起きて、床を取り上げて歩きなさい ヨハネ5:1-9


中心聖句 

5:7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」

オミクロン株によるコロナ感染拡大が著しく、皆様には、不安を抱えながら生活をなさっておられるのではないでしょうか。このようなとき、改めて、皆で共に礼拝することが待ち遠しくなります。コロナ禍によって、私たちの生活は大きく変わりました。感染の危険を減らすため、人との交流の機会を減らし、行動を制限するようになりました。いままで普通に出来たことが出来なくなると、我慢がストレスとなり、私たちの心身への影響が出てきます。本日は、ヨハネの福音書の5章から、38年間、病気を抱えた人の言動から、神様からのチャレンジを一緒に学びたいと思います。

第一 ベテスダの池

ヨハネの福音書には、イエス様がエルサレムに出向かれるときが記されていますが、その多くがユダヤの祭りのときのようです。ヨハネの福音書5章は、ユダヤ人の祭りがあり、イエス様がエルサレムに上京されたときのことを語っています。イエス様は、ベテスダと呼ばれるところにある池を訪ねられました。当時、この池の周りには、多くの病人、目が見えない人、障害を持った人、衰弱した人が集まっていたといいます。その理由のひとつは、この池の水が動いたときに、一番、先に池に入った人は病気が治るといううわさがあり、人々は、そのことを聞いて、池の周りに集まるようになったのです。ベテスダとは、「恵みの家」という意味で、名前からも、病人などの弱さを抱えている人々に、恵みを与えてくれる場所のように思えます。

第二 38年間の病人

このベテスダの池には、38年間もの間、病気にかかっている人もいました。当時のローマ帝国の平均寿命が25歳だったことからいうと、この38年間という長さは、その人の人生の大半を示しています。この人は、人生の大半を病気で苦しんできたのでした。

イエス様が、ベテスダの池に訪れたとき、イエス様はその38年間の長い間、病気で苦しんできた人に目を留められました。イエス様は、彼が病気で長い間苦しんできたことを知っておられたのです。そこで、イエス様は、彼に近づき、「よくなりたいか。」と尋ねられました。彼の答えは、「よくなりたい」ではなく、「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」という答えでした。

おそらく、彼も、ベテスダの池のうわさを聞き、病気を治すために藁にもすがる思いで来たのだと思われます。そして、彼は、実際に、池の水が動いたときに池に入って病気が癒された人を見たのかもしれません。そして、彼は、水が動いたときに、自分が池に入り、病気が治ることを夢見ながら、不自由な体であるにも関わらず、ベテスダの池に通い続けたのでしょう。

しかしながら、彼の希望は、次第に失望に変わっていきます。それは、水が動いたときに、彼はその不自由な病気の体で池に行こうとするのですが、彼よりも丈夫な人がやって来て、先に池に入ってしまうのでした。水が動いたときに、一番、最初に池に入った者が、ベテスダの池の恩恵にあずかると彼は信じていました。そこには、彼だけでなく、多くの病人が、一縷(いちる)の望みをもって集まっていました。

しかし、ベテスダの池は、水が動いたら、他の病人たちよりも、いち早く、池に入らなければならないという病人たちの競走社会だったのです。38年間、病気の人は、いつも、その競走に敗北していました。その敗北を味わうとき、彼はどのように思ったことでしょう。私にはチャンスがないのか?どうしたら、他の人を出し抜くことができるだろうか?誰か私を助けてくれる人はいないのか?彼は、敗北の度に悔しさと自分の不自由さの屈辱感を味わったことと思います。このように、彼は、ベテスダの池の周囲に床を設けて伏し、長い間、自らの病気と、周囲の病人たちとの競争に疲れ切ってしまっていたのです。

イエス様が「よくなりたいか。」と尋ねたとき、彼の答えは「池の中に私を入れてくれる人がいません」という言葉でした。彼は、一番に池に入りさえすれば治ると信じていたのです。そして、彼の周りには、彼を本当に理解してくれる友はいなかったこともわかります。

さて、このような経験は、私たちにもあるのではないでしょうか。私たちは、生きて行く中で様々な競走に巻き込まれます。身近な例として、コロナ感染症のワクチン接種の予約取りはどうでしょう。私たちは、コロナ感染症に罹患しないため、他の人々よりも早くワクチンの接種の予約を取ろうとすることはないでしょうか。自分が先に予約したために、予約が出来なかった人がいることなど考えません。私たちは、自分が一番可愛く、自分が一番大切なのです。そして、もし、自分の希望に至らなかったとき、あの38年間の病人のように、私たちは敗北感と挫折感を味わうのです。

第三 起きて、床を取り上げて歩きなさい

イエス様は、38年間の病気の人の答えを聞き、どのようにお答えになったのでしょう。イエス様は、ただ「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」(8節)と、彼に命じたのです。これは、強い口調で「起きよ」と命じています。引き続き、「床を畳んで取り除いてしまいなさい」、そして「歩き続けなさい」というイエス様の力強いお言葉です。

「起きよ!」は、眠りから覚めよという意味があり、病気から立ち上がり、自らの人生に目覚めることを命じています。長い間、人生の大半を伏して過ごしてきた彼に、いま、起きることを命じています。

それから、床を直ちに取り去ることを命じています。床を取り去ったら、再び、敷いて用いることはするなと伝えています。今まで、床の上で水を動くのを待っていた彼に、その習慣からきっぱり決別することを命じています。長年の生活習慣からの脱却であり、敗北の生活を止めることでもあります。

そして、「歩き続けよ」、これは行動を続けること、生活をすることを意味し、彼に、起きたままで、その歩みを続けていくことを命じています。

私たちも、38年間、病気のこの人のようなところはないでしょうか。それぞれ、神様の前で自分を省み、自ら敗北を続けていることに甘んじていることはないでしょうか。既に、彼のように、諦めていることはないでしょうか。

イエス様は、そのような私たちを理解し、知っておられます。そして、私たちに、彼と同じお言葉を語りかけて下さるのです。「よくなりたいか。」と。私たちは、彼のように、出来ない自分をそのまま答えても良いのです。イエス様は、私たちの必要をご存じなのですから。そして、イエス様が、私たちに、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と語って下さるときが来たら、私たちも、立ち上がり、私たちを敗北させているものを取り去りましょう。そして、イエス様と共に歩み始めるのです。

勧士 高橋堅治