神の前に富む者 ルカ12:13~21


イエス様のたとえを学ぶと、善きサマリヤ人のたとえのようにその意味を理解することが難しいこともあれば、たとえで語られていることは理解できるけれど、実際に行うことが難しいと感じることがあります。今日の聖書箇所にある「ある金持ちのたとえ」は、実際に行うことが難しいと感じるものです。御言葉から教えて頂き、実践についてもじっくり考えてみたいと思います。

1.貪欲に注意しなさい(13-15)

イエス様は、群衆を前に、私たちが神様にとってどんなに価値ある存在であるか、また、神様のために物事を行うことの大切さを教えておられました。そのとき、群衆の中の1人の男が、イエス様のお話に割り込んできました。13節、男は、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」と言いました。おそらく、父親が無くなり、兄弟との間で遺産相続のもめごとが起こったのでしょう。イスラエルの律法に、長男は、他の兄弟よりも2倍の相続権がありました。その理由は、長男が母親や女兄弟の面倒を見なければならないためです。この男の場合、他に兄弟がいないなら、親の遺産の2/3を兄が、1/3を弟の自分が取ることになります。ところが、この男の兄は、彼に遺産を分けてくれないか、律法の規定よりも少ないので、イエス様に自分の味方になってほしいと願ったのです。

この男がイエス様に話しかけたとき、イエス様は、群衆に教えておられました。この男にとって、イエス様のお話はどうでもよかったのかもしれません。男は、神様のお話よりも、兄との遺産相続で、より多くの遺産を相続することに心がいっぱいだったのです。

聖書を読むとき、その聖書の言葉でなく、他のいろいろな事を思い煩い、うわのそらで御言葉を学んでいることはないでしょうか。

この男の願いに、イエス様は、次のように答えました。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか」と。イエス様は、彼を冷たくあしらわれているように思えます。しかし、イエス様は、たとえを用いて、遺産相続の問題により、男の心を支配していた貪欲について、男と群衆に警戒すべきことを話されたのです。

イエス様は「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい」といいました。聖書にあるこの貪欲という言葉は、もっともっと自分のものとして取り込みたい欲望、法律や権利を踏みにじっても所有し、増やしたいという欲望、取ってはならないものまでも無理に手をのばして取りたい欲望という意味があります。私たちは、貪欲という言葉を用いるとき、積極性を表す、「貪欲に学ぶ」という言い方をする場合もあります。このような貪欲も、イエス様が言われたように警戒すべきことなのでしょうか。

そのカギは、この男が、警戒すべき貪欲に陥っていたのか?を考えることです。男は、自分への遺産配分が、律法に記された1/3よりも少ない、若しくは遺産の分け前すらない、という状態でした。遺産の1/3を受けるのは、法律、律法に照らすなら、正当な権利と言えましょう。彼が主張することは間違いではありません。もし、この権利の主張を問題とするなら、私たちの生活の基盤であり私たちを守るすべての権利を放棄することになりかねません。

ここで、イエス様が貪欲を警戒しなさい(注意しなさい、避けなさい)とは、行き過ぎた欲求が心を支配することを問題としています。この男は、イエス様が教える福音を前に、福音よりも遺産相続ということに心奪われていました。

それだから、イエス様は、「なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです」と言われたのです。この「その人のいのち」とは、神様がお与えくださる永遠のいのちを表しています。永遠のいのちの鍵である福音を前に、男は遺産相続のことで心がいっぱいとなり、福音を受け入れない状態に陥っていました。

行き過ぎた欲求、すなわちすべての貪欲、それがよい欲求であっても、私たちの心を支配してしまうなら、もっと大切な永遠のいのちに関わる福音を心に受け止める余地が無くなることがあります。それは、注意することなのです。

2.ある金持ちのたとえ(16-20節) 

イエス様は、更に、ある金持ちのたとえを用いて、人々に教えられました。

このたとえには、金持ちが登場し、この金持ちの心の葛藤が記されています。彼の心の葛藤は、自分の持ち物、自分の財産に対する心配でした。

彼は、畑を持っており、その年は、畑の作物が豊作でした。作物が多く取れたため、彼にある心配が起こりました。それは、今の倉ではたくさん採れた作物をたくわえておく場所がないという心配です。それは、本来なら喜ぶべき豊作から生じた彼の悩みでした。そして、彼は自分の心の中でこうつぶやいたのです。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』

彼は、豊作の保管を心配し、思い悩んだ末、倉を立て直すという結論に至りました。彼は、そうすれば、安心して、今後、楽しんで過ごすことができると考えたのです。

聖書の原文を忠実に訳している2017年度版新改訳聖書では、18,19節にこのように記されています。

『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』

この御言葉で注目すべき語句は、「私」です。

「私の作物」、「私の倉」、「私の穀物や財産」、「自分のたましい」と記されています。この金持ちは、倉、穀物、財産、たましいを、私のものと言っております。彼は、この「私のもの」のために心配し、思い悩んだのです。

金持ちの「私のもの」は、満たされるまで、彼を不安にさせます。彼は、もし、それらが満たされたなら、安心して、自分の人生を謳歌できると考えていました。おそらく、彼は、「私のもの」が少なくなれば不安に悩まされるでしょう。しかし、彼は「私のもの」で満たされたとしても、満足できず、更に「私のもの」を求め続けるのではないでしょうか。彼は、本来、「私のもの」を管理し、用いる立場のはずですが、実は「私のもの」に支配されているようです。

そして、神様は、金持ちに『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』(20節)と言いました。

神様によって、彼は、たましいが取り去られることを伝えられたのです。彼の「私のもの」はどうなるのでしょうか。

私たちは、いずれ、地上の生涯を終え、神様のもとに帰る日が来ます。そのとき、私たちにとって大切な「私のもの」が、取り去られてしまうのです。いつか、「私のもの」が取り去られるのですから、私たちに「安心して、食べて、飲んで、楽しめ」というときが来ることはないのです。

「学校では教えてくれない 自分のこころのトリセツ」という記事を見ました。そこには、「現代は、生きていく自信とお金が強くつながってしまう時代」と記されています。十分な貯金があるにもかかわらず、「どんどんお金を失っている」、「自分は大損した。今あるお金だけではやっていけない」と自信を無くして、貧困妄想に陥ります。それは生きるための糧、服など、すべては、お金がないと手に入れることができないため、生きる自信や存在価値をお金で計るようになってしまったためだと言います。そのために、お金を「もっと欲しい、まだ足りない」と不安を感じている人が多いのです。しかし、お金をたくさん儲けている人は、その収入を維持するために、実は他人からは見えない労苦と時間を費やしています。そして、金を儲けても、同時に、失う不安が生じるのだそうです。一方、物質的に豊かでなくても、好きなものに囲まれ、気の合う友達がいるという生き方もあります。お金に関する偏った価値観から解放されることで、お金に振り回されない生き方ができるようです。対策として、「生きることに自信をつけるために100万円を目標に貯金する、困ったときはお互い様といえるような人のつながりを大事にする、お金を持たないメリットを考えることだ」と記されていました。

イエス様が、勧めておられることは何でしょうか。

3.神の前に富む者(21節)

イエス様は、「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです」と結論を示されました。

この21節の御言葉は、リビングバイブルだと更によく理解できると思います。

「いいですか。 この地上でいくらお金をため込んでも、天国に財産を持っていない者はみな、愚か者なのです。」

「神の前に富まない者」は、「天国に財産を持っていない者」という意味です。

イエス様は、私たちに、天国に財産を持つことを勧めています。
「天国に財産を持つ」とはどういうことでしょうか。時々、教会で、「天国に財産を持つ」ということが、献金や奉仕に例えられることがありますが、本当でしょうか。現在、旧統一教会が世論を巻き込んで問題視されていますが、彼らは、救いのために、全財産を献金として捧げてきました。また、自らの生活を犠牲にして、沢山の奉仕をしてきました。それは信者内では美談になりますが、第三者として、冷静にみると、彼らが哀れに思います。しかし、献金や奉仕が美談にするのはキリスト教会でも同様です。私たちキリスト者も同じ轍を踏まないように注意が必要です。

さて、ここで、私は、明らかに天国に財産を持った一人の人を紹介します。それは、使徒パウロです。パウロは、ピリピ3:4-9でこのように証ししています。(第三版 353p, 2017版 398p)

3:4 ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。

3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、

3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。

3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。

3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、

3:9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです

彼は、生粋のユダヤ人であり、律法の熱心者であることを誇りとしていました。その熱心さのために、当初、クリスチャンたちを迫害したのです。しかし、パウロはダマスコ途上でイエス様に出会いました。そのときから、彼が持っていた家柄、地位、有望視された将来を一切捨て、パウロはそれに代わるもの、イエス様という宝を得ました。彼が捨てたすべてのものは、彼にとってちりあくた、すなわち、価値のないものとなったのです。

ところが、イエス様のためにすべてを捨てたパウロも、自らの特権であるローマ市民権を用い、彼の律法の知識をふんだんに用いました。彼は、彼が神様から与えられた財産である知恵、知識、権利を十分に利用して神様に仕えたのです。

私たちは、生まれてから、これまで、神様からたくさんのものを与えられています。それは、お金だけでなく、健康、知識、肩書、才能、実績、家柄、土地など、あらゆる財産です。もし、これらを捨てるとすれば、私たちは現在の生活をやめ、一人、孤島に移り住むしかありません。神様は、「すべてを献金にして捧げなさい」と言うのではありません。

財産を「私のもの」として、それに依存し、私たちの心が支配されてしまうなら、その財産は、私たちに喜びを与え、安心を与えてくれるものではありません。もし、ひとつでも、「私のもの」を失うとき、私たちは不安になるからです。

イエス様は、私たちの代わりにいのちを十字架で捧げられました。私たちは、その愛の応答として、自分の大切なものを、いのちの代わりに差し出すことができるのではないでしょうか。信仰により、財産を一度、イエス様に差し出すのです(注意:献金ではありません)。そうすれば、イエス様は、私たちの財産に対する呪縛から解放し、自由にしてくださるはずです。

このように祈ってみてください。

イエス様、あなたは十字架で、私の代わりにいのちを捧げられました。ですから、いま、私の大切なものをイエス様に差し出します。私を愛してくださるイエス様、私に必要なものであれば、そのまま残してくださり、また、私に不要なものなら取り去ってください。それは、将来、私に必要なとき、与えて下さい。私を、「私のもの」から解放し、私に本当の喜びの人生をお与えください。

最後に、ルカ12:29―34の御言葉から、イエス様の励ましのお言葉を聞きましょう。

12:29 何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。

12:30 これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。

12:31 何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。

12:32 小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。

12:33 持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。 12:34 あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。

勧士 高橋堅治