今回は、前回に学びましたサマリアの女性について、その後を学びます。
1.来て、見てください
27 そのとき、弟子たちが戻って来て、イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いた。だが、「何をお求めですか」「なぜ彼女と話しておられるのですか」と言う人はだれもいなかった。
28 彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。
29 「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」
30 そこで、人々は町を出て、イエスのもとにやって来た。
イエス様がサマリアの女性と話しているとき、イエス様の弟子たちが、町から食べ物を買って戻ってきました。弟子たちは、イエス様が女性と話しているのを見て、とても驚きました。なぜなら、当時は、男性が公けの場所で女性と話すことは無かったからです。当時、ユダヤ教では、「賢者たちは言う、男が女と何度も話をするのは、どんなときであれ、自分自身を害する原因であり、律法の言葉から離れ、最後には地獄に落ちる」と言われるように、公の場で男性が女性と話すことは良くないことだと考えられていました。しかし、弟子たちは、イエス様を尊敬していたので、何も言いませんでした。
サマリアの女性は、イエス様のところから、町へ行きました。彼女は、町の人々に「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか」と言いました。いままでの彼女は、町の人々と会うことを避けていました。しかし、彼女はイエス様のことを、町の人々に知ってもらいたかったのです。彼女は、自分だけでなく、町の人々がキリストを待っていることに気付いたのです。彼女が、この方がキリストではないだろうか?と考えたのは、ただ、自分のことを言い当てたからでした。それでも、彼女の心は、人々に伝えたいという衝動を隠せませんでした。この彼女の言葉を聞いたサマリアの人々は、「町を出て、イエスのもとにやって来」たのです。単にやって来たのではありません。町の人々は、次々と、我先にとやって来たのです。それは、町の人々が、本当にキリストを待っていたからです。だから、彼女の声に直ぐに応答したのです。
さて、キリスト教会では、12月3日より、いよいよ、アドベント、待降節が始まります。待降節とは、キリストの降誕を待ち、準備する時期を言います。私たちは、救い主、キリストを町の人々のように、いつでもキリストのもとに行くことができるように、準備をする必要はないでしょうか。私たちをいつも愛して下さるお方を心から待ち望むことが、待降節の心なのです。
2.蒔く者と刈る者がともに喜ぶため
31 その間、弟子たちはイエスに「先生、食事をしてください」と勧めていた。
32 ところが、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」
33 そこで、弟子たちは互いに言った。「だれかが食べる物を持って来たのだろうか。」
34 イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。
35 あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。
37 ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。
38 わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」
キリストのことを聞いて、町の人々が、続々と、イエス様のところに集まってきました。こうなると、イエス様と弟子たちには、昼食をとる時間すら無くなります。弟子たちは、いまのうちに、イエス様に食事をとるように勧めたのです。
ところが、イエス様は、弟子たちに「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります」と言われました。この言葉に、弟子たちは、「『だれかが食べる物を持って来たのだろうか。』」と、イエス様がもう何かを食べたのだろうかと勘違いしました。彼らの関心は、食事をとることでした。
そこで、イエス様は、「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです」と言いました。それは、イエス様にとって一番大切なことが、「わたしを遣わされた方(父なる神様)のみこころを行い、そのわざを成し遂げること」であると話したのです。それは、既に多くの人々がイエス様の所に集まっていたのです。だから、イエス様は、神様のみこころ(ご意志)を優先すべきであると言われたのです。
ところで、父なる神様のみこころとはなんでしょうか。みこころは、ヨハネ6:39,40に次のように書かれています。
6:39 わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。
6:40 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」
イエス様を信じる人が、ひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つこと、世の終わりの日によみがえることです。ですから、聖書の中の聖書と呼ばれるヨハネ3:16は、
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 ヨハネ3:16
神様のみこころを行うために、神様ご自身が、ひとり子イエス様をこの世界に与えられたのだというのです。神様のみこころは、神様の愛そのものなのです。
イエス様は、弟子たちに「『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」と言いました。イスラエルは、日本の気候と違って、雨季と乾季しかありません。乾季は、温度も高く、雨が全く降らないので、農業には適しません。しかし、雨季になると、温暖で雨が多いため、農作物には絶好の季節となります。雨季は、11月に始まり、4月に終わります。イエス様たちが、サマリアの町を訪れたのは、恐らく12月だったのでしょう。種を蒔いて直ぐの時期で、収穫まで四カ月の頃だったのです。イエス様は、「あなたがたは、まだたくさんの時間があると思っているよね」と、イエス様に食事を勧める弟子たちに言うのです。しかし、「目を上げて畑を見なさい、色づいて、刈り入れるばかりになっている」、すなわち、サマリアの人々の心は、キリストと聞いて集まっているではないかと述べたのです。
「すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています」、「刈る者」は、サマリアの女性で、彼女はイエス様から、「生ける水」の約束を受け取り、「永遠のいのちに至る実」、キリストを信じる人々を集めていることを述べました。
さて、キリスト教徒って、伝道を強制されるのだろう?と思われるかもしれません。
実は、私も伝道については過去に苦い体験があります。以前に、シンガポールの伝道チームが来日し、共に地域の家々にトラクトを配ったことがあります。私は、知らないお宅に訪問することは恐かったのを覚えています。正直言って、誰も楽しいとは思わないでしょう。
聖書の御言葉には、
涙とともに種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取る。 詩篇126:5
とあるじゃないかと、伝道が大変であることはしょうがないと言う人もいることでしょう。伝道は、涙とともに行うもんだと言わないで下さい。この詩篇の言葉の涙は祈りを表し、魂の救いのための悲しみ祈りなのです。
もう一度、私たちは、サマリアの女性を見てみましょう。イエス様に出会って、町に出かけて、「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」と、喜んで町の人々に言ったのです。一体、何が彼女を変えたのでしょうか。
それまで、彼女は、町の人々を避けていました。彼女は、自分のことが明らかにされ、それを指摘されることを恐れていたのです。すなわち、彼女は自分の殻に閉じこもり、自分のことだけを見つめていた人生を過ごしてきました。彼女は、イエス様に出会い、彼女のすべてを知っておられても、それを蔑まず、彼女自身を受け止めて下さった方、キリストに出会ったのです。
だから、彼女は、それまで避けていた人々に、人々が待ち望んていたキリストを伝えたい衝動を抑えきれなくなったのです。
イエス様は、昇天されるまえに、大宣教命令を出しました。それは、
それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。
マルコ16:15
神様のみこころは、神様から離れ、罪の中に沈み滅びゆくたましいをご自分のもとに取り戻すことです。そのために、ひとり子イエス様をこの世界に与えられたのです。
全世界に出ていく、これは、私たちが私たちの殻に閉じこもるのではなく、世の中に出ていくこと、私たちの日常生活での隣人との関係を結ぶことを言います。すべての造られた者とは、私たちの隣人、家族、友人、知人、日々、私たちが生活する中で出会う全ての人々です。福音を宣べ伝えるとは、サマリアの女性が、町の人々がキリストを待っていたことを知ったように、私たちが隣人の必要・問題を知り、その方々のために、イエス様の愛を施すことです。これを生活伝道と言います。
ですから、私たちは急ぐことなく、隣人と関係を結び、彼らのために祈り、イエス様が教えて下さった愛を実践していくことです。私たちの隣人は、私たちと同様に、人生の重荷を負い、問題を抱えて苦しんでいるのです。単なる聖書の言葉ではなく、イエス様の愛を必要としているのです。
3.この方が本当に世の救い主だ
39 さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。
40 それで、サマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在された。
41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
42 彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」
43 さて、二日後に、イエスはそこを去ってガリラヤに行かれた。
サマリアの女性の証言を通して、この町の人々がイエス様を信じました。そして、イエス様の滞在中、イエス様の話を直接聞いて、更に多くの人々がイエス様を信じたのです。
彼女の証言は、この方がキリストかもしれないという曖昧なものでしたが、人々は直接、イエス様の話を聞いて、「この方が本当に世の救い主だ」と分かったのです。
水曜日の夜の祈り会で、箴言を学んでいます。先週、箴言14章からの御言葉を学びました。
その一節に、
浅はかな者は愚かさを受け継ぎ、賢い人は知識の冠をかぶる。 箴言14:18
という御言葉があります。
米国のラジオ伝道師マギー博士によれば、「単純な者はすべての言葉を信じる。思慮深い人、賢い人は、聞いたことを吟味する」と解釈できるようです。彼は、
「説教者が言うからといって、その説教者の言うことを信じることはない。神の御言葉が語っていることを確かめるのだ。私が言うからと言って、私の言うことを信じてはならない。私はデルフィの神託者ではない。私の言うことを神の言葉によって試すのだ。教会やメディアからは、甘く聞こえる言葉がたくさん出てくる。友よ、聞いたことをすべて信じてはいけない。神の言葉によってそれをテストしなさい。」
サマリアの人々は、イエス様の御言葉を直接聞き、イエス様をキリストであると信じました。ですから、私のこのメッセージを含め、ご自身で、聖書ではなんと言っているか、正しいのかを調べることをお勧めします。
使徒17章で、べレアのユダヤ人が、パウロとシラスが語った言葉を、「はたしてそのとおりかどうか」毎日、聖書を調べたとあります。その結果、彼らのうちの多くの人たちが信じたというのです。
兄弟たちはすぐ、夜のうちにパウロとシラスをベレアに送り出した。そこに着くと、二人はユダヤ人の会堂に入って行った。この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。それで彼らのうちの多くの人たちが信じた。また、ギリシアの貴婦人たち、そして男たちも少なからず信じた。 使徒17:10-12
べレアの人々は、使徒パウロの語った言葉でも、聖書をきちんと調べたのですから、私たちはきちんと調べなければなりません。神様の言葉、イエス様の言葉である聖書によって、本当の信仰が与えられるのです。
サマリアの女性は、イエス様に出会って、自ら町に出ていき、人々に会い、関係を結ぶぼう(来てみてください)としました。彼女は、サマリアの人々が必要としているキリストを知らせたのです。
私たちも、この世、すなわち、日常生活で、隣人である、家族、友人、知人、友人などに会い、良い関係を築き、相手の必要や問題を知り、イエス様の愛を施すことです。すべての人は、必要や問題を抱えています。その問題をイエス様に委ねていくのです。 神様の祝福がありますように。
勧士 高橋堅治
よかったです。私は礼拝に出て、更に読んでいるから、よくわかります。世の中の多くの方が、活字を読むのが苦痛です。ポイントで読める、短いメッセージもあれば良いなとも、感じます。お手伝いが必要ならしますので、ミニメッセージも、検討してみてください。
コメントありがとうございます。
ミニメッセージというよりも、出来るだけ、礼拝と同じメッセージを掲載するように心がけています。
それは、礼拝に出席できなかった方や、礼拝後の復習に用いて頂くことを考えて記載しています。
なお、著作権や個人情報の保護を考慮した編集を施しており、礼拝メッセージと完全に一致しておりません。