いちじくの木のたとえ ルカ 13:1~9


イエス様のたとえについて、学んでまいりましょう。

1.人間の手による報い(1~3節)

イエス様がたとえ話をされるときに、そのたとえ話を話されるきっかけとなる出来事があります。いちじくの木のたとえ話にも、そのきっかけとなる出来事がありました。

ある日、イエス様が群衆に対して、御言葉を教えていたときのことです。ある人たちがイエス様のところに来て、イエス様に報告しました。「ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜた」(1節)というのです。

ピラトは、当時、ユダヤを支配していたローマ帝国が、ユダヤを治めるために遣わした総督と呼ばれる人でした。日本の江戸時代の地方を治める代官と同じような立場と考えればよいと思います。彼は、ローマ帝国が行う課税、財政運営、裁判、軍事的支配の全権を持っていました。そして、「ガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜた」というのは、あるガリラヤ人の一行が、エルサレムの神殿に礼拝にいきました。彼らは礼拝のとき、ピラトが指示した軍隊によって、殺されてしまったということなのです。

ピラトは、ローマ皇帝の機嫌を損ねないように、委ねられたユダヤの地を治めなければならず、民の暴動を恐れていました。

イエス様は、この出来事について、人々に尋ねました。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか」(2節)。それは、人々が、この災難を受けたガリラヤの人々は、神様の罰を受けたのだと思っていたからです。しかし、イエス様は、「そうではない」と、更に「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」(3節)と言われました。これは「あなたがたも考え方を変えないなら、同じように失われるだろう」という意味、すなわち、「次はあなた方の番ですよ」という意味があります。もし、ガリラヤ人たちが罪深いから神様に罰を受けたと、あなたがたが裁くなら、あなた方も、何か突然の災難に巻き込まれたら同じように他の人々から裁かれるという意味です。

私たちの中で、一生、災難や病気、事故に巻き込まれないで済むという人はいるでしょうか。ところが、私たちは、ある人が病気や災難に出会ったときに、それは先祖の祟りだ、とか、神様の罰だと思い、相手を平気でさばいてしまうのです。しかし、イエス様は、「そうではない」と言われておられます。

2.自然災害による報い(4~5節)

イエス様は、ピラトの事件だけでなく、続いて、シロアムの塔が倒れ落ちたことを例にあげました。イエス様の時代に、シロアムの塔があり、それが崩壊して18人が亡くなったという事件があったようです。そのとき、人々の中で、彼らは神様によって罰をうけたのだという噂があったようです。

私たちの身の回りでは、自然災害が発生します。大きな災害としては、11年前の東日本大震災を忘れることはできません。そのとき、1万8千人あまりの尊い命が犠牲となったのです。このとき、残念ながら、某国のキリスト教牧師が、この地震を「神様の警告」であるといったというニュースがありました。被害に遭われた方々の心を逆なでするような言葉に対して、イエス様は言われます、「そうではない」と。私たちは、そのような災害を神様の罰や祟りとしてはいけないのです。

では、神様はどのようなお方なのでしょうか。

3.神様のお心(6~9節)

 イエス様のたとえは、当時の人々の実生活に密着した内容でお話をされました。ゆえに、イエス様のたとえを聞いた人々は、直ぐに、イエス様は何を話されたのかを理解することが出来たのです。一方、イエス様のたとえは、素直に聴く耳をもって聞くことが必要でした。それは、イエス様のお話を批判的に聞く人々にとって、何を話されているのか理解できないようにするためです(パリサイ人や律法学者のような、イエス様を陥れようとしていた人々に対する処置です)。

たとえは「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた」から始まります。そして、その人(ぶとう園の主人)は、ぶどう園に、いちじくの実を取に来たのですが、いちじくの実が見つからなかったというのです。

そして、ぶどう園の主人は、ぶどう園の番人に言いました。「見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。」(7節)

ぶどう園の主人は、ぶどう園をしもべの番人に管理を任せていました。そして、3年の間、ずっと、いちじくの実がなるのを見に来ていたというのです。でも、これまで、ひとつも実がなったためしがない。番人に、なぜ、切り倒さないのか?と尋ねています。

主人に、ぶどう園を管理する番人は言いました。「ご主人。どうか、ことし1年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから」(8節)。そして、さらに番人は、「もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください」と主人にお願いをしたのです。

イエス様のたとえを理解するためには、私たちは、そのお話の中で注目すべきことをまず見つける必要があります。それは、たとえの内容で、常識的ではない、「ありえない」という箇所を見つけることなのです。

このたとえでは、2つの点でありえない事が記されています。

1つは、主人が三年間、いちじくに実がなることを待ったということです。ユダヤの地方の温暖な気候では、いちじくは、一年に2回、初夏と秋に実をつける木だそうです。植えたあとにいちじくの実は、直ぐに収獲できるものなのだそうです。しかし、主人は、3年間、すなわち、6回もの間、いちじくに実がならないことを見てきたのです。

もう1つは、ぶどう園の番人です。番人とありますが、この当時の番人は、奴隷の身分だったそうです。奴隷は主人の言う事に必ず従わなければならず、そうでなければ、よくて解雇、当時なら本人の命すら危うくなる立場でした。ところが、この番人が最後に主人に言った言葉は、「切り倒してください」という言葉でした。奴隷の身分であれば、「切り倒します」と言うのが正解です。しかし、「切り倒して下さい」という言葉、この番人は、主人に命令口調で「あんたが、切り倒せばいい!」と言っているのです。この番人は、3年間も実をつけることが出来なかった、価値の無いいちじくの木を惜しみ、命がけで主人に懇願し、自らが切り倒すことを拒んでいるのです。

このたとえに登場する「いちじくの木」は、私であり、皆さんかもしれません。それは、私たちは、主人である神様の期待をいつも裏切り、ずっと、神様が求める実を結ぶことができないままにいるからです。そして、この期待外れの私たちを、私たち自身が諦めてしまうかもしれません。ところが、このぶどう園の番人はどうでしょう。彼は、最後まであきらめないのです。主人に切り倒せと言われても、それを拒む姿があります。さて、この番人は、いったい誰なのでしょうか。これは、イエス様を表しています。イエス様は、神様の期待通りにならない私たちのために、とりなしをして下さり、もう少し待ってくださいと言っておられるのです。さらに、ご自身の命をかけて、私たちを滅ぼすことなど出来ないと言っておられるのです。

神様のご愛は、私たち自身が自覚し、悲しむ、期待外れでどうしようもない者であっても、最後まであきらめずに、とりなし、栄養であるいのちを与えられるのです。そして、それでも私たちを滅ぼすこができず、この番人のよう、に命がけで私たちを贖ってくださるのです。

私たちは、何か不幸なことが起こったとき、神様の罰、裁きではないかと考えてしまいます。しかし、イエス様は、たとい私たちが実の出来ない呪われたいちじくの木のような存在であったとしても、私たちを愛し、命をもって執り成して下さるのです。

さて、聖書に、もうひとつ、イエス様がこのたとえを語るきっかけがあります。

ルカ12:49-50には、このようなイエス様のお言葉があります。

「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。」

これは、新約聖書の中でも一つの難解なところだと言われておりましたが、ヘブライ大学のヘブル語聖書の学者の研究の結果、次のような御言葉であることが分ったようです。

「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。しかし、その火が燃えることを、どうして私が願うことでしょう(いいえ、願いません)。わたしには、行わねばならないバプテスマがあります。それを成し遂げるまで、どれほど苦しむことでしょう」

これまで、このバプテスマはイエス様が十字架に架かることではないかと考えられていましたが、実はイエス様の再臨のときの裁きを示しているのです。イエス様は、その裁きを行わなければならないことを苦しまれておられるのです。

私たちは、イエス様のお心をもう一度、私自身に当てはめてみてはどうでしょう。私は神様に裁かれて当然な人間である、私は神様に愛される資格などない、私は価値のない人間だと思うことがあります。しかし、イエス様は言われます。「そうではない」「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43:4

勧士 高橋堅治