本日から来週のイースターにかけて、受難週をおくります。教会によっては、受難週の行事として、これから来週のイースターまで、日々、イエス様の受難をしのぶ行事が行われるようです。このような行事は、2~3世紀のエルサレム教会で始まり、次第にギリシア正教会、カトリック教会、聖公会などで行われてきたようです。私たち、プロテスタント教会では、これらの習慣は教会毎に異なるようですが、これから一週間をイエス様の受難を覚えつつ、日々、関係する聖書箇所を学ぶには良い時期だと思います。
本日のテキストは、旧約聖書のイザヤ書53章です。イザヤ書は、紀元前700年前頃に、預言者イザヤによって記された書物です。この預言者とは、神様のお言葉を神様から聞き、それを人々に語り伝える人のことをいいます。イザヤ書53章には、「主のしもべ」と言われる人物が登場します。この人物とは誰なのか?この人物は、私たちに関わりがあるのかどうかを一緒に学んでまいりましょう。
1.主の御腕
イザヤは、53章1節で、2度の疑問を読者に投げかけております。まずは、「私たちの聞いたことを、だれが信じたか」と尋ねています。これは、「いったい誰か信じた者はいるのだろうか?」と、イザヤは思いもよらず驚いている様子がみられます。それは、イザヤが神様から聞いたことが、あまりに思いもよらないことだったからです。更に、続いて、イザヤは「主の御腕は、だれに現れたのか」と読者の目を「主の御腕」に向けさせています。この「主の御腕」とは、イザヤ書51:4-5で「わたしの腕」と記されている人物です。
「わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしから出、わたしはわたしの公義を定め、国々の民の光とする。わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている。わたしの腕は国々の民をさばく。島々はわたしを待ち望み、わたしの腕に拠り頼む。」(イザヤ51:4-5)
この4節、5節では、「わたし」すなわち、創造主なる神様は、その民に対して、「心を留めよ」「耳を傾けよ」と語りかけ、「わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている」と、神様による義、救いが近いことを語っています。それは、「わたしの腕」が、国々、すなわち、全世界の民をさばくこと、そして、「島々はわたしを待ち望み、わたしの腕に拠り頼む」、全世界の人々が、「わたしの腕」に拠り頼むとあります。イザヤは、この人物「主の御腕」こそは、全世界の人々が拠り頼む救い主であることを語っています。(それでは、イザヤ書53章に戻ります)
2節以下から、イザヤが思いもよらなかった救い主の姿を明らかにしていきましょう。
2.救い主の姿
では、イザヤがここで語る救い主は、どんな方なのでしょう。
まず、2節で救い主は神様の前に若枝のように芽ばえたとあります。「若枝」は、木の切り株から生え出る弱々しい新芽を表し、ユダヤ人にとっては特別な人物です。ヒントは、イザヤ書11章1-2節にあります。
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」(イザヤ11:1-2)
エッサイはダビデ王の父であり、イザヤ書で若枝というのは、ダビデの子孫を表します。そして、この人物は、「砂漠の地から出る根」というように、何も生えていない乾いた痩せた地、すなわち、へんぴな地から現れた者であると記されているのです。
イザヤの語る救い主と、イエス様を照らし合わせてみましょう。マタイの福音書1章には、イエス様の系図が記され、イエス様はダビデ王の子孫であることが分かります。それから、イエス様は、ナタナエルに「ナザレから何の良いものが出るだろう。」(ヨハネ1:46)と呼ばれるように、何もない不毛な土地ナザレで一般の人々と同じように育ったのです。
更にイザヤは語っています。救い主は、「私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」お方です。ユダヤ人が待望した救い主は、外国の支配者からユダヤ人を解放する力強い英雄でした。ところが、イザヤの語る救い主は英雄ではありません。それどころか、「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」(3節)人なのです。
では、イエス様はどうでしょう。イエス様は、当時のユダヤ人の権力者、サドカイ人、パリサイ人らから罪人の友と言われ軽蔑されました。イエス様は、当時の社会的弱者に寄り添い、そのような人々を深く憐れむお方、人々が病で苦しまれるのを知って、その病を癒されるお方でした。
更に、イザヤは続けて、救い主について語っています。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」(4節)、「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(5節)のです。とても救い主と言えない軽蔑される人物、この救い主は、人々のそむきの罪のために刺し通され、咎のために砕かれた、すなわち、人々の罪のために死んだというのです。
先ほどイザヤ書51章に記されたように、救い主は、全世界の人々がより頼む方です。私たちのこれまでの人類の歴史上で、ダビデの子孫、罪人の友、人々のそむきの罪のために刺し通され、殺された方、全世界の人々に拠り頼まれてきたお方は、イエス様の他、前にも後にも、誰もおりません。
そうです、預言者イザヤは、この53章で、イエス様が救い主としてお出でになることを語っているのです。それも、イエス様がお生まれになる700年もの前に、語られたものなのです。
イエス様は、預言者によって神様が旧約聖書の中で紹介されたお方、そして、人類の歴史上の事実として証明されているまことの救い主なのです。
みなさんは、ユダヤ人をご存じだと思います。ユダヤ人は、ユダヤ教を信じる母親から生まれた者、または、ユダヤ教を信じている者だそうです。このユダヤ人は、幼い頃から聖書を学び、神様の教えを忠実に守る人々です。そして、ユダヤ人は、今も救い主がお出でになることを待ち望んでいるのです。彼らが待ち望んでいる救い主は、エルサレム神殿を解放し、復興する英雄です。しかし、ユダヤ人へのキリスト教伝道をするとき、ユダヤ人が、このイザヤ書53章からイエス様を知ったとき、彼らの待ち望む救い主が、実はイエス様であったと認め、イエス様を救い主として受け入れる人々が、現在もいるのです。
皆さんに伺います。あなたはイエス様を救い主として来られたお方と信じますか?このイザヤ書53章で語られた救い主の事実を知って、「その通りです」(アーメン)と言うことができますか。
3.すべての咎を彼に負わせた
イザヤが53章で語る救い主は、イエス様なのです。イエス様は2000年も前に、お生まれになり、十字架で死なれたお方です。現代の私たちと、なんの関わりがあるのでしょうか。
イザヤは、「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」(6節)と語っています。
「羊のようにさまよい」とは、羊飼いがいない状態を表しています。羊は、群れをなして行動する動物だそうです。もし、羊がその群れから離れると、強いストレスのため、死んでしまう羊もいるそうです。そして、群れを導く羊飼いがいない場合、羊の群れは、勝手に動く羊によって導かれるようです。そうなると、群れごと、オオカミなどの餌食になることがあるのです。では、私たち人間はどうでしょう。私たちも、羊のように、社会行動を行い、もし、正しく導く者がいない場合は、非常に危険な状態になることを知っています。例えば、現在のロシア・ウクライナの戦争では、ロシア国民は戦争を望んでいなくても、その指導者が正しく導かないために、とても悲惨な状況に陥っています。
このように、イザヤは、私たち人間が実は羊飼いである神様がいない状態で、自分かってな道に向かっていることを示しています。聖書では、このような状態を罪と呼んでいます。そして、神様は、正しいお方でありますので、ノアの時代では、罪の中にある人類を裁き、滅ぼしました。ところが、イザヤがこの53章で記した神様のご計画は、救い主に罪を負わせ、人類の代わりに、裁き滅ぼすことでした。それは「私たちのすべての咎を彼に負わせ」(6節)るという方法でした。
イザヤが「私たちの聞いたことを、だれが信じたか」というほど、救い主、イエス様によって、神様が行われる「救い」のご計画は驚くべきことだったのです。
何故、神様は、「すべての咎を彼に負わせ」たのでしょうか。
それは、神様が、私たち人類を深く愛しておられるからです。神様は、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(Ⅱペテロ3:9)
それでは、救い主はどのような方法で、咎を負われたのでしょう。イザヤは、続く7~9節でこのように語っています。
「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。」
そうです、これはイエス様が暴虐な裁判によって、十字架刑と定まり、鞭打たれ、十字架の上で死に葬られたことなのです。その苦しみの中、イエス様は、「口を開か」ず、従順にその苦しみを耐え忍ばれたのです。
ペテロの手紙第一2:22-25をお読みします。手紙の著者のペテロは、イザヤが語ったことを証ししています。
「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」
イエス様のお生まれになる700年以上も前に、どうして、神様は、イエス様をイザヤに示されたのでしょうか。それは、私のため、あなたのためなのです。
この世界は、創造主なる神様によって造られました。しかし、私たちは、正しい導き手である神様に従わず、それぞれ自分の道を歩んでしまっているのではないでしょうか。今から、およそ2700年も前に、イザヤをとおして、神様は、救い主の苦しみ、罪を負われることを予告されました。そして、今から2000年前に、イエス様によって、イザヤの記した通りに実現しました。このことは、私たちの世界には創造主なる神様がおられること、私たちの罪を悲しんでおられること、そして、罪のままの私たちはやがて滅んでしまうため、私たちをイエス様によって救おうとご計画されていたこと、そして、イエス様の十字架を通して神様の救いのご計画の実現したことが真実であった、ということを、私たちは受け入れることができるのではないでしょうか。そして、神様のこの救いのご計画が真実であるなら、イエス様の十字架は、私たちの救いにとって、どれほど重要なことでしょうか。
私は、18歳のとき、神様のご愛に感動し、洗礼を受けました。その後、教会学校の先生になりました。子供たちに聖書の御言葉を教えていると、あまりに聖書の御言葉とかけ離れた自分を知っていったのです。私は、聖書の御言葉に自分が裁かれていると感じ、耐え切れなくなって、教会に行くことを止めてしまいました。人に良く見られようとする偽善者のような自分、自分が守れない御言葉を子供たちに教えることが苦しく感じたのです。私は、イエス様が、私のような者のために、十字架に架かり、私の身代わりに死んでくださったことを知りました。そして、私は罪がある、そのままの状態で、イエス様が受け入れてくださることを知ったのです。
私たちのそむきの罪は、イエス様が十字架で苦しみを受けなければならない程に、重く深いのです。しかも、私たち自身が、その罪を負うことはできないのです。故に、私たちは自らのありのまま、罪を持つ弱い姿で、イエス様の十字架の救いを受けるしかないのです。イエス様は、十字架上で、私たちと同じ弱いありのままの姿で、私たちを受け入れてくださいます。
聖書に「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。(Ⅰテモテ1:15)とあります。
あなたにとって、イエス様は、どのようなお方でしょうか。あなたのために十字架の死まで従順に忍ばれたイエス様を、今日、救い主と受け入れてはどうでしょうか。
勧士 高橋堅治