幸いな人マリヤ ルカ1:26-45


今日は母の日です。母の日は、1908年、アメリカ・バージニア州のアンナ・ジャービスさんがお母さんの2回目の命日に、カーネーションの花を飾ったことがきっかけで、1914年にアメリカで制定された記念日だそうです。母の日は、母親を敬い感謝するお祝いの日ということです。ところが、アメリカでは母の日が商業化されてしまい、アンナさんは非常に残念に思い、母の日を廃止するための運動まで行ったようです。私は、教会でいつも母の日をお祝いし、さらに、このアンナさんのことを色々なところで耳にしておりましたので、とても良いお話だと思っておりましたが、そのアンナさん本人が生涯をかけて、母の日を廃止するために運動を行ったということに少し驚きました。アンナさんは、母の日には、感謝の手紙を自筆で書いて、お母さんに渡すことを勧めておられたようです。なお、このような商業化に伴い、教会では別途、3月にマザーリングサンデーとして、母なる教会、イエス様の母マリヤを記念とする日が設けられたようです。

本日は、母の日ということから、イエス様の母マリヤについて共に学んでまいりましょう。

1.処女マリヤ(26,27節)

イエス様の母マリヤが聖書の表舞台に登場するのは、このルカの福音書1章26節からです。バプテスマのヨハネの母エリザベツが妊娠して「六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来」(26節)ました。そして、27節に、この処女の名前が紹介されています。「ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤ」です。神様は、み使いをマリヤのところに遣わしました。み使いを遣わすことは神様の特別なお気持ちが表されています。そして、処女であり、ダビデの家系のヨセフのいいなづけであるひとりの少女が選ばれたのです。マリヤを少女というのは、マリヤの年齢は14か15歳ぐらい、ちょうど、中学2年生ぐらいの歳だったからです。まだ幼いと言っても過言でない少女が一児の母親になるのですから驚きです。

さて、旧約聖書に、救い主がやがて来られると預言されておりました。その救い主は、イスラエルの有名な王様、ダビデ王の子孫であること(イザヤ11:1-2)、そして、まだ結婚していない処女であること(イザヤ7:14)が条件でした。夫ヨセフがダビデ王の子孫といっても、王族は過去の話で、ナザレという小さな田舎町で細々と暮らしていたのです。しかし、神様は、救い主を待ち望む民に約束した通りに、御言葉と一致する救い主の誕生の準備をなさったのです。

2.恵まれた方マリヤ(28-38節)

 マリヤにみ使いガブリエルは語りかけました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」(28節)。これは、受胎告知というフレスコ画で有名な場面です。羽をもち、白い衣をきたみ使いガブリエルが、マリヤに妊娠を告げる画を、みなさんはご覧になったことがあるでしょう。さて、もし、このような姿のみ使いが突然、目の前に現れたら、みなさんはどう思うでしょうか。きっと、びっくりして、叫び声を上げ逃げ惑うのではないでしょうか。しかし、29節に記されているように、マリヤはみ使いの姿に驚くこともせず、「マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ」と記されています。マリヤが戸惑ったのは、み使いの姿でなく、あいさつでした。恐らく、み使いの姿は、創世記18章のアブラハムに現れた旅人の姿をしたみ使いのような普通の人の姿をしていたのではないでしょうか。

マリヤはどうして、あいさつに戸惑ったのか、その鍵はマリヤに「おめでとう、恵まれた方」と語りかけた言葉の意味です。

私たちが、商店でくじ引きをするとします。一等が当たったときに店員さんに「おめでとう!大当たりです」と言われると思います。これは、その場で一等のくじが当たったからです。しかし、マリヤが「恵まれた方」と言われたのは、マリヤに、あなたは、「これまで神様のご好意をずっと受けてこられた方なのですよ」という意味なのです。神様は、旧約聖書の創世記から救い主について預言しておられるように、以前より私たち人類の救いの計画を立ててこられました。マリヤも、その救いのご計画に入っており、神様からの恵みを受けてこられたのです。私たちも、神様の救いの計画の中にあり(エペソ1:11)、マリヤと等しい恵みを受けているのです。

そして、み使いは、戸惑うマリヤに「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです」(30節)と言いました。この神様から恵みは、マリヤが「みごもって、男の子を産」(31節)むということでした。

マリヤは、このように、み使いから「恵まれた方」、「神からの恵みを受けた」方と呼ばれています。また、ルカ1:48には、マリヤ自身が「ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう」と告白しています。彼女は、本当にしあわせ者だったのでしょうか。それは、この後のマリヤの生涯は波乱に満ちておりました。イエス様の受胎のため夫ヨセフから疑われ、家畜小屋での出産、エジプトへの逃亡、夫ヨセフの死、イエス様の十字架に立ち会うという生涯を送ったのです。

それから、み使いは生まれてくる男の子がどのような人物なのかをマリヤに知らせました。ところが、マリヤは、そのことを聞いて、「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」と答えました。マリヤは、常識的に処女が子どもを産むことなど、ありえないと知っていました。そこで、み使いはマリヤに処女であっても子供を産むことができることを説明します。それは、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」という説明でした。マリヤは、常識では理解できないことであっても、「神には不可能なことは一つもない」という御言葉をそのまま信じ受け入れたのです。

さて、「神にとって不可能なことはひとつもありません」というみ使いの言葉は、私たちにもチャレンジを与える言葉ではないでしょうか。なぜならば、私たちは、通常の日々の繰り返しの中で生活している者だからです。私たちの常識を超えたことは、受け入れることができません。ところが、聖書は、私たちにたくさんの奇跡を示し、それを信じることができるか?と読むごとに挑戦してきます。イエス様がなされた奇跡、たとえば、二匹の魚と五つのパンで5千人を養ったこと、病人や盲人が癒されたこと、死人が生き返ることなど、私たちでは、理解できないこと、信じられないことが聖書に記されております。それだから、私たちにも、「神様にとって不可能なことはひとつもありません」と言う信仰が必要となります。

例えば、私たちは、常識的に鳥は空を飛ぶことを知っています。では、なぜ、鳥は空を飛べるのでしょうか。このことは、鳥の研究者が調べたようです。鳥は大きな翼があり、体が軽く、強い筋肉があり、流線形となっているためとありました。それでは、なぜ、鳥は飛べるようなからだを持ったのでしょうか。鳥はいつから飛べるからだを持ったのでしょうか。鳥が自分で考えてからだを作ったのではありません。創造主が飛べるからだを造られたのです。鳥や人間を造られた創造主であれば、奇跡を起こすことは簡単なはずです。神様「にとって不可能なことはひとつも」ないのです。

3.幸いな人マリヤ(39-45)

さて、マリヤはみ使いからの受胎告知で、親戚のエリザベツが妊娠したことを聞き、エリザベツの住むユダの町に向かいました。マリヤの住むナザレと、エリザベツの住むユダの町は100キロ程も離れておりましたが、マリヤはエリザベツを訪ねたのでした。

私たちが礼拝で御言葉を聞くとき、また、日々、聖書の御言葉を読むとき、神様から私たち自身に重要な御言葉を頂いたとしたら、私たちはどうするでしょうか。恐らく、その御言葉を私たち自身がものにするために、神様に祈り求めるかもしれません。もし、神様が御言葉を理解するためになんらかの助言を用意して下さっているなら、私たちはその助言を十分に用いるはずです。マリヤは、み使いから、エリザベツが「あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です」と聞いたとき、この言葉は彼女の信仰を確信づけるための助言であったと思います。マリヤは、エリザベツのところに出向き、み使いの通りにエリザベツが妊娠していれば、マリヤに与えられたみ使いの言葉が真実であると確信することができます。

私たちも、神様からの御言葉の確信を得るためにはどうすべきでしょうか。使徒の働きの17章10-12節に、ベレヤの町のユダヤ人の例が記されています。彼らは、「非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」とあります。そのために多くの者が信仰に入ったのです。私たちも、御言葉を受けたとき、聖書を用いて、はたしてそのとおりかを調べてみてはどうでしょうか。

マリヤはエリザベツに会って語り、そのときに、エリザベツのおなかの子が動きました。そして、エリザベツは、告白しました。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう」(42,43節)。それから、エリザベツは、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」とマリヤを祝福しました。

聖書には、母マリヤを祝福した女性が記されています。「イエス様が群衆に対して、お話をしていたとき、「群衆の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。『あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。』」(ルカ11:27)。この女は、イエス様を産んだマリヤが幸いだ言っていますが、イエス様はこの女に対して、「『いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。』」(ルカ11:28)と語られました。このイエス様の答えは、エリザベツがマリヤに語った言葉と同様に、神様の言葉を聞いて守る人が幸いなのだと言っています。

ところで、みなさんは幸福学という学問を聞いたことがあるでしょうか。21世紀になって、これまで経済成長最優先の考え方が行き詰ってしまいました。それは、このような考え方のもと、環境汚染、資源枯渇、バブル崩壊、貧富の格差、戦争・テロなどの社会問題のため、いくら豊かになっても、幸せになれないことが分かってきたのです。そこで、学者たちは、幸福学という研究を始めたのです。日本の著名な大学教授、前野氏によれば、日本の経済成長期である1960年から2010年までの50年間に、日本のGDP(国内総生産)は6倍以上になりました。ところが、その間の人々の生活満足度は低いままで、変わっていないのです。私たちは、これまで生活を豊かに便利にしようと努力してきましたが、それによって幸福にはならなかったのです。

幸福の秘訣とは何か、前野氏の統計調査では、4つの要素があることが分かったようです。ひとつめは、「やってみよう」(自己実現と成長)、ふたつめは「ありがとう」(つながりと感謝)、みっつめは、「なんとかなる」(前向きと楽観)、よっつめは「あなたらしく」(独立とマイペース)という気持ちだそうです。しかし、日本人にはなく、欧米人にはあるもう一つの重要な幸福の要素があるようです。それが、信仰です。なぜなら、私たちの信仰には、やってみよう=希望、ありがとう=神と隣人への愛、なんとかなる=信仰、あなたらしく=自分への愛と、幸福の秘訣がすべて揃っているからです。

私たちが神様から頂く恵みは、「受け取る人の価値や功績に関係なく、受けることができる神様の好意や優しさで、神の重要な属性の一つ」だそうです。私たちは、信仰により神様の恵みを頂いたとき、大きな幸福感を得ることができるのではないでしょうか。

さて、マリヤは、神様が派遣したみ使いの言葉を信じ受け入れたとき、イエス様をその胎に宿しました。彼女のからだの内に、キリストがお住まいになられたのです。

もし、私たちが、神様の御言葉を信じ受け入れるならば、私たちもイエス様を私たちの内に宿すものとなるのです。

「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ14:23)

私たちは、マリヤと同じように、信仰によりイエス様を宿す、しあわせ者なのです。今週も、私たちの内にいます主と共に歩んでまいりましょう。

勧士 高橋堅治