今週は、受難週です。受難週とは、イエスが十字架で亡くなるまでの一週間のことです。今回のメッセージ題は、「イエスの十字架を負う」です。ところで、イエスは、三年半の公生涯で、何度か十字架を負うことについて話されました。
自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
マタイ 10:38
それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
マタイ 16:24(マルコ8:34,ルカ9:23)
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
ルカ 14:27
今回は「自分の十字架を負う」とは、どういうことかを、一緒に学びます。
1.十字架の目的
まず、イエスが十字架刑になる経緯をみますと、
- ご自分の最後の時が近づいていることを知る(ヨハネ13:1)
- 過越しの祭りの前に、弟子たちと最後の食事をする (ルカ22:7)
- ゲッセマネの園で祈る(ルカ22:40)
- イスカリオテのユダに裏切られ、宗教指導者たちに捕らえられる(ルカ22:47)
- 大祭司の家、最高法院、ピラト、ヘロデのところに連れて行かれる
- ローマ総督ピラトのもとで裁判を受け、十字架刑が決定する(ルカ23:13)
ピラトは、イエスには罪がないことを知っていました(ヨハネ18:38)。でも、群衆の暴動を恐れて(マタイ27:24)、十字架につける判決を下しました (ルカ23:24)。
これまで、多くの人が冤罪で刑罰を受け、死刑にされた人もいました。イエスの場合も冤罪に違いありませんが、他とは少し違います。通常、人々は冤罪を望んでいませんが、イエスご自身は自ら受け入れたのです。それは、以下の聖書の言葉のように。
だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」
ヨハネ10:18
しかし、イエスもひとりの人として、十字架が恐かったのです。彼は、捕まる直前、ゲッセマネの園で葛藤の祈りをしていました。
それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
マタイ26:39
それほど恐ろしい十字架刑をイエスは何故、受け入れられたのでしょうか。
わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。 ヨハネ10:11
イエスは、羊たち、すなわち、彼を信じる人々のために、いのちを捨てられたというのです。それは、
キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。
ガラテヤ 3:13
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
イザヤ53:5
私たちのために、呪われた者になるため、それは私たちが神に背いた罪を赦すためです。
でも、「それは当時の人のためではないか?」とも考える方がいます。それでは、現代の私たちに関係あるのでしょうか。イエスが十字架の死後、復活されます。そして、弟子たちに語った言葉が、次の通りです。
それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。
信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。
マルコ16:15-16
全世界の造られた者には、現代の私たちも含まれています。そして、イエスの福音(罪を赦すための十字架の死、永遠のいのちを与える復活)を信じ、バプテスマ(洗礼)を受けた人は、救われると言うのです。そして、信じない者は罪に定められるのです。このために、イエスは十字架の死を選んだのです。
あなたは、イエスの十字架の死をどう受け止めますか?
2.イエスに出会う
イエスが受けた十字架刑を説明します。イエスの十字架の死を知る上で十字架刑が重要な事柄だからです。
ローマ帝国では、十字架刑が最も残酷な刑罰でした。歴史上でも、十字架刑ほど残酷な刑罰はないとも言われます。なぜ、ローマ帝国は十字架刑を行ったかは、奴隷や政治犯へのみせしめのためです。十字架刑は、肉体的苦痛と精神的苦痛を長時間、受刑者に与えるものでした。
肉体的苦痛としては、最初に鞭打ち、十字架を担ぐ、十字架に架かる苦痛がありました。鞭打ちは、受刑者を瀕死な状態にするため、鉄や骨のくさびが付いた鞭で背中を叩くのです。この鞭打ちで命を落とす人もいたようです。この瀕死の受刑者は、75kgもある重い十字架を背負い、刑が執行される場所まで歩くのです。おおよそ800m程であったと言われます。受刑者が執行場所に到着すると、手足を十字架に釘付けされます。立てられた十字架の上で、身体が腕だけで支えられるため、息ができず、受刑者は十字架上でもだえ苦しむのです。そして、受刑者が亡くなるまで架けたままとする残酷な刑罰なのです。
精神的苦痛は、人々の視線と悪口です。十字架を担ぐ道は、エルサレムのメイン通りで、しかも祭りの最中に行われました。通りで人々は、刑で引かれていく受刑者を嘲笑し、蔑視したのです。詩篇22:6~8では、イエスが受けた人々の嘲笑と蔑視が預言されていました。
しかし私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的民の蔑みの的です。
私を見る者はみな私を嘲ります。口をとがらせ頭を振ります。
「主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」
詩篇22:6~8
さて、ルカ23:26をみると、ひとりの外国人が登場します。
彼らはイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕まえ、この人に十字架を負わせてイエスの後から運ばせた。
ルカ23:26
鞭打たれ、瀕死の状態で十字架を負うイエスは、何度も倒れたようです。刑の執行をするために、イエスに代わって十字架を負わせる人を、ローマ兵たちは群衆から選びました。ユダヤ人の反感を恐れて、彼らの選んだのは外国人でした。クレネ人シモンは、アフリカ北部(現在のリビア)の港町から出てきた人でした。罪人の十字架を代わりに担ぐわけですから、とても不名誉なことです。そればかりか、シモンは75kgもある十字架を負って歩かなければなりません。人々の嘲笑や蔑視も彼にもかけられるのです。彼は、自分の不運を呪い、また、自分を選んだ兵士たちに憤りを感じていたのだと思います。
しかし、十字架を担う彼は、あることに気付いたと思います。
それは、自分の後ろに、多くの民衆や悲しむ女性たちがついて来ることにです。
民衆や、イエスのことを嘆き悲しむ女たちが大きな一群をなして、イエスの後について行った。
ルカ23:27
シモンは、この哀れな受刑者を慕う人々がいることを知り、受刑者に対して、少しばかりの興味を抱いたのではないでしょうか。そのとき、彼の前を歩いていた受刑者が振り返り、女性たちに語りかけたのです。
イエスは彼女たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。
ルカ23:28
シモンは受刑者の言う言葉に驚いたと思います。受刑者は自分自身の事ではなく、泣く女性たちに気遣い、彼女らを優しく労わっているのです。シモンは、十字架を背負いながら、前を歩く受刑者イエスの姿を見て、そして、彼の声を聞き、彼の眼差しを見て、イエスを理解していったのだと思います。
マルコの福音書には、次のように書かれています。
兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。
マルコ15:21
このクレネ人シモンには、アレクサンドロとルフォスという二人の息子がいました。後に使徒パウロは、ローマ人への手紙の中で、このルフォスを次のように言っています。
主にあって選ばれた人ルフォスによろしく。 ローマ16:13
ルフォスは、初代教会で有名な人物だったようです。そして、伝説によれば、クレネ人シモンは、イエスの十字架を背負うことがきっかけでイエスを信じたようなのです。彼は、イエスの十字架を負い、イエスを知り、キリストと信じたのです。
では、イエスは、あなたにとってどんな方でしょうか。
ある人は、イエスを「自分を神とする嘘つきだ」と言います。ちょうど、イエスを十字架に追いやった当時の宗教指導者たちのように。
一方で、イエス様を「私の罪を背負って十字架で死なれた方」と言う人もいます。
あなたはどちらでしょうか。
それは、十字架の目的、イエスの人柄を知れば、答えが出るのではないでしょうか。イエスの十字架を負ったシモンもイエスを証ししています。
3.イエスの十字架を負う
イエスは、自分の十字架を負って、イエスに従う者だけがイエスの弟子であると言いました。「自分の十字架を負う」とはどのような意味をもつのでしょう。
自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
マタイ 10:38
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
ルカ 14:27
もう一度、クレネ人シモンを考えてみますと、彼はイエスの十字架を負いました。それは、シモンにとって、想定外の苦難であり、シモンにとって「自分の十字架」と言ってもよいでしょう。彼は、エルサレムの通りに出るのが少し遅れれば、イエスの十字架を負うという不運に遭遇しなかった筈です。そして、彼のその後の人生も、イエスと何の関わりも無かったのです。「イエスの十字架を負う」ことは、神が与えたシモンにとっての「自分の十字架を負う」ことだったのです。
シモンは、イエスの十字架を負ったとき、十字架の重さ、人々の嘲笑や蔑視を体験しました。しかし、それと共に、彼は、前を歩く、イエスの姿を見、イエスの声を聞き、イエスの眼差しを知りました。彼はイエスを深く知ることが出来たのです。それだけではありません。彼がイエスをキリストと信じたのなら、イエスは彼自身のためにも十字架に架かったことを彼は気づくでしょう。そのとき、彼の十字架の体験、十字架の重さ、人々の嘲笑と蔑視は、本当は自分が負うべきものであったと知るのではないかと思います。イエスは、自分が受けるべき痛みや恥をすべて引き受けて下さった、そして自分には赦しと、愛といのちが与えられることを知ったと思います。
私たちの人生の困難や試練は、神が与えた「自分の十字架」と言えます。その十字架は、実はイエスの十字架なのです。私たちは自分の十字架を負うとき、それを取り除きたいと願い、また、自分の人生を呪うかもしれません。それは私たちにとって耐え難いことだからです。しかし、その中でイエスに従うなら、自分の十字架は、「イエスの十字架」となり、イエスの姿を見たり、言葉を聞き、イエスを深く知ることができます。その十字架の道で、私たちはやがて自分ではなく、イエスご自身を見つめるようになるのです。
あなたに神の祝福がありますように。
勧士 高橋堅治
イエスの受難については、ジーザスクライストスーパースターという映画で何回も見ています。ただ、映画の方では、復活しないのですが。
コメントありがとうございます。
ジーザスクライストスーパースターは、聖書の内容とはかなり違います。
ですから、普通の聖書物語とは違い、聖書を大きく曲解して作成したものと言わざるを得ません。