イエスを見る信仰姿勢 ヨハネ7:10~24


ヨハネの福音書6章の後半から7章にかけては、イエス様に対する人々の不信仰が書かれています。このところから、イエス様の姿勢を学び、信仰とは何かを学びたいと思います。

→ 公開動画 https://youtu.be/yUUxQCd12Zw

1.信じる者を知るイエス
6:61 しかしイエスは、弟子たちがこの話について、小声で文句を言っているのを知って、彼らに言われた。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。
6:62 それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。
6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。
6:64 けれども、あなたがたの中に信じない者たちがいます。」信じない者たちがだれか、ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられたのである。
6:65 そしてイエスは言われた。「ですから、わたしはあなたがたに、『父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのです。」
6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。
6:67 それで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた。
6:68 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。
6:69 私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」
6:70 イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です。」
6:71 イエスはイスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二人の一人であったが、イエスを裏切ろうとしていた。

イエス様が五千人の男性を食べ物で満たす奇跡を見た人々の中には、イエス様を王にしてローマ帝国から独立しようと考える人たちがいました。彼らはイエス様を探し、カペナウムの会堂でイエス様を見つけました。イエス様は、ご自身が「いのちのパン」であり、イエス様の肉を食べ、血を飲む者は永遠の命を持つと話されました。しかし、この話を聞いた弟子たちは、「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか」と小声で不満を漏らしました。おそらく、弟子たちはイエス様の話を聞いて、実際に人間の肉を食べ、生きた血を飲むことを想像してしまったのです。
この弟子たちの不満を聞いて、イエス様は「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。」と言い、弟子たちの誤解を解くために次のように説明しました。「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。けれども、あなたがたの中に信じない者たちがいます」。これは、永遠の命はイエス様の肉体ではなく、神様の御霊によって与えられるものであり、イエス様が語る言葉には神様の権威があり、聖霊と命があることを説明したのです。しかし、多くの弟子たちはイエス様を信じず、彼から離れていきました。
イエス様は、「信じない者たちがだれか、ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられた」と言われるように、人々の信仰の有無を見抜く力を持っていました。イエス様は、弟子たちが信仰を持っているかどうかに関心を持っておられたのです。
イエス様は、十二弟子に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と尋ねられました。その質問にペテロは、「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています」と言いました。イエス様は、ペテロが、「神の聖者」、聖者はキリストの意味を持ちますから、神のキリストと信じ、知っていますという言葉は、イエス様の喜ぶ答えなのです。
では、離れて行った多くの弟子たちは、何が欠けていたのでしょうか。彼らも、イエス様の弟子になり、イエス様と共に歩んだはずです。何度か説明していますが、当時は、ユダヤをローマ帝国から解放する政治的指導者が表れることを、人々は待ち望んでいました。実際、ユダヤでは、ローマ帝国に対抗する政治的組織が起こっていたようです。イエス様の多くの弟子たちも、イエス様に対して、このような政治的指導者になることを期待していたのだと思われます。神の子イエスというよりも、人間イエスとして、人々を導く人物に期待していたのだと思います。この弟子たちは、イエス様がひとりの人間であって、神とは違うと考えていたと思います。ご自身をいのちのパンと話されたこと、そして、神と等しい者であるとするイエス様の言動に、弟子たちは興味を失ったのではないでしょうか。
同じように、キリスト教会では、多くの社会福祉活動、慈善活動、平和運動が行われています。離れて去った多くの弟子たちと同じように、社会を変えるために教会の活動をしようとするなら、それはイエス様の目的ではありません。イエス様はこの社会を変えようとしたのではなく、ひとりの罪人を捜して救うために来られたのです。
ルカ19:10 人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。
もしあなたがペテロのように、イエス様が神の聖者キリストであると信じるなら、イエス様は次のように言われるでしょう。
マタイ16:16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
16:17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。

つまり、父なる神様は、イエス様がキリストであることを明らかにしたのです。私たちもイエス様をキリストと信じるなら、それは父なる神様が私たちに明らかにして下さったことであり、私たちは父なる神様によって、イエス様に与えられた者に数えられるのです。イエス様は、父なる神様がイエス様に与えて下さる人々を知るために、人々の信仰を知ろうとされました。そして、
6:39 わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。
を行おうとされます。

2.時を知るイエス
7:1 その後、イエスはガリラヤを巡り続けられた。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかったからである。
7:2 時に、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていた。
7:3 そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。
7:4 自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」
7:5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。
7:6 そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。
7:7 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。
7:8 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。」
7:9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。

それからイエス様は、ガリラヤ地方を引き続き巡り歩かれました。このころ、ユダヤ人たち、つまり宗教指導者たちは、イエス様を殺そうと計画していました。それは、「ヨハネ5:18」に書かれているように、イエス様が安息日の決まりを破ったことや、神様をご自身の父と呼ばれたことが理由です。
5:18 そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。
パンの奇跡から約半年がたち、秋の収穫を祝う「仮庵の祭り(スコットの祭り)」が近づいてきました。これは、イエス様が十字架に架かられる半年前の出来事です。
仮庵の祭りについて、簡単に紹介しましょう。
レビ23:41 年に七日間、【主】の祭りとしてこれを祝う。これはあなたがたが代々守るべき永遠の掟であり、第七の月に祝わなければならない。
23:42 あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな仮庵に住まなければならない。
23:43 これは、あなたがたの後の世代が、わたしがエジプトの地からイスラエルの子らを導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを知るためである。わたしはあなたがたの神、【主】である。」

仮庵の祭りは、ユダヤ暦の第七の月に行われ、日本の9月か10月にあたります。2024年の祭りは、10月16日から始まるようです。この祭りの7日間、ユダヤの人々は草やヤシの葉などで作った小屋に住みます。これは、モーセの時代にユダヤ人たちが40年間、荒野をさまよい、仮庵と呼ばれる小屋に住んでいたことを思い出すためです。
また、この仮庵の祭りは、イエス・キリストが肉体を持ってこの世に来られたことを象徴しているとも言われています。イエス様の時代には、祭りの期間中、毎朝シロアムの池から水を汲んで運び、朝晩に生贄と一緒に祭壇に水を灌ぐ行事が行われていました。
イエス様には弟や妹がいました。ヤコブの手紙を書いたヤコブと、ユダの手紙を書いたユダは、イエス様の弟です。ヤコブとユダは、イエス様が復活するまで、イエス様がキリストだと信じていませんでした。これは福音書を書いたヨハネが「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである」と書いている通りです。
ある時、仮庵の祭りが近づいていたとき、イエス様の兄弟たちは、イエス様がガリラヤ地方に留まっているのを見て、「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい」と言いました。彼らは、イエス様がなぜエルサレムに行かず、ガリラヤで活動しているのか理解できなかったのです。
それに対して、イエス様は「わたしの時はまだ来ていません」と答えました。この「わたしの時」とは、半年後の過越しの祭りでイエス様が捕らえられ、十字架にかけられる時のことを指しています。イエス様は、その時が来ることを知っていましたが、まだその時ではないこともわかっておられたのです。
そして、イエス様はこう言いました。「しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。」
「あなたがたの時」とは何かについてですが、それは「悪魔の時」と考えて良いと思います。悪魔は、人間を利用して、「神様の時」すなわち神様の計画を狂わせようとします。この時、イエス様は宗教指導者たちから憎まれ、殺されそうな危険な状態にあります。ですから、いつでも用意ができていると言ってもよいのです。
この「悪魔の時」は、神様から離れた世の時を指すと言えるでしょう。悪魔の策略は、神様の救済計画を台無しにすることです。そのために、悪魔はイエス様の「時」を狂わせようとしているのです。
伝道者の書には、
伝3:1 すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。
この世界には、神様が定められた時があるのです。イエス様が十字架にかけられた時も、パウロはそれを「定められた時」と言っています。
ロマ 5:6 実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。
聖書には、私たちがまだ経験していない「終わりの時」、「再臨の時」と呼ばれる時があると書かれています。
マタ 24:36 ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
このように、終わりの時は、父なる神様が既に定めておられるのです。
では、現在はどんな時なのでしょう。
Ⅱコリ 6:2 神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。
聖書では、神様の恵みを受け、救いを頂くべき時は「今」だと教えています。そして、神様が決めた「終わりの時」がいつか来るのです。だからこそ、今この瞬間に救いを受けることが大切なのです。

3.正しいさばきを知るイエス
7:10 しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた。
7:11 ユダヤ人たちは祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。
7:12 群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言っていた。
7:13 しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。
7:14 祭りもすでに半ばになったころ、イエスは宮に上って教え始められた。
7:15 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」
7:16 そこで、イエスは彼らに答えられた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。
7:17 だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。
7:18 自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。
7:19 モーセはあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」
7:20 群衆は答えた。「あなたは悪霊につかれている。だれがあなたを殺そうとしているのか。」
7:21 イエスは彼らに答えられた。「わたしが一つのわざを行い、それで、あなたがたはみな驚いています。

7:22 モーセはあなたがたに割礼を与えました。それはモーセからではなく、父祖たちから始まったことです。そして、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。
7:23 モーセの律法を破らないようにと、人は安息日にも割礼を受けるのに、わたしが安息日に人の全身を健やかにしたということで、あなたがたはわたしに腹を立てるのですか。
7:24 うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい。」

イエス様は、ユダヤ人の宗教指導者たちが命を狙っていたため、エルサレムにひっそりと行かれました。彼らは、祭りのときにイエス様を見つけて捕えようとしていました。また、群衆は宗教指導者たちを恐れて、イエス様についてひそひそ話していたようです。
イエス様は、自分が誰か分からないように神殿で教え始められました。そのため、イエス様だと知らない人々は、その教えに驚いていました。そして、イエス様は「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです」と話されました。
また、イエス様はご自身が安息日を破ったとされて命を狙われていることについても語られました。イエス様は、「わたしが一つのわざを行い、それで、あなたがたはみな驚いています」と言われました。これは、おそらくベテスダの池で38年間病気だった人を癒したことを指しているか、別の出来事かもしれません。安息日に病人を治療することが問題視されていたのです。
一方で、割礼と呼ばれる儀式があります。モーセは、男の子の生後8日目に割礼を受けることを規定していました。
レビ12:3 八日目には、その子の包皮の肉に割礼を施す。
割礼は、安息日でも行っても良いとされていました。一方で、イエス様が人の体全体を健康にしたとき、ユダヤ人たちは怒ったのです。彼らは、見た目だけで人を判断していたのでしょうか。もしかしたら、有名で尊敬される律法学者が決めたことなら、正しいと思っていたかもしれません。でも、田舎出身で学歴のない若者イエスの言うことは、ちゃんと聞いてくれなかったのです。
「正しいさばき」とは、「自分を遣わされた方の栄誉を求める」ことです。
「忖度」という言葉を聞いたことがあるかもしれません。忖度とは、もともと「相手の気持ちを考えること」で、相手を大切にする愛の行動です。でも、最近は「上の人の顔色を伺う」とか「上司にへつらう」という悪い意味で使われることが多くなりました。
実際に、私は、以前、よく「忖度」について悩んだことがあります。上司の顔色を伺って、もし上司が「白」を「黒」と言うなら、自分も「黒」と言えと言われたのを覚えています。これでは正しい判断はできませんが、実際はよくあるのではないでしょうか。政治や企業での不正のニュースを見ますが、その陰に忖度が行われている場合もあると思います。
イエス様の言葉によれば、「自分や他の人々の栄誉を求めて判断しない、自分や他の人々に忖度しない」ということです。では何に忖度するかというと、父なる神様の御心(みこころ)に忖度するのです。神様の御心を考えて判断することが、正しいさばきなのです。

イエス様を信じない弟子たち、兄弟たち、ユダヤ人たちと、イエス様の姿勢に違いがあります。
ルカの福音書19章に登場するザアカイを例に説明します。
ザアカイは取税人のかしらで、人々から嫌われていました。そして、彼は人々から金銭をだまし取ったりして、罪びとと言われていました。彼は、イエス様を喜んで家に招き、その時、それまでの罪を悔い改めました。
ルカ19:9 イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
19:10 人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」


人々は、ザアカイの過去、現在をみて、彼を罪びとと裁きました。しかし、イエス様は、彼のイエス様に対する信仰を知り、彼の神様の時を知り、彼に対する神様の御心が彼を裁くことでなく、捜して救うことであると知っていました。ザアカイは、イエス様と出会ってそれまでの生き方を変えました。しかも、その後の彼は、エリコの教会の監督になったと言われています。イエス様は彼の未来もご存じだったのです。
ヘブル 11:1 さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
とあります。これは、イエス様のように、自分や相手を見るということです。過去、現在でなく、神様によって変えられる自分、相手を見ることです。そして、そのことを神様に祈りゆだねていくことなのです。