種まきのたとえ ルカ8:4~8


前回に、引き続いて、イエス様の語られたたとえから、神様の教えを学びましょう。

前回、お話しましたルカ13章のいちじくの木のたとえから、イエス様は、切り倒されてもしょうがない、実が実らないいちじくの木のような私たちを、命がけで執り成し、愛して下さるお方であるということを学びました。

ルカの福音書8章の種まきのたとえから、たとえ話について、そして、種まきのたとえが意味することについて、学びます。

聖書では、この種まきのたとえが、3つの福音書、マタイの福音書13章、マルコの福音書4章、そして、ルカの福音書8章に記されています。それだけ、種まきのたとえは、重要なお話と考えてもよいでしょう。

1.たとえの目的

さて、たとえ話というと、どのような話を思い出すでしょうか。たとえ話のことを、寓話とも呼びます。寓話とは、「比喩によって人間の生活に馴染み深い出来事を見せ、それによって物事を諭すこと」を目的とした物語だそうです。有名な寓話のひとつ、「ウサギとカメ」をご存じだと思います。この「ウサギとカメ」の寓話は、日本で造られた物語ではなく、イソップ物語であり、「油断大敵」という題名で、明治時代の国語の教科書に、このお話を掲載したのが始まりです。

たとえ話のことを、聖書では、παραβάλλω(パラバロー)と言います。英語のパラレルの語源で、「並べる」という意味を持ちます。たとえば「ウサギとカメ」ならば、なじみ深いウサギとカメの両者を並べて比較します。私たちは、ウサギは走るのが速いこと、カメはのろいことを知っていますので、もし、この両者が競走をすれば、ウサギが勝つことは当たり前だと思っています。ところが、この物語は、ウサギでも油断すると、カメに負けてしまうことを語っています。カメが勝つというありえないことを通して、私たちは「油断は大敵である」と心に刻むことができるのです。

イエス様は、神様の教えを人々に教えるために、当時の人々の日常のありふれた出来事、生活習慣を例に上げて、多くのたとえ話をされました。さて、イエス様のたとえ話を読むとき、意味がよく分からないということを経験することがあります。それは2000年前のユダヤの人々の生活習慣を語っていることもあります。しかし、ルカ8:9にあるように、弟子たちも、イエス様に、そのたとえの意味を質問しているのです。それは、弟子たちも、イエス様のたとえ話が理解出来なかったからです。イエス様は、何故、たとえを用いて、お話をなさったのでしょうか。

それは、「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです」(ルカ8:10)に記されています。「神の国の奥義」、福音について、イエス様は、弟子たちを除いて、他の人々が聞いても分からないように、たとえをもちいられたというのです。

イエス様がたとえを話された時期は、イエス様の公生涯3年半の2年目の頃ではないかと言われています。イエス様は、公生涯の1年目には、直接、人々に福音を語っておりました。多くの人々が、イエス様の元に集まり、イエス様の福音に耳を傾けました。ところが、ユダヤの指導者階級であった律法学者、パリサイ人たちは、イエス様に強い反感を持つようになりました。それは、イエス様が、神様を父と呼び、安息日に病人を癒したり、手を洗わなかったり、彼らが守ろうとしていた律法とは異なった教えをしていたからです。

ですから、ユダヤの指導者らから反感を受けるイエス様を心配し、イエス様の家族、マリヤと、その家族がイエス様のところに出向いて、家に引き戻そうしたほどでした。ですから、イエス様のお話を聞く群衆の中には、イエス様のお話に言いがかりをつけ、更になんとかイエス様を陥れようとした人々がいました。

このような背景があり、イエス様は、たとえを用いて、福音を語るようになったのです。このたとえの中に、イエス様が伝えようとする神様の教えを隠すことができます。そして、イエス様に反感を持つ者は、直接、イエス様の言葉から、訴えることはできなくなりました。

イエス様のたとえは、弟子たちが聞いても分からないのですから、私たちは、「その意味を教えて下さい」という、御言葉を聞く姿勢が必要なのです。

2.種まきのたとえ

イエス様が最初に語られたたとえ話が、種まきのたとえでした。

8:5 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。

8:6 また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。

8:7 また、別の種はいばらの真ん中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。

8:8 また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい」と叫ばれた。

このたとえに登場する人物は、種を蒔く人の一人です。そして、4つの種が落ちた場所が記されています。道ばた、岩の上、いばらの真ん中、そして良い地という4箇所です。その種が落ちた場所の違いによって、その後の種の育成が変わりました。4箇所で、良い地に落ちた種だけが、実を結んだとあります。

ユダヤの土地は、乾燥し、岩が多い荒地が多いため、そのような土地を畑にせざる得ない事情がありました。昔、種を蒔くとき、種を麻布袋の中に入れ、その麻布袋を肩からかけ、種を手でまき散らすように蒔きます。このたとえでは、普段の人々の生活をそのまま、語っているために、イエス様が、このたとえを通して何を伝えたいのかを弟子たちも分からなかったのです。

ですから、このたとえは、イエス様自身が、解釈をルカ8:11-15で行っています。

8:11 このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。

8:12 道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。

8:13 岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。

8:14 いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。

8:15 しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。

イエス様の解釈を、もう一度、整理すると、

種:神様の御言葉=福音

種を蒔く人:イエス様、そして、御言葉を伝える私たち(クリスチャン全員)

道ばた、岩、いばらの地、良い地:全世界の人々

全世界の人々に福音が語られるとき、人々は、4通りの反応をするのです。

  • 道ばた
    御言葉を聞いても、悟らない人。悪魔が来て、信じて救われないように心から御言葉を奪ってしまう。

  • 御言葉を聞いて、種が芽を出すように、すぐに信じ受け入れるけれど、根がないため、試練や忍耐が必要なとき、その信仰を捨ててしまう。
  • いばらの地
    御言葉を聞いて信じるけど、この世の心遣い、富の惑わし(自慢、傲慢、名誉、肩書、実績、競争心、ねたみ)を優先し、信仰生活がいい加減になってしまう。
  • 良い地
    御言葉を聞いて悟る人。正しい、良い心で御言葉を聞き、しっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせる。

もし、イエス様の言われる4通りの人のうち、何になりたい?と聞かれたら、クリスチャンは4番目の人のようになりたいと言うはずです。

ルカ8:15によれば、4番目の人は、「正しい、良い心でみことばを聞く」人です。
「正しい、良い心」とは、外づらも、内づらも良い、二面性が無い人のことです。それは、御言葉を聞くとき、その態度に、心が伴っている姿をいいます。そして、「しっかりと守り、よく耐え」るのは、頂いた御言葉を持ち続け、固く踏みとどまることです。そうすれば、その御言葉(種)が、私たちに救いという実を結ばせるようになるのです。

しかしながら、私たちは、このようなイエス様の言われることすら、出来ない弱い者であります。ならば、どうしたらいいのでしょうか。

私は、この春、父の怪我のため、畑の世話を全て行うことになりました。そこで、私は夏野菜の苗植えと種まきを致しました。この種まきのたとえを準備する中、種まき自体についても体験しました。

体験を通して、私は、良い地というのが、きちんと管理が行き届いた土地だと思いました。鳥害(豆類の種が狙われること)対策は、土かけをきちんと行うこと、芽が出たとき、網をかぶせることです。岩のような固い土壌は、先に深くまで耕し、石を取り除く。いばらのような雑草が出てきたら、こまめに取り除きます。ある程度、作物が成長すれば、追肥をして、水を与えます。これらの畑の管理は、作物自身が出来るのではなく、畑の管理者が行う必要があります。

神様は、この畑のように私たちの心を管理して下さるお方です。悪魔から狙われないように、信仰といった大盾を用意して守り、御言葉が成長するように、私たちの心を耕し、神様の恵みや愛という水や肥料を与え、聖霊による聖化の恵みにより、心の雑草を取り除いて下さいます。私たちが必要なのは、畑の管理者である神様に私たちの心を委ねることではないでしょうか。

3.聞く耳のある者は聞きなさい

イエス様は、このたとえ話を話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい」と叫ばれました。イエス様が叫ばれたというほど、このお言葉は、大切なことを伝えようとされているはずです。この「聞きなさい」という言葉は、「聞き続けなさい」という継続して聞く努力を促すものです。「聞く耳のある者は聞きなさい」とは、イエス様の御言葉を探求しつづけなさい、悟ろうと学び続けなさい、ということを言っています。

この種まきのたとえに隠されていた、イエス様が伝えたかったことを、最後にイエス様は、聴く人々に、伝えているのです。

この種まきのたとえは、イエス様のたとえ話の最初のたとえです。すなわち、これから、イエス様はたとえを用いて福音を語るので、弟子たちにその心構えをお話されたのです。

私たちはどのように御言葉を探求していけばいいのでしょうか。私たちが取るべき態度のお手本は、聖書に記されています。

ルカ

10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。

10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。

10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。

10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

マリヤは、イエス様の足もとにすわって、イエス様のみことばを聞き入っていました。マリヤはイエス様の御言葉を真剣に聞いていたのです。 聖書を読むとき、まず、私たちを愛し、私たちのために命をかけて下さった十字架の主を心に思い浮べ、「主よ、お語り下さい」と祈りましょう。そして、聖書を理解することができるように、聖霊に助けを祈り求めましょう。御言葉のひとつひとつは、私たちに対する神様の愛のメッセージであること。その、たったひとつの御言葉だけでもいいですから、大切にされてみてください。そして、イエス様のお言葉を心に受け止めて、それを思い巡らしながら過ごしてみてはどうでしょうか。神様は、あなたに御心を教えて下さるはずです。

勧士 高橋堅治