起きて床を取り上げ、歩きなさい ヨハネ5:1~8

ベテスダの池

今回はヨハネの福音書の5章から見ていきましょう。この章では、ベテスダの池で起こったイエス様の奇跡について学びます。この出来事はイエス様の公けの活動でとても重要なものです。なぜなら、16節に、「そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた」とあり、この出来事がきっかけで、当時のユダヤ教のリーダー、パリサイ人や律法学者たちがイエス様を迫害し始め、最終的にはイエス様が十字架にかけられることにつながります。

ベテスダの池の話は、第1節から第18節までありますが、今回は、最初の8節までをじっくりと見ていきましょう。

1.ベテスダの池

5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。

5:2 エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。

5:3 その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。

ヨハネの福音書には、祭りの出来事が6回登場します。最初に登場する過越しの祭りでは、イエス様が神殿を清めた話(2章)やニコデモとの夜の会話(3章)がありました。そして、5章、6章、7章、10章、11章にも祭りでの出来事が記述されています。ただ、5章だけは少し違っていて、ヨハネはどの祭りのことを書いているのか具体的には明かしていません。

エルサレムの祭りは、とてもにぎやかでした。ユダヤ以外に住むユダヤ人たち、「ディアスポラ」と呼ばれる人々も、祭りの時期にはエルサレムに来ていました。そんな祭りのにぎわいの中でも、普段と変わらない場所がありました。それは「羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池」です。

古代の大きな町は、外敵から守るために城壁で囲まれていました。エルサレムも、南北約1km、東西約500mもある城壁で守られていて、その中の北東辺りには神殿がありました。そして神殿の北に羊の門がありました。ベテスダの池はその傍です。

ベテスダの池には5つの回廊がありました。回廊とは、屋根付きの風を通す廊下のようなものです。日差しが強いときは、人々を日差しから守ってくれました。考古学者たちによって、羊の門の近くに2つの池を発見し、そのひとつの池は、一辺約16.5m、5つの回廊があることがわかりました。このベテスダの池が神殿に近いことから、いけにえの動物の内臓を洗う場所だったのではないか言われています。

さて、ベテスダの池の回廊には、「病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になって」いました。既にお気づきかもしれませんが、聖書本文には、4節が抜けています。脚に、「異本に3節後半、4節として、次の一部または全部を加えるものがある。」とあります。追加された部分は、「彼らは水が動くのを待っていた。それは、主の使いが時々この池に降りて来て水を動かすのだが、水が動かされてから最初に入った者が、どのような病気にかかっている者でも癒されたからである。」と書かれています。この部分は、もともとヨハネの福音書にはなく、後から追記されたと考えられています。ですから、ベテスダの池に集まっていた人々は、池の水が動いたとき、最初に入った人が癒されるという迷信なのかもしれません。少なくとも、病気の人々にとって、藁をもすがる話だったに違いありません。しかし、彼らは助けなく池に入ることが出来ない人々ですから、丈夫な人が来て先に池に入られるたびに、彼らの失望感は増し加わったはずです。そのうちに、彼らは、池を眺めて悲観する人になったのでしょう。

さて、日本人は、「鰯の頭も信心から」という言葉通り、信心を大切にしています。だから、年末年始に神社やお寺に参拝し、神棚や仏壇を設けるのだと思います。大きな病気になると、御利益を求めて様々なところに行くのです。国民の半数が罹るがんも、国内の色々な神社に「がん封じ」というものがあるそうです。私は、この世界を創造し、私たち一人一人を愛して下さる創造主なる神様を紹介します。この方こそ、私たちに真の癒しと希望を与えて下さるからです。

今から約2700年前に、ヒゼキヤ王という王様がいました。このヒゼキヤ王は、晩年、がんだと思われる重い病気にかかりました。神様は預言者イザヤをヒゼキヤ王に遣わし、次のことを知らせたのです。

そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう言われる。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。治らない。』」 Ⅱ列王記20:1

これを聞いたヒゼキヤ王は、とても悲しみ、泣きながら神様に祈りました。

ヒゼキヤは顔を壁に向け、主に祈った。「ああ、主よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを。」ヒゼキヤは大声で泣いた。 Ⅱ列王記20:2-3

神様は、ヒゼキヤ王の祈りと涙を見て、答えられました。

「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、【主】はこう言われます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ、わたしはあなたを癒やす。あなたは三日目に【主】の宮に上る。わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加える。わたしはアッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出し、わたしのために、わたしのしもべダビデのためにこの都を守る。』」イザヤが「ひとかたまりの干しいちじくを持って来なさい」と命じたので、人々はそれを持って来て腫物に当てた。すると彼は治った。 Ⅱ列王記20:5-7

神様は、ヒゼキヤ王の祈りに答えて、彼の命を15年延ばしたのです。人の寿命を司ることができるのは、まさに創造主だけではないでしょうか。

ベテスダの池の病の人々は、自分の抱えている病が治るあてもないまま、ただベテスダの池を眺める日々を過ごしていました。これは、聖書でいう失われた人、生きているけど死んでいる人と言ってよいと思います。

イエス様が、この世界に来られた目的は次の聖書箇所からわかります。

人の子(イエス)は、失われた者を捜して救うために来たのです。 ルカ19:10

この息子(人々)は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。 ルカ 15:24

失われた者、死んでいた者を捜して救うために来られたのです。そして、イエス様は、このベテスダの池にも来られました。

2.起きよ、床を取り上げよ、歩け!

5:5 そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。

5:6 イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」

5:7 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」

5:8 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」

さて、このベテスダの池に、38年間も病気で苦しんでいた人がいました。当時の平均寿命が25歳程度(出産、乳幼児を含めた数値)、20歳の平均余命が29歳(すなわち、寿命は49歳)であることから、この人の人生は、殆ど、寝たきりであったと言えます。

そして、この病人も、日々、ベテスダの池を眺めて過ごしていた一人でした。しかし、イエス様が訪れた日、彼の人生は大きく変わったのです。イエス様が彼を見つけ、彼が長い間病気であることを知った上で、「良くなりたいか」と尋ねたのです。このときの彼の変化はどうでしょうか。彼の目は、一日中、ベテスダの池を眺めていた彼は、イエス様に目を移したのです。

イギリスの説教者チャールズ・スポルジョンが、ベテスダの池で横になっている人々について語った言葉があります。スポルジョンは、「大勢の貧しい人々がそこにいたが、誰もイエスに目を向けなかった。彼らを癒すことのできるキリストがそこにおられた。彼らは自分の選んだ道に夢中で、まことの道がないがしろにされていたのである」と述べました。イエス様が来たのに、彼らはベテスダの池の水を見ることに夢中であったというのです。

このスポルジョンの言葉は、私たちの礼拝や実生活での態度を問われています。私たちは、キリストに目をむけるのか、それとも他のことに目を向けるのかが、問われているのです。

さて、以下に6通りの人を図にしてみました。自分の人生は、誰(何)が中心になるかを考えてみましょう。

仕事中心お金中心
自己中心配偶者中心
教会中心イエス中心

私たちの人生を構成するものに、お金、仕事、所有物、遊び、友達、敵、宗教組織、自己、配偶者、家族としてみました。他にもあるかもしれません。その中心にあるものをざっと上げてみました。仕事、お金、自分(自己)、配偶者、教会、そして、イエス様です。

日本の男性の多くは、仕事やお金が中心になるのではないでしょうか。仕事中心の人生なら、仕事のために、家族を犠牲にし、仕事上での友達しかいない、接待仕事のために週末にゴルフに行くなど。お金中心の人生なら、お金のために配偶者や家族がいて、お金のために仕事をするということでしょうか。自己中心なら、例えば、自分の名誉のために、子どもを大学や良い就職先に入れる、自分のために配偶者を支配するなど。微妙なのは、教会中心とイエス様中心の違いです。同じじゃないか?と思う人がいるかもしれませんが、実際には大きく違います。例えば、礼拝出席のため家族を犠牲にする、子供を日曜日の運動会などには出席させない、教会にしか友達がいないなど、行き過ぎていることはないでしょうか。イエス様中心の人生は、イエス様の喜ばれることを行おうとする人生です。それは、神を愛し、人を愛する(赦す)こと、実は最も理想的な人生と思いませんか。

イエス様は、38年間病の彼に、「起きて床を取り上げ、歩きなさい」と言われました。この言葉は、イエス様の権威ある命令であり、実際に彼が取るべき具体的な行動を示しています。

起きて」は、長い間動けなかった彼に、自分の足で立ち上がることを求めています。「起きよ」という言葉は、死んでいた者が生き返ることです。キリストの力によって、新たな決断をすることです。たとえば、ザアカイが、イエス様が訪れたとき、彼は自分の人生に新たな決断を行ったようにです。

しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」 ルカ19:8

床を取り上げ」は、これまで依存してきたものを手放すことです。依存状態にある否定的感情(怒り、恐れ、不安、恨み、嫉妬など)や罪を、手放し赦して頂くのです。これには、悔い改めの祈り、解放の祈りが有用です。私たちはそれらの手放すことで、清められるのです。

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。 Ⅰヨハネ1:9

歩きなさい」は、新しい人生、新しいいのちを歩みだすことです。それは、イエス様中心の人生です。神を愛し、人を愛するという、麗しい人生の始まりです。

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。 ローマ 6:4

私たちが与えられた限りある人生で、生きているのに死んでいるような歩みをしていないでしょうか。何かに捕らわれていて、疲れ果ててはいないでしょうか。そんなとき、イエス様に心を向けて下さい。イエス様は、あなたに「起きて床を取り上げ、歩きなさい」と言われます。イエス・キリストの権威によって、私たちの人生に新たな決断を起こし、私たちが依存してきたものを取り上げ、そして、イエス様中心の人生を歩みだしてはどうでしょうか。

神様の祝福を祈ります。

勧士 高橋堅治