ありのままの愛で ヨハネ21:15-17


3月の第四礼拝では、ヨハネ21章から、ガリラヤ湖畔で、復活されたイエス様に、ペテロ、ヨハネをはじめとする7人の弟子たちが出会うところを一緒に学ばせて頂きました。復活のイエス様に出会うために、弟子たちはガリラヤに出向きました。ある日、ペテロのかけ声で、弟子たちは漁に出かけました。ところが、一晩中、漁をしましたが何も捕れなかったのです。早朝、湖岸に立つ一人の人から弟子たちは声をかけられました。それは、彼らが待ちに待ったイエス様だったのです。

本日は、先週のイースターから一週間後で、丁度、この出来事が今の時期の頃に当てはまります。それでは今日は、引き続き、ヨハネ21章の後半から、一緒に学ばせていただきましょう。

1.用意周到な神様

私たちは、仕事や家事などを行う際に、事前の用意が重要なことを知っております。よく段取り八分と言われますが、事前の用意をきちんと行えば、計画通りに物事を進めることができます。まず、神様は実に用意周到なお方であることを学ばせていただきましょう。

イエス様が、ガリラヤ湖で弟子たちに会う目的のひとつが、ペテロの失敗からの立ち直りでした。ペテロは、兵士たちにイエス様が捕らえられた夜、イエス様を三度、知らないと答えました(マタイ26:69-75)。このことは、ペテロにとって大きな失敗でした。実は、イエス様が捕まる前に、イエス様は弟子たちに「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます」(マタイ26:31)と警告していました。その時、ペテロは「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」(マタイ26:33)と言ったのです。それに対して、イエス様は、ペテロに「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います」と伝えました。そして、ペテロは、イエス様の言われた通り、三度、イエス様を知らないと答え、鶏が鳴いたとき、イエス様が言われたことを思い出し、外に出て激しく泣いたとあります(マタイ26:75)。ペテロは、なぜこんな失敗をしてしまったのでしょうか。彼は、自他共に認めるイエス様の弟子の中でリーダー格の人物でした。そして、イエス様からも、信頼されておりました。ですから、イエス様につまずく、すなわち、イエス様を見捨てて逃げるなんて、ペテロ自身、絶対あり得ないと思ったのでしょう。ペテロは、イエス様の弟子たちの中で、他の弟子よりも優れているというプライドをもっていたのではないでしょうか。ところが、ペテロは、イエス様を三度知らないと言ったとき、そのプライドはズタズタに引き裂かれてしまったのです。

そこで、復活なさったイエス様は、ペテロに立ち直らせるために、次のことを用意されました。

まず、ペテロを弟子にしたきっかけとなった出来事の再現です。ルカの福音書5章のペテロを弟子としたときのように、イエス様は、ペテロらが漁に出かけ、一晩中、漁をしても一匹も捕れない状況を作りました。それから、イエス様のお言葉によって、多くの魚を捕ったことを、ペテロは再び体験したのです。

また、ペテロが三度知らないと言ったときの再現です。三度知らないと言ったその時、ペテロは炭火で暖まっていました(ヨハネ18:18)。イエス様は、湖に飛び込んで濡れたペテロのためにガリラヤ湖畔で炭火を起こし、暖を用意されたのです。また、イエス様は、弟子たちと愛餐の時を再現しました。イエス様は食事を整え、弟子たちにパンを裂き与えたのです。まさに、イエス様の公生涯の三年半の間、ペテロと苦楽を共に生活したことを再現し、イエス様にとって、ペテロ本人がかけがえのない存在であり、イエス様は、ペテロをよくご存じであることを知らせたのです。

さて、神様は、私たちにも深い関心を持ってすべてを知っておられるのではないでしょうか。

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」ローマ8:28

私たちの人生の大切な場面で、神様が私たちのために働いて下さっていることを知りましょう。それは、私たちが悲しかったとき、苦しかったとき、嬉しかったとき、神様はあなたに直接関わろうとして下さっておられるからです。

2.この人たち以上に、わたしを愛しますか(15節)  

次に、イエス様の愛の問いかけとペテロの答えを学んでいきましょう。

イエス様と弟子たちが食事を済ませた後、イエス様はペテロに語りかけました。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか」と。イエス様は、「この人たち以上に、わたしを愛しますか」とペテロに尋ねたのです。どうして、このような質問をイエス様はしたのでしょうか。それは、以前のペテロは、イエス様の弟子たちの中で、他の弟子よりも優れていると考えておりました。それでは、今のペテロはどうなのか、イエス様は、ペテロに問いかけているのです。

イエス様は、私たちにも、同様に問いかけをされることがあるのではないでしょうか。それは、私の方が信仰熱心だ、私の方が多く奉仕をしている、私の方が多く献金をしているなどと思ったときです。私たちは、以前のペテロのように他の人よりも信仰が優れていると思うことがあるのです。

ペテロは、彼の失敗によって、彼のプライドは引き裂かれました。ですから、ペテロは、ただ「私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と言えられるだけでした。

神様は、神様と私たち一人一人との愛の関係をとても大切になさいます。神様は、私たちに、他の人と神様の関係に目を向け、批判し裁くのを求めておりません。あなた自身と神様の関係がどうなのかを求めておられるのです。

それから、イエス様は、このペテロに「わたしの小羊を飼いなさい。」と言われました。「わたしの小羊」とは誰でしょうか。この小羊は、弱く迷いやすい存在を表しています。「わたしの小羊」とは、イエス様への信仰が弱く、迷いやすい人々だと思います。イエス様は、このような弱く迷いやすい人々の信仰を養いなさいとペテロに命じられたのです。プライドが引き裂かれ、謙遜を学んだペテロは、イエス様の小羊、信仰が弱くて迷いやすい人々を、自分自身と等しく愛し受け入れることができるようになったのです。

私たち一人一人を十字架の死を通してまでも愛されるイエス様は、弱い迷いやすい兄弟姉妹のためにも死んでくださいました。ですから、私たちも、神様に愛されている兄弟姉妹を愛し受け入れることができるのではないでしょうか。

3.あなたはわたしを愛しますか(16節)

それから、イエス様は、ペテロに再び、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか」と語りかけました。イエス様が言われた「愛しますか」という愛は、神様の愛、命さえも惜しまず与えつくす愛を表しています。聖書には、2つの愛の言葉が出てきます。

ひとつが、このイエス様がペテロに聞かれた愛、神様の愛、与えつくす愛という言葉です。もうひとつの愛という言葉は、人間的な限界のある愛です。ここでイエス様がペテロに問われたのはなんでしょうか。それは、ペテロのイエス様に対する愛の大きさでした。イエス様が捕まる夜、ペテロは、イエス様に「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マタ26:35)と言いました。そうです、ペテロは、命がけでイエス様を愛していると、イエス様に答えたのです。ところが、イエス様が捕まると、ペテロは、三度、イエス様を知らないと言ってしまいました。このとき、ペテロは自分の愛の小ささを思い知らされたのです。

私たち人間の愛には限界があります。人間の愛は、神様のご愛と異なり、変わりやすく、損得勘定があり、自己中心的で不完全な愛です。私たちは、ペテロのように、自分の命が脅かされたり、痛い目にあう恐れがあるとき、相手のために命がけになれないのです。ペテロは、そのような自分の愛を知ったのです。

イエス様の問いに対する、ペテロの答えは、「私があなたを愛することは、あなたがご存じです」でした。この「あなたを愛する」という愛は、人間的な限界がある愛で愛するという答えでした。

私たちは、努力すれば、神様のような愛を実践できると思っているかもしれません。聖書の御言葉を聞き、御言葉の通りに「しなければならない、あるべきである」という心の声が聞こえ、それを守ろうとしていることはないでしょうか。また、御言葉を守ろうとして、それが出来ない自分を嘆き悲しむことはないでしょうか。

母親と喧嘩をしたとき、「信仰者のくせにどうしてそんな態度をとるの?」と言われたことがあります。そのとき、私は、「ああ、またやってしまった!」と後悔したのでした。これは、私が「信仰を持つ者は、怒らず、優しく、謙遜であるべきだ」と考えたからです。しかし、このちょうど、この御言葉を学んでいるときに、私は、このように信者らしい装いをしようとしていることこそ、あるがままの自分を否定していること、神様のような愛を実践できると間違った考えにあるのだと思いました。

イエス様は、ペテロに「わたしの羊を牧しなさい」と言われました。「わたしの羊」とは、イエス様を信じる弟子たちや信徒たちを示します。牧するとは、羊飼いのように、彼らを導き、招くことです。もし、私たちが背伸びをして、神様のような完璧な愛を装ったとしたら、私たちは弟子たちや信徒たちを導くことなどできません。すぐにボロが出るか、心身が疲れ果ててしまうことでしょう。

ペテロが自分のありのままの愛でイエス様を愛していることを伝えたように、私たちもありのままの愛で愛することで十分なのです。

4.あなたはいっさいのことをご存じです(17節)

イエス様は、三度目もペテロに「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか」と問いました。このイエス様がペテロに問われた愛は、ペテロが先にイエス様に答えてきた人間の限界がある愛でした。今度はイエス様の方から、ペテロができる、ありのままの愛で愛するかと聞かれたのです。

ペテロの答えは、「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。」でした。「いっさいのことをご存じです」とは、ペテロとの苦楽を共にして過ごした三年半の生涯を通して、イエス様はペテロ自身のすべてをご存じなのですというペテロの告白です。イエス様が再現されたように、漁の奇跡を通してペテロがすぐに網を捨ててイエス様にしたがったこと、イエス様を三度知らないと言ったこと、すなわち、ペテロ自身にも良い点があり、また欠点もあり、これらのことをイエス様はご存じであると、ペテロは気付いたのです。ペテロは、イエス様が捕まったときに三度、イエス様を知らないと言ったことをとても気にしていたはずです。しかし、そのペテロの欠点もそっくりすべてをイエス様はご存じであると、ペテロは分ったのです。

さて、イエス様は、ペテロに「わたしの羊を飼いなさい」と語られました。ペテロは偉ぶるのでもなく、卑屈になるのでもなく、ただ、ペテロ自身のすべてを知っていてくださるイエス様に対するありのままの愛をもって、イエス様の羊、すなわち、すべての人々を御言葉で養うように使命を与えられたのです。

神様は、私たちの良い点、欠点もすべてご存じです。その上で、ありのままの私たちを愛し、受け入れて下さっておられるのです。神様は、私たちのすべてを知っておられますから、私たちは、背伸びをすることなく、卑下することなく、現在のありのままの姿で神様を信じていけばよいのです。たとえ何か、失敗しても自分を追い込む必要はありません。あなたは、神様にとって、大切な存在なのです。

マックス・ルケードが著した「たいせつなきみ」という絵本には、ウィミックスと呼ばれる木の小人たちが登場します。木の小人たちは、金の星のシールと灰色のだめじるしシールを貼りあうことをしていました。才能のある小人は、星のシール、逆に才能がない小人はだめじるしシールを貼られました。パンチネロは、だめじるしシールがたくさん貼られていました。彫刻家エリのところに行き、エリにとって、パンチネロがどんなに大切な存在かをしったとき、シールが体からはがれ落ちました。

私たちは、プライドという星のシールを付けたり、コンプレックスというだめじるしシールを付けています。神様のところに出向き、私たちの存在がとても大切だと気付くとき、わたしたちもこれらのシールがはがれ落ちるのではないでしょうか。

ペテロは、三度、イエス様を知らないという失敗をしましたが、その失敗を通して、自らが星のシール、プライドを付けていることを知ったのです。また、ペテロはその失敗により、だめじるしシールを自分に付けたのかもしれません。しかし、イエス様の愛の問いに答えていく中、そのシールがはがれ、ありのままの自分でイエス様を愛することができるようになったのです。

神様は、私たちの今あるそのままを受け入れてくださいます。自分のありのままで神様を愛し、神様に従ってまいりましょう。

勧士 高橋堅治