深みに漕ぎ出して網をおろし ルカ 5:1~11 


これまで、神様のお言葉を頂いたときに、神様は私たちがどのように行動することを願っておられるかを学んでまいりました。アブラハムは、神様のみ声を聞いたときに、まったく知らないカナンという地を目指しました。そして、神様のお約束通り、彼の名は大いなる者となり、彼の子孫は祝福されたのでした。また、アブラハムの信仰を通して、妻サラ、そして召使いたちが、神様を信頼するようになったことは、私たちの信仰への励ましになったのではないでしょうか。

本日は、神様のお取り扱いを受けた一人の人、シモン(又の名はペテロ)について、一緒に学びたいと思います。

シモンは、イエス様の弟子たちのうち、使徒に選ばれた12人のひとりで、年齢も一番年上のリーダー格の人物でした。彼は、当時、イエス様が宣教活動をされていたゲネサレ湖(またの名はガリラヤ湖)の北側にある町カペナウムで、弟のアンデレと一緒に漁師をしておりました。また、彼らは、同じ町で漁師をしていた、イエス様の弟子となるゼベダイの子ヤコブとヨハネと協力して漁をしていました。

シモンが、イエス様に出会うきっかけについては、ヨハネの福音書1章に記されています。当時のユダヤの若者は、ローマ帝国の圧政から解放するメシヤを強く求めていました。バプテスマのヨハネの弟子でもあったシモンの弟アンデレは、バプテスマのヨハネがイエス様を「神の小羊」(ヨハネ1:36)と呼んだことから、イエス様に深い興味を抱きました。そして、アンデレは、イエス様こそメシヤであると信じて兄シモンをイエス様に紹介したのです。そして、イエス様は「ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧にな」り、彼らに言われたのです。「『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』」(マルコ1:16-17)と。彼らはイエス様をメシヤと信じておりましたから、「すぐに、彼らは網を捨て置いて従った」(マルコ1:18)のでした。更にイエス様は、ゼベダイの子ヤコブとヨハネを弟子としたのでした。弟子となった彼らに、イエス様は普段の生活に戻ることをお許しになっていたようです。シモンには妻がおり、その母親が熱病に罹っていたのですが、イエス様によって癒されました(マルコ1:30-31,ルカ4:38-39)。これらを通して、イエス様の評判はますます広まり、多くの群衆がイエス様のところに集まりました。本日の話は、こんなある日の出来事のことです。

1.弟子に問いかけるイエス様

イエス様の話を聞こうと、多くの群衆がゲネサレ湖のほとりにやって来ました。そして、群衆は、イエス様の語る神様のお言葉を押し迫るように聞いたと記されています。当時の人々は、神様のお言葉に飢えておりました。彼らが岸に立っておられるイエス様のもとに押し迫ってきたことから、イエス様はお話を中断せざるえませんでした。そのとき、イエス様は2そうの小舟を見つけたのでした。ちょうど、漁師たちが、舟から降りて、網を洗い始めていたときでした。その舟の持ち主は、イエス様の弟子となったシモン、そしてアンデレ、ヤコブ、ヨハネのものだったのです。

さて、ここで、皆さんは、少し疑問を持ったことでしょう。イエス様の弟子となった彼らは、その師匠がお話をされているのを見ているのに、どうして、そこに駈け付けることもせずに、網を洗い始めたのでしょう。彼らの心が、イエス様ではなく、違ったことに捕らわれていたのかもしれません。

5節にシモンがイエス様に伝えた言葉があります。「私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。」と。漁師である彼らは、一晩中、漁をしましたが、一匹すら捕ることができなかったというのです。

ゲネサレ湖は、魚が多く取れるところだそうです。当時、漁師である彼らは召使いがいるほど裕福であり、捕れた魚をエルサレムなどの都市で売ったようです。ゲネサレ湖の魚は、「聖ペテロの魚」と呼ばれるティラピアという魚がよく釣れるようです。このティラピアは、日本ではいずみ鯛と呼ばれ、石鯛や真鯛に似た食感で非常に美味な魚だそうです。真鯛が養殖される前は、寿司のネタなどにも使われていたのだそうです。

ところで、私たちは、一日働き通した上に、何の成果もなかったとき、どのような気持ちになるでしょう。仕事をしても上手くいかなかった、大きな失敗をしてしまった、お客様、または関係者の期待に沿うことができなかった・・・、私たちの心はひどい疲れを感じているのではないでしょうか。まして、後の残務があって、それをやるとなると、とても憂鬱な思いになるのではないでしょうか。

そうです、彼らも、イエス様に声をかける気力も失せて、意気消沈していたのだと思います。

イエス様は、弟子のひとりであるシモンに声をかけられました。シモンの舟に乗り、彼に陸から少し漕ぎ出すように頼まれたのでした。イエス様は、シモンの気持ちをよくご存じだったのでしょう。ここで「頼まれた」とありますが、本来の意味は、「尋ねられた」という意味であり、相手が拒否することを認めるものであります。すなわち、イエス様は、シモンの気持ちを察し、優しく問いかけられたのです。

2.深みに漕ぎ出して網をおろして魚をとりなさい

イエス様は、シモンの舟に座って、岸辺にいる群衆に向かってお話をされました。そして、お話が終わると、シモンに語られたのです。「深みに漕ぎ出して網をおろして魚をとりなさい」と。更に、イエス様は、彼らの意気消沈している理由を知っておられました。

シモンは、「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」と答えました。これは、リビングバイブル訳が、シモンの気持ちを表現しています。「でも先生。おれたちは夜通し一生懸命働いたんですぜ。なのに、雑魚一匹とれなかった。だけど、まあ、せっかくそうおっしゃるんだから、もう一度やってみますがね・・・・。」すなわち、イエス様のシモンを気遣う言葉をうけとれず、彼は、「もう、勘弁してくださいよ!」という否定的な気持ちに支配されていました。

私たちは、神様からお言葉によるチャレンジを頂いたとき、どのように応答するでしょうか。特に、失敗続きだった、何度も試したけど無理だった、挫折続きのときに、聖書のお言葉を頂いても、「勘弁してくださいよ」と言いたくなることはないでしょうか。

コロナ禍の前まで毎年、5月末に行われたマーチフォージーザスのリーダー役をしてきましたが、数年前に、本当に行きたくないという思いで心が支配されたことがあります。「主よ、今年は私には無理です。」と答えておりましたが、私の心に後ろめたさを感じると共に、「わたしがお前を必要としている」という語りかけが続きました。私は、その語りかけに降参し、そのときも、リーダー役を買いました。その奉仕を通して、神様が私を必要とされておられることを深く学ばせていただきました。

私たちは、神様からチャレンジがあったとき、先が見えない事柄に、否定的な思いで満たされるかもしれません。しかし、そんなときに、シモンが言ったとおりに「でもおことばどおり」という言葉を使ってみてはいかがでしょうか。そして、重い腰を上げて、神様のお言葉を信じて従ってみるのです。

3.シモンの召命

シモンは、イエス様の言われることを渋々、従ってみました。聖書には、「そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった」とあります。結果は、シモンが想定していた無駄足だった・・・、のではなく、なんと、たくさんの魚が入って、網が破れそうになったのです。「そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。」

そうです!驚くべきことが起こりました。1そうの舟では取り上げられず、助けを呼んだのです。そして、2そうの舟でも沈みそうな魚の量、大漁でした。

当時の舟の大きさは、長さが6~9m、幅が1m程度の木造船だそうです。漁獲量は、2そうで300匹ほどだと思われます。

これは、たまたま、湖の深みに魚がたくさんいたことをイエス様が知っていたということでしょうか。いいえ違います。それは、イエス様のお言葉に従った結果であり、天地をご支配され、それを御心のままに行うことがお出来になるお方の御業なのです。

そして、「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。』と言った」のです。

これは、シモンが恐怖心を抱き、イエス様に対して離れてほしいと願ったのではありません。彼はイエス様が行われた大きな奇跡を経験し、その栄光、偉大さ、権威に打たれたのでした。更に、その栄光、偉大さ、権威に対する自らの無価値さ、卑劣さを覚えて、「罪深い」と感じるのです。

私たちは、まことの神様の前に出たときに、自分が滅びるべき存在であることを知ります。

イザヤは、神様の幻を見たとき、このように記しています。

「そこで、私は言った。『ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。』」(イザヤ6:5)

また、使徒ヨハネは、パトモス島でイエス様の栄光の御姿をみたときに、

「それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。」(黙示録1:17)と語っています。人間が神様の栄光に触れたときに、私たちは大きな恐れを持つのです。

イエス様は、シモンに「こわがらなくてもよい。」と答えられました。シモンが恐れをもつときに、イエス様は、恐れなくてもよいという言葉と共に、神様のご愛で彼を包み込みました。私たちも、神様の偉大さ、権威を覚え、あまりにも大きなその存在に驚くとき、神様のお言葉によって、神様のご愛を深く心に受け止めることができます。

この証しは、今まで何度がしたものですが、

19年前、内田先生が講師をされた信州クリスチャン修養会に家族で参加したときでした。集会から帰った夜の2時頃に、突然、イエス様が私の心に語りかけてこられたのです。私は、イエス様に仕えたいという思いもありましたが、普段、自分の仕事に追われ、イエス様のために何もしていないことに心を痛めていました。そして、そのような自分を責め、とても辛く悲しくなりました。しかし、イエス様は、私を責めることをせず、「そのままでいい」とのお言葉を頂き、私のありのままを受け入れて下さったことがありました。そのご愛の深さを今も思い起こすと、目頭が熱くなります。

イエス様は、シモンに恐れることはないと励まし、さらに彼に新たな召命をお与えになったのです。「これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」(10節)

このイエス様のお言葉は、シモンだけでなく、他の弟子たちにも告げられたようです。「彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った」(11節)のです。今までは、彼らは漁師という立場をとりながら、イエス様の弟子となっていました。そして、彼らは、日々の漁の出来不出来に一喜一憂をしていたのです。しかし、イエス様の栄光をその身で体験し、そのご愛に触れたとき、イエス様は彼らの人生そのものとなったのです。

神様は、私たちも、それぞれの人生に派遣されておられます。ある人は会社で仕事を、また、ある人は家庭に、ある人は学校に、私たちはそれぞれの使命を神様から頂き、そこに派遣されています。私たちが神様の栄光を体験し、そのご愛を受けたら、そのときから、イエス様が私たちの人生の土台となるのです。そして、私たちは、イエス様に仕えるように、仕事、家庭に仕えていくことができるのです。私たちが仕事、家庭、学校が辛くなり、イエス様にお応えすることが難しいと感じたとき、私たちはシモンのように「でもおことばどおり」と、神様のご愛に少しでも従う気持ちを現わされたらどうでしょうか。イエス様は、私たちに、「こわがらなくてもよい」と語りかけ、私たちと一緒に歩んで下さります。

勧士 高橋堅治