学者の文句を受けて、彼らにたとえを用いて話されました。

イエス様は3つのたとえを語られました。本日は、3つのうち、先の2つのたとえを見ていきます。なお、三つ目の放蕩息子のたとえは次回、学ぶ予定です。

(1)100匹の羊

15:4 「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。

15:5 見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、

15:6 家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。

15:7 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。

イエス様は、100匹の羊を持っている1人の羊飼いを例に挙げました。そして、1匹の羊を失ったため、残りの99匹を野に残したままで、羊飼いは羊を探しに出かけたのです。ここに、野には狼などがいるため、この1匹のために、99匹を危険にさらすという、常識では考えられない羊飼いの行動がみられます。失った1匹を懸命に捜す、羊飼いの強い意志と行動が表現されています。

旧約聖書エゼキエル書34章を開く(イエス様の時代の600年前の預言者の言葉)

エゼキエル34:6-11

34:6 わたしの羊はすべての山々、すべての高い丘をさまよった。わたしの羊は地の全面に散らされ、尋ね求める者もなく、捜す者もない。

34:7 それゆえ、牧者たちよ、【主】のことばを聞け。

34:8 わたしは生きている──【神】である主のことば──。わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないために、あらゆる野の獣の餌食となってきた。それなのに、わたしの牧者たちはわたしの羊を捜し求めず、かえって自分自身を養って、わたしの羊を養ってこなかった。

34:9 それゆえ、牧者たちよ、【主】のことばを聞け。

34:10 【神】である主はこう言う。わたしは牧者たちを敵とし、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。もはや牧者たちが自分自身を養うことはなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らの餌食にさせない。』」

34:11 まことに、【神】である主はこう言われる。「見よ。わたしは自分でわたしの羊の群れを捜し求め、これを捜し出す。

エゼキエル書は、預言者エゼキエルを通して、神様が、イスラエルの牧者たち、すなわち、イスラエルの指導者たちに対して、語り掛けたお言葉です。羊は民を示しています。34章6節、「わたしの羊はすべての山々、すべての高い丘をさまよった。わたしの羊は地の全面に散らされ、尋ね求める者もなく、捜す者もない」と、神様は、さ迷うご自身の民に対して、散らされ、捜す者がいないと嘆いています。そこで、神様は「見よ。わたしは自分でわたしの羊の群れを捜し求め、これを捜し出す」と、神様自らが、ご自身の民を捜すと宣言されたのです。

神様から失われ、さ迷う人のことを、聖書で「罪人」と呼びます。

それは罪のことを、ギリシア語でαμαρτια(ハマースィア)といい、人が神様から離れて、神様にそむいている心の状態を言うからです。聖書は、罪の心が、神様と人、そして自分を汚す、すなわち、人殺し、不品行、盗み、嘘、ねたみと呼ばれる悪い思いが生じると言っています。実際の犯罪などは、この思いが行動として現れることなのです。

パウロは、ローマ7章で、この罪のからだを嘆いています。

7:23 私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。

7:24 私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

ところが、羊飼いで表された神様は、この失われた、さ迷った罪人を捜し求め、みつけたら、自らが肩に担いで、家に帰り、大喜びをするというのです。

この見つかった羊を担ぐとは、罪人の罪がつけられた十字架を担がれるイエス様を表しています。そして、罪人を共に天国に連れて行き、そこで大喜びされるというのです。

パリサイ人や律法学者たちは、取税人、罪人を、神様に受け入れてもらえない、役立たず者と考えていました。ですから、彼らは、だから、まず律法を守ることから始めよと思っていたのです。

しかし、聖書にはそのように記されていません。預言者エゼキエルが語った神様の御言葉、そして、イエス様が語られたたとえから、罪人を捜し求める神様、みつけたとき、大喜びする神様が描かれています。

ですから、私たちは、神様が招いておられるとき、自分が正しくなってからとか、よい生活習慣をつけてからなど、言い訳はやめましょう。そのままで、神様の元に帰ればいいのです。

  1. 10枚の銀貨

それから、イエス様は十枚の銀貨を亡くした女性のたとえを話されました。

15:8 また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。

15:9 見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。

15:10 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」

この女性が探していた銀貨は、彼女にとって特別なものだったのかもしれません。特に、当時、ユダヤでは女性の頭を飾る装飾品に複数の銀貨が取り付けられたものがありました。もし、その1枚が無くなったら、不完全でみっともないものになります。

ですから、女性は、失くした1枚の銀貨を必死に探したのです。明かりを灯し、家を掃除をし、大切な銀貨を丹念に探します。

この女性は、羊飼いのたとえのように、神様のことを表しています。神様は、価値ある銀貨、失った罪人を探すために、見やすいように、明かりをつけ、掃除するのです。

この明かりは、ヨハネ1:4にある光で、イエス様を表しています。

ヨハネ1:4-5

1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。

1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

この闇に例えられる世界を、イエス様の光で灯し、失った銀貨である罪人を捜します。この時代、神様は私たちをお用いになります。私たちが出て行って、遣わされているところ、それは家庭かもしれません、また、職場の方もいるでしょう。そのところで、イエス様の灯を持つ世の光の存在として、神様から失われた方々に、笑顔や明るく挨拶し愛していく、そうすれば、私たちは、捜し求める神様の担い手になるのではないでしょうか。

3.一人の罪人の悔い改め

ふたつのたとえでは、一人の罪人が悔い改めるとき、大きな喜びが、天に、そして、み使いたちの前にあるとあります。この大きな喜びは、神様の喜びです。

罪人の悔い改めとはなんでしょうか。教会では、よく悔い改めをしなさいとを言われますが、すこし嫌な気持ちになりますね。なぜかというと、いままでの悪いことを告白し、懺悔することだと思う方が多いのではないでしょうか。正確には少し違います。

先に罪とは、神様から離れ、神様に逆らおうとする心であると申し上げました。それは、ちょうど、神様と喧嘩をして、家出をしてしまった状態です。悔い改めは、ただ、神様の元に戻ることを意味しています。

この両方のたとえでは、自らが神様のもとに帰るのでなく、神様が捜し出し、連れ戻すことを悔い改めとして表現しています。私たちが悔い改めのために、特別に何かをするのではなく、実は神様の方で悔い改めに必要なことされるのです。

聖書ローマ5:6に、

ローマ5:6 

実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。

それは、私たちが神様を受け入れず、信仰もないときに、既に私たちのために、イエス様が十字架で死を遂げられたとあります。私たちが、イエス様の十字架の死が、私のためであると受け入れるなら、神様は、私たちの罪を赦し、神様は私たちを受け入れて下さるのです。

ロマ5:8

 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

神様のご愛は、一人の罪人の悔い改めが大喜びすることに表されているのです。

イエス様は、パリサイ人と律法学者に、たとえを通して、罪人を捜し求めている神様、その神様の喜びは、ひとりの罪人が悔い改めることであることを伝えました。そして、イエス様は、彼らも、神様が捜しておられるひとりの罪人であることを知ってほしかったはずです。でも、彼らは、みずからが罪人であり、悔い改める必要があることが、分からなかったのでした。

三浦綾子さんが書いた小説「塩狩峠」をご存じだと思います。その中の記事のひとつに、主人公の永野が、路傍伝道をする伊木一馬に出会うシーンがあります。伊木が「イエスを神の子として信じるか」と問い、永野は「信じます」といいました。あまりにもきっぱり永野が答えたので、「いま聞いたばかりで、すぐにイエスを信ずることができますか」と尋ねたのです。永野は、自分の身内がみな信者であり、自らもキリスト教に関心をもっていたことを伝えたのです。そして、伝道師は言います「しかしね、君はひとつ忘れていることがある。君はなぜイエスが十字架にかかったかを知っていますか」

永野は答えました「この世のすべての罪を背負って十字架にかかられた」と。

伝道師は、「十字架につけたのはあなた自身だということを、わかっていますか」と聞いたとき、永野は、手を大きく振り、「とんでもない。ぼくは、キリストを十字架につけた覚えはありません」と答えました。伝道師は「それじゃ、君はキリストと何の縁もない人間ですよ。」

この小説に、聖書の真理が隠されています。たとえ、キリスト教に関心があり、聖書をよく学び、更にイエス様がすべての人の罪を背負って十字架にかかられたことが分かっていたとしても、その人が、イエス様を十字架につけたのは私自身ですと認めなければ、実は、イエス様と何の関係もない人なのです。

永野は、どうしたかというと、伝道師のアドバイス、すなわち、聖書のひとつの御言葉を徹底的に実行することを試そうとしました。そこで、永野は、同僚の三堀の隣人になろうとしたのです。その結果、永野は、同僚三堀を見下し、傲慢な自分を発見しました。彼は、初めて自分には罪があること、その罪がイエス様を十字架につけたことを知ったのです。

今日、みなさんに知っていただきたいことは、神様は、いまも失った者を捜しておられること、そのために、イエス様がこの世界に来てくださったことです。

もし、あなたが、神様から離れていた、逆らっていたと思われるなら、今、イエス様があなたを救いに招いておられることを知って頂きたいのです。イエス様は、ご自分の十字架の苦しみに代えてでも、あなたを父なる神様の元に招きたいのです。

既に、イエス様によって救われたみなさん、どうか、神様が今も罪人を捜しておられることを知って頂き、その家庭、職場、遣わされているところでイエス様の光となってください。

それは、神様は、「だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」からです。Ⅱペテロ 3:9

勧士 高橋堅治