アブラムの従順 創世記 12章1節~8節 


前回のヨハネの福音書5章では、イエス様は、ベテスダの池で38年間の病気の人に、床を起きて取り上げて歩くことを命じました。私たちを拘束している床、否定的な心、束縛している想いがあるなら、信仰をもってそれを取り上げ、イエス様と新しく歩み始めることの大切さを学びました。

さて、本日も、神様の御声を聞いて、それに従った方について、聖書から学ばせていただきます。

ご存じのように、聖書は、旧約聖書38巻、新約聖書24巻、計66巻から成り立っています。そして、その一番最初にある物語が創世記です。更に、創世記の最初、すなわち、聖書の最初の言葉は、「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)と記されています。この世界が神様によって始められたものであること、神様は目的をもって私たち人類を創造なさったことが記されております。更に、創世記には、初めの人のアダムとエバが罪を犯し堕落すること、ノアの洪水によって人類は神様の裁きに逢うこと、そして、人類の高慢(バベルの塔)のため、神様は人々の言葉を違った言葉にしてしまったこと、すなわち、神様と人類との歴史が記されています。

本日の創世記12章では、神様が、ひとりの人物にお心を留められ、その人物がどのように歩んだかを共に学びたいと思います。その人物とは、アブラム(または、アブラハム)と呼ばれる人です。私たちが学校で世界史を学ぶと、最初に世界の四大文明を学びます。メソポタミア、エジプト、インダス、中国の文明です。そのひとつメソポタミア文明は、今のイランにあるチグリス川、ユーフラテス川で栄えた文明です。アブラムは、当時、栄えていた文明都市ウルで生まれました。彼の父は、テラと言い、「テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。」(創世記11:31)と記されているように、アブラムたちは、父テラと共に、カナンの地に向かって、ウルを出て行ったのでした。

1.神様からの語りかけ(12:1-3)

アブラムは、神様から語りかけられました。神様が彼に語りかけたのは、ウルに住んでいたころです(使徒7:2-4)。当時のウルは、月の神をはじめとする多くの神々が拝まれていました。ところがアブラムに語りかけた神様は、「主」と呼ばれるお方でした。聖書で「主」と呼ばれるお方は、この世界を創造し、堕落・裁き・高慢という人類の歴史を見てこられた創造主を述べており、そのお方を神様と呼んでおります。主は、アブラムに「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(1節)と命じられたのでした。当時のウルは、高度な文明都市で、最も快適な生活をすることができた場所だったと思われます。しかし、主は、まことの神ではない偶像に満ちたウルから出て行くこと、そして、主がお示しになる地に向かうことをアブラムに告げたのでした。

主は、さらに「そうすれば」と語り掛けます。もし、アブラムがウルから出て、主が示される地に行くなら、主は、「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(2,3節)と約束されたのです。

すなわち、

1)アブラムを大いなる国民、アブラムの名を大いなるものとする

2)地上のすべての民族は、アブラムによって祝福される

という約束です。

さて、主の声を聞いたとき、アブラムはどのように思ったことでしょう。その不思議な体験に驚いたと共に、空耳であるかもしれない、とても信じられない、と思ったのではないでしょうか。彼は、自分の親たちが信仰している神々の声と受け取ったかもしれません。しかし、その方が主と呼ぶべき方であることを知り、ウルに祭られている神々と違う方であることも知ったのではないでしょうか。故に、彼もウルの地から出て、主のお言葉に従いたいという心の願いが起こされたのだと思います。

私たちが、聖書の神様を初めて知ったときのことを思い起こしましょう。ある方は、幼い頃、教会学校で学んだかもしれません。友人から誘われて、教会に出向いたのかもしれません。アブラムと同じように、私たちにも、神様との最初の出会いがあったはずです。

2.アブラムの従順(12:4-5)

主のみ声を聞き、「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた」(4節)のでした。それは、創世記11:31に記されている通り、彼は、父テラ、妻サライ、甥ロトと一緒にウルの町を出て、カナンの地に向かったのです。ただ、途中で、ハランの地で父テラと死別しました。ハランの地で、アブラムらは、しばらくの間滞在し、多くの召使いを得たようです。ハランの地からは、妻サライ、甥ロト、そして彼の召使いらと共にカナンの地を目指しました。ハランを出たとき、アブラムの年齢は、既に75歳であったといいます。アブラムは、ハランに留まることをせず、まだ、見たことのない土地に、主の約束を信じて向かったのです。 

旅を共にした妻サライ、甥のロトは、どうだったのでしょう。彼らは、アブラムから、主のお言葉を聞いて、カナンの地に向かうことを聞いていたかもしれません。アブラムが出向こうとしたとき、彼らはアブラムと行動を共にしました。しかし、彼らの主への信仰はアブラムとは較べようもなかったようです。

例えば、アブラムとロトの家畜の牧者たちの間で争いが生じたとき、アブラムはロトに土地の選択権を譲りました(創世記13:9)。そして、ロトは、肥沃なヨルダンの低地全体を選び取りました。アブラムは、荒野が多く、決して肥沃とは言えないカナンの地を取りました。アブラムは、このような地であっても、主のみ声を聞き、その地を主がお与えになったことを知り、祭壇を築き、主を讃えたのです。

妻サライは、アブラムの信仰を理解していました。しかし、子どもを産めないことを、「主は私が子どもを産めないようにしておられます」と、主を信頼するのではなく、サライ自らが判断しました。

このように、アブラムの信仰は、一人孤独なものであったのでした。彼には、主以外に、誰も信仰の導き手がおらず、もちろん、聖書を含む信仰書などありません。ただ、彼は、主に従ってカナンに出向いたときから、彼の信仰は主によって励まされ、養われてきたのです。その彼の信仰と主の祝福を見て、妻サライや召使いは、主ご自身と、彼の信仰を認めてきたのです(創世記21:6,24:27)。

それでは、私たちはどうでしょうか。家族の中で、私ひとりがクリスチャンという方が多いのではないでしょうか。家族が信仰を理解してくれないことに悲しまれた方もおられると思います。

信仰の父と呼ばれるアブラムは、周りの人々に、その信仰を認めてもらえなかったようです。タルムードによれば、アブラムの祖父、父は、偶像崇拝者で、アブラムは彼らから迫害を受けたという伝承があります。しかし、アブラムの忍耐は、妻サライ、召使いだけでなく、その後の子孫の信仰に大きく影響を及ぼしました。私たちも、主に励まされつつ、信仰を歩みつづけるなら、私たちの周りの家族や知人に大きな影響を与える者になるのではないでしょうか。

3.主の祭壇を築く(12:6-8)

アブラムがカナンの地に入ったとき、主ご自身が彼に現れました。その時、アブラムは、「自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。」(6節)と、祭壇を築き、主に礼拝したのです。また、彼が住まいである天幕を張ったとき、「彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。」と記されています。アブラムの心は、主が現れたとき、そして、アブラムが生活に入るとき、まず、主の祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝をおこなっています。アブラムの生活は、常に主を礼拝することに徹していました。

アブラムのその後の歩みは、失敗もありましたが、主が祝福をして下さり、子孫も多く与えられたのです。アブラムは、その一生において、主から約束された事柄(2節)の実現を自ら目にすることはできませんでした。

しかし、現代の私たちは、創世記12:2にある主の約束が真実であったことを知っております。

アブラムの子孫、イスラエル国は、神様にとって特別な民となり、唯一の神様を信仰をする国家に成長しました。多くの民族が滅びる中、現在もイスラエル国家が存在しています。また、アブラム(アブラハム)の名は、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒といわれる世界人口の半数以上を占める中で、偉大なる人物とされ、その名を多くの人々が知っています。さらに、多くの人々は、アブラハムの子孫であるイエス・キリストによって、神の救い、神の祝福を受けています。

このように、創造主に対する、ひとりの人の信仰が、これまで多くの人々を祝福してきました。

聖書では、私たちが、アブラムの従順のように、私たちがイエス様に従うこと、イエス様について行くことを何度も勧めています。

「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」(ヨハネ12:26)

私は、イエス様に仕える者というと、マザーテレサを思い起こします。

彼女は、1946年の9月、年に一度の黙想を行うため、ダージリンに向かう汽車に乗っていた際に「すべてを捨て、もっとも貧しい人の間で働くように」という神の御言葉を聞きました。彼女は、ひとりで修道院を出て、カルカッタのスラム街の中へ入っていったのです。彼女はインド女性の着る質素なサリーを身にまとい、神の御言葉の通りに、貧しい人々に仕えた生涯を通して、人々に神様のご愛と、愛することについて教えてくださいました。

このように、アブラムだけでなく、神様の御言葉を聞いたときに行動を起こす人は、現代でも神様の偉大な事業を成すことがわかります。

さて、私たちも、神様からの御言葉のチャレンジ(挑戦)を頂いていないでしょうか。私たちが離れたいと思っている習慣などから離れ、神様が示す生き方があるのではないでしょうか。そして、聖書のお言葉を聞き、私たちに残された人生をどのようにゆだねていくことが、神様に期待されているのでしょうか。

まずは、小さな事柄からはじめてはいかがでしょう。家族や知人に優しい言葉をかける、家族のために自分の出来ることを捧げていく等々、愛する者への短い祝福の祈りであってもいいのです。私たちが隣人に行う愛の行為は、イエス様を愛することに等しいのですから。

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1)

勧士 高橋堅治