とった魚を幾匹か持って来なさい ヨハネ21:1-14 


前回は、ルカの福音書から、使徒ペテロがイエス様にお従いしたことを学ばせていただきました。私たちは、神様の偉大さを知ったとき、私たち自身の小ささ、罪深さを感じ、恐れるようになります。しかし、神様はその愛をもって、私たちを励まし、私たちが神様に従うことが出来るようにしてくださるのです。

本日は、ヨハネの福音書21章の前半から、ルカの福音書5章にとてもよく似た状況に出会った弟子たちの話から一緒に学ばせていただきます。

21章後半については、次の機会に学ぶことと致します。

1.イエス様を待つ弟子たち

このヨハネの福音書21章は、ヨハネの福音書の最後の章です。多くの聖書学者によれば、ヨハネは20章まででこの福音書を完成させましたが、後から「あとがき」のように、この章を追加したのではないかともいわれております。しかし、この章は、イエス様が十字架のご苦難の後、復活され、弟子ペテロに新たな使命をお与えになったことが記されており、とても美しい情景が記されているのです。

1節の「この後」と始まります。その前に、イエス様が十字架の死から復活なされ、弟子たちは、2度、復活のイエス様に出会いました。最初は、復活の当日、締め切った部屋、すなわち、弟子たちがユダヤ人を恐れて隠れていた部屋に入ってこられたのです。そして、二度目は、トマスが持つイエス様への疑いを晴らすために、再び、現れました。

イエス様が復活なさったとき、墓に現れたみ使いは、お墓に来た女性たちにはっきりと、「ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」(マタ28:7)と語ったのでした。そして、本日のテキストである、テベリヤ湖の湖畔でのイエス様との再会が記されています。

テベリヤ湖とは、ガリラヤ湖のことです。聖書では、ガリラヤ湖の呼び名が3種類出てきます。ルカの福音書5章ではゲネサレ湖と記されていますね。この当時の一番大きな町、テベリヤ、そして、ゲネサレも湖岸の町の名前、ガリラヤはその地方の名、同じ湖をガリラヤ湖、ゲネサレ湖、テベリヤ湖と呼んでいたようです。本日は、ガリラヤ湖と呼ぶことにします。

ユダヤ人を恐れていた弟子たちは、イエス様との再会の約束を信じ、ガリラヤ地方に帰っていったのです。弟子たちは一緒にいたと記されているように、イエス様がお会いに来られるのを一緒に待っていたのでしょう。その顔ぶれは、イエス様を三度、知らないと言ったペテロ(18:17,25,27)、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」(20:25)と言ったトマス、「ナザレから何の良いものが出るだろう」(1:46)と語ったナタナエル、「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」(ルカ9:54)と言ったゼベダイの子ヨハネとヤコブ、そして、あと二人の弟子たちが共にいました。何か、問題児ばかりですね。この弟子たちは、きっと、イエス様といつ会えるのだろう、ガリラヤのどこでお会いできるだろうと思いめぐらしていたのではないでしょうか。彼らには、分からなかったのだと思います。弟子たちは、イエス様の方から、会いに来られることを信じて待っていたと思います。

じっと待つことが苦手なのか、とうとう、ペテロが動き始めました。ペテロは、待つことに耐えられず、漁に出向くことにしたのです。ほかの6人の弟子たちもペテロと伴ったとあります。

さて、現代の私たちには、イエス様のお約束を信じて待つということが少なくとも2つあると思います。1つは、私たちが願い求める祈りの答えを待つことです。イエス様は、「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになる」(15:16)とお約束しておられます。私たちは、イエス様の御名で祈り求めますが、祈りにはいつも忍耐を強いられます。私たちは、ときに、イエス様のお約束を疑うこともあるのではないでしょうか。しかしながら、私たちの人生を振り返ったとき、願い通りではなかったとしても、神様は私たちに祈りの答えを下さっておられることが多いのです。もう1つは、すべてのクリスチャンの希望であるイエス様の再臨です。ペテロは、Ⅱペテロの手紙の中で、「その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。」(Ⅱペテ3:10-12)と語っています。私たちは、イエス様が再臨される日を待って、日々、歩みたいと思います。

2.主です

さて、一晩中、漁をした彼らは、「何もとれなかった」(3節)のでした。彼らは、しばらく漁から離れていたとしても、それまで長年、漁で生計を立てており、舟、網などの道具も揃い、その上に経験も豊富でした。しかし、その日は、何もとれなかったのです。

夜が明けそめたとき、それは太陽がまだ出てこない、東の空が明るくなってきた頃、ちょうど5時頃だと思います。

(イスラエルと日本の緯度はほぼ同じで、イエス様が復活なさった頃、すなわち、3月末から4月最初の頃の日の出時刻は5時45分ぐらい。)

早朝、ペテロたちは、湖畔から100mほど離れたところで漁をしていたようです。岸辺に一人の人影があるのが見えました。まだ、薄暗い中ですから、100mも離れたところに人が立っていても、誰だかわからないのです。その岸辺に立っている人は、ペテロたちに向かって声をかけてきたのです。「子供たちよ、食べる物がありませんね。」と。その人は舟で漁をしているペテロたちに向かって、「魚は捕れたかい?」と少し大きめな声で話しかけてきました。彼らの答えは、「ねぇーよ!」という一言でした。魚が捕れないため、彼らの心は疲れ切り、できれば、答えたくないほどだったのだと思います。

私は、以前、週末になれば、〇〇さんと、よく釣りに出かけました。遠方に時間をかけて釣りにいったにもかかわらず、成果が全くなかったときは、悔しいと共に、大変に疲れたのを覚えています。

ところで、100mほど離れた距離で会話ができるのでしょうか?私は息子和基に時間をもらって試してみました。川の対岸で100m離れて、話しかけてみました。小さな声では、相手は何を言っているか理解できないようですが、辺りが静かであれば、少し大きめな声であれば、相手に伝わるということが分かりました。ただし、騒音があると聞き取れないみたいなので、当時のガリラヤ湖畔は、雨風もなく、穏やかで静かな早朝であったのだろうと思います。

さて、岸辺に立った人は、「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」と言いました。漁師であった彼らですが、その人の言葉に素直に従ったのです。どうして、彼らは、その言葉に素直に従ったのでしょうか。そこにいたペテロ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、以前、一晩中、漁をしても魚が一匹も捕れないことがありました。イエス様は、彼らに沖へ出て、網を下すことを勧められました。そのお言葉に従ったとき、多くの魚を捕ることができた体験を覚えていたはずです。彼らのこの体験は、彼らの人生を大きく変えるきっかけとなったものでした。「すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった」のです。彼らの人生を変えた大きな体験から、弟子のひとり、ヨハネはすぐに「主です」と答えました。また、ペテロは、イエス様のところに早く行きたいという衝動から、上着をまとって、舟から飛び降り泳いで岸に向かったのです。ペテロの心は、イエス様、待っていましたという気持ちでいっぱいだったのです。

さて、ここで、皆さんに、質問を致します。皆さんは、いままでの人生の中で、「主です」と言える体験はないでしょうか。過去の体験で、このことこそ、イエス様がしてくださったことだと言える体験はないでしょうか。

もし、ないという方がおられるなら、是非、一度、これまでの人生の中で、不思議なことがあったという体験がないか思い巡らすことをお勧めします。ヨハネは、ヨハネが体験したイエス様の奇跡から、岸辺の人がイエス様だと気づいたのです。

人生を振り返り、主が私たちひとりひとりに行ってくださった奇跡をきちんと知ることができたら素晴らしいと思います。なぜなら、イエス様が、どれほど、私たちの人生そのものに関心を持たれ、私たちと共に歩んでおられることを発見することができるからです。

そして、そのような体験を発見したら、是非、お証し頂き、互いに主を褒めたたえたいと願います。

3.とった魚を幾匹か持って来なさい

弟子たちが陸地に戻ると、イエス様は、炭火とその上に載せた魚とパンを用意されていたのです。イエス様は、一晩中、働き続けた彼らのために、朝食を準備しておられました。そして、更にイエス様は弟子たちに言われました。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい」と。イエス様はどうして、弟子たちに、魚を持ってくることを願ったのでしょうか。イエス様は、弟子たちが何人そこにいて、彼らの必要な食事の量も把握されていたはずです。そして、イエス様ならば、弟子たちの必要な量を用意されたことでしょう。しかし、弟子たちに、魚を持ってくることを願われたのです。

神様は、私たちがこの世界に生まれたときから、私たちを守り、私たちを育ててくださる方を準備してくださっております。それは、親であり、兄弟かもしれません。また、私たちが生きていくのに必要な食べ物と、その食べ物が育つのに必要な太陽、土地、雨などの豊かな自然を与えてくださいました。また、私たちが雨風をしのぐため、寒さ、暑さから逃れるため、住む家を与えてくださいました。さあ、私たちの身の回りの物をひとつひとつ見てください。それは、私たちのために、神様が創造されたものばかりです。このように、神様は私たちを深く愛し、私たちが必要なものを全てお与えくださっているのです。

それでは、弟子たちの捕った魚はどうでしょうか。彼らは、魚を取るのに必要な舟と網があり、魚を取る技術もありました。にもかかわらず、彼らには一匹も捕れませんでした。しかし、イエス様の声に従ったとき、たくさんの魚を捕ることができたのです。弟子たちは、それはイエス様の御業であることを知っていました。イエス様によって与えて頂いた魚ですから、その多くの魚から、喜んで幾匹の魚をイエス様に差し出すことができたのです。

神様は、神様の御声に聴き従って行う、私たちの奉仕、それは、私たちの仕事であったり、家族に仕えたり、隣人を愛し仕えること、そのことをお喜びになります。更に、神様が与えてくださった恵みを神様に差し出すときに、神様はとてもお喜びになるのです。

ちょうど、幼い子供が、プレゼントをもらったとき、嬉しさのあまり、そのプレゼントを親に見せるときに、親が子供の喜ぶ顔を見たらどうでしょう。いとおしくなりますね。

イエス様は、弟子たちに言いました。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」そして、パンと魚を祝福して弟子たちにお与えになりました。私たちが神様に差し出したものに、神様はご自身が私たちのために用意した恵みをお加えになり、祝福して、私たちにお与えくださるのです。

Ⅱコリント9:10-12に、「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。」

私たちは、まず、私たちを愛して下さる神様の心を受け止め、私たちが喜んで神様に差し出すものが何であるかを考えてみてはいかがでしょうか。神様は、それをきっと喜んでくださることでしょう。

勧士 高橋堅治