善きサマリヤ人のたとえ ルカ10:25~37


今回は、イエス様のたとえのとても有名な箇所でもあります、善きサマリヤ人のたとえから、御言葉を教えて頂きましょう。

1.永遠のいのちを受けるには(25-28節)

イエス様が善きサマリヤ人のたとえを話したきっかけが記されています。イエス様は、ルカの福音書の10章で、イエス様が派遣した70人の弟子たちにねぎらいのお言葉をかけていたときに、突然、律法の専門家が立ち上がって、イエス様に質問したことでした。律法の専門家は、当時、モーセが神様に教えられた律法という神様の教えを人々に教える人でした。彼らは、聖書の律法を詳細に学び、そして、聖書解釈ができるようになると、おおよそ40歳ぐらいで、弁護士、裁判官、教師などの仕事をする、当時、最も人々から尊敬された人々でした。

しかしながら、彼らは、当時、イエス様の語る神様の教え、例えば、安息日に人を癒すこと、神様を父と呼ぶことなどについて、彼らの解釈と異なり、律法に従わず、神様を侮辱していると考え、イエス様に反感を持っていた人々でもありました。

この25節にある律法の専門家のイエス様への質問は、イエス様に悪意をもったもので、「イエスをためそうと」した通りです。これは、彼からみて、若造のイエス様に対して、上から目線の「あのー、先生さんよ!あんたさぁー、何をすれば永遠のいのちを自分のものとして受けることができると思うの?」と軽蔑をもってイエス様に語ったようです。

イエス様は、彼の悪意ある質問に、質問を返しました。それは、この律法の専門家は、既に正しい答えを準備していたためで、イエス様はそれを見抜いておられました。彼は、申命記6章5節、レビ記19章18節を引用して、イエス様に答えたのでした。

イエス様は、彼の答えを聞いて、「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」と認めました。しかし、イエス様は、永遠のいのちを得るには、その御言葉を実行することの必要性を伝えたのです。

すなわち、永遠のいのちを得るには、「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』」という御言葉を実行することが必要なのです。

この「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして」神様を愛するとは、全身全霊で神様を愛するということです。更に、あなたの隣人を自分と全く同じように愛することも必要なのです。

しかし、本当に、私達が、全身全霊で神様を愛し、隣人を愛するということができるのでしょうか。

2.善きサマリヤ人のたとえ(29-35節)

さて、イエス様が律法の専門家に「それを実行しなさい」と言われたとき、律法の専門家は、イエス様の言葉をどのように受け取ったのでしょうか。29節に、「しかし彼は、自分の正しさを示そうとして」と記されています。これは、律法の専門家である自分の立場を弁護するために、更に質問したのです。彼は、律法の専門家なので、御言葉の解釈は優れています。しかし、その解釈が正しくても、実際に御言葉の通り実行するとなると話は別です。彼が聖書の言葉を知っているなら、全身全霊で神様を愛することなど難しくて出来ないことを知っている筈です。また、彼にとって隣人の解釈が、自分の仲間や家族であるのかどうか、自分の事になると、正しい解釈が出来ないのです。そこで彼は「隣人とは誰か」と尋ねたのです。

そして、その質問に対するイエス様の答えが、この善きサマリヤ人のたとえでした。

このたとえに登場する人物は、5人います。ある人、強盗、祭司、レビ人、そしてサマリヤ人です。

ある人が神の都エルサレムから、エリコに行く道で強盗に襲われました。当時、エルサレムからガリラヤ地方に出向くとき、ユダヤ人とサマリヤ人は絶交状態であったため、ユダヤ人はサマリヤの地を通過せず、遠回りになる、エリコの町を経由してヨルダン川に沿って北上するという道をたどりました。このエルサレムからエリコに向かう道は、当時、強盗が潜み、たびたび、旅人が襲われることがあったようです。たとえでも、ある人がエリコに向かう旅の途中で、強盗に襲われたことをきっかけとしました。

ある人、彼は強盗に遭い、着物をはぎとられ、なぐりつけられ、半殺しにされたのでした。そして、彼は道のところで倒れ、動けなくなっていました。そこは、荒野の中に続く道でしたから、もし、彼が、そのまま置き去りされると、助かる術はありません。彼は絶望の中にいたのです。

しばらくすると、そこに祭司が通りかかりました。ところが、祭司は、彼をみると、彼を避けて道の反対側を、何もなかったように通り過ぎていったのです。また、しばらくして、レビ人が通りかかりました。このレビ人も、祭司と同じように道の反対側を通り過ぎていったのです。彼は同胞のユダヤ人に見捨てられ、深い悲しみを感じたことでしょう。そこに、サマリヤ人がやってきました。サマリヤ人は、ユダヤ人と絶交状態です。サマリヤ人が、ユダヤ人の彼を助けるなんて期待できません。ところがサマリヤ人は、彼を見た時、とても可哀そうに思ったというのです。そして、サマリヤ人は、この人に近寄りました。サマリヤ人が、彼に近づいた動機は、ただ、サマリヤ人の可哀そうという感情のためです。このサマリヤ人は、もはや、ユダヤ人であろうと関係なく、傷ついた彼を助けようとしました。そして、サマリヤ人は、彼の傷にオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、ほうたいをし、更に彼を自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱したのです。更に、サマリヤ人は、宿屋の人に2日分の費用を払い、とことんまで彼に尽くしたのです。

さて、イエス様は、このたとえを通して、律法の専門家、そして、現代の私達に何を教えようとしているのでしょうか。

まず、たとえのある人(彼)は、私達自身です。ある人は、神様の都エルサレムを出て、人生の終着点であるエリコに向かう、すなわち、この旅は、神様のもとを出て、人生という道を歩む私達自身なのです。私たちは、人生の中で、強盗に出会うように、思いがけない人生の危機を迎えることがあります。それは、病気、失敗、愛する者との別れ、様々な不幸を意味しています。私達は、この人生の半ばで、このような不幸に遭遇したとき、彼のように倒れ、絶望し、未来に続く道をたどることすら出来なくなってしまうことがあります。

そこに祭司が通りかかります。祭司は、宗教儀式や礼典を表しています。様々な宗教やありがたい教え、その儀式・礼典(礼拝)は、私たちを崇高な感情に導きます。ところが、私たちの人生の危機(不幸)のとき、この儀式・礼典は、私達に本当の生きる力を与えず、結局、何の役にも立ちません。すなわち、私たちから遠く離れて通り過ぎる存在なのです。

レビ人は、神様の教え、律法を表しています。私たちは、聖書の教えを守ることを要求されることがあります。そして、まじめな私たちは、その教えを守るために誠心誠意、努力するのです。しかし、私たちの人生の危機のとき、私たちの努力は、報われないのです。たとえば、聖書に重い皮膚病の人が登場します。彼らが皮膚病を発症したとき、危機的状況に陥ります。彼らは律法では汚れた者とされ、ユダヤ社会での権利、住居場所などが奪われてしまいます。律法も、同様に私たちから遠く離れて通り過ぎる存在なのです。

そのとき、ひとりのサマリヤ人が、私たちの人生の危機のときに通りかかります。そのサマリヤ人は、私たちの酷い状態をみて、とても可哀そうに思い、近寄ってきました。この可哀そうという言葉は、ギリシャ語でスプランクニゾマイと呼ばれる特別な言葉です。この言葉は、「内臓を引きちぎるほどの痛みを持つ憐れむ心」を意味し、神様のお心を表現するためだけに用いるものです。すなわち、この可哀そうと思ったサマリヤ人は、イエス様なのです。イエス様は、人生の危機にある私たちをみて、特別な深い憐みの心で可哀そうに思われるのです。なんとかしたい、なんとか助けたい、そのような衝動が彼の行動を突き動かしたのです。このお方の憐れみの心は、止めることができません。このお方は、傷ついた私たちに、オリーブ油で表される聖霊とぶどう酒で表されるご自身の血を注ぎ続け、私たちの傷を癒そうとされます。そして、ほうたいして、私たちを自分の代わりに家畜に乗せ、宿代の無い私たち、すなわち、天の御国に入る資格もない私たちのために全てを与え尽くして下さるお方なのです。

長野レディースランチョンでは、フルート奏者のシオンかおりさんがコンサートをされました。私は残念ながら、そこに参加できませんでしたが、家内が「賛美の風」という小冊子をみせてくれました。このシオンさんは、フルート奏者となるべく順風満帆で歩んでこられたようですが、そのデビュー目前に、愛する者との別れ、父の会社の倒産による経済的基盤の喪失、ご自身の病気による健康問題によって、彼女は人生の絶望のどん底を味わったようです。彼女にとって、これらは三種の神器だったのですが、このすべてを取り去られてしまった。そんなとき、彼女が見出したものについて、その小冊子にこのように記されていました。「八方塞がりの暗闇、まさに荒野の中で私が見出したもの、それはイエス・キリストの十字架だった。自分のどうしようもない自己中心という罪、それをイエス様が担って、私の代わりに十字架で死んでくださり、罪を滅ぼしてくださった。そして、イエス様は死からよみがえられ、今、私とともに生きていて下さる、これは闇の中の私には素晴らしいグッド・ニュース、福音、一筋の光だった」とあります。 彼女は、彼女の人生の最も困難なとき、善きサマリヤ人であるイエス様に出会われたのでした。私達も、善きサマリヤ人であるイエス様との出会いがあったのではないでしょうか。このイエス様によって、私たちの人生は大きく変えられたのではないでしょうか。

勧士 高橋堅治