真実な方を知る理解力 ヨハネの福音書5章9~18節

ヨハネの福音書5章

今日は、前回の続き、ベテスダの池で起こった話の後を共に学びましょう。ベテスダの池の人々は、日々、池を眺めて生きていました。それは、彼らの病気の苦しみと希望が無いことを表しています。彼らは生きているけど死んでいた者でした。そこにイエス様がお出でになりました。イエス様は失われた者を捜し救うため、死んだ者を生き返らせるためです。そこに38年間病の人がいました。彼も、池を見ているだけの人でしたが、イエス様の「良くなりたいか」という声に、イエス様に目を移したのです。

イエス様は、彼に、起きて床を取り上げて、歩きなさいと命令されました。キリストによる新たな決断と否定的な感情、罪を手放すこと、そして、新しい人生、いのちに歩み出すように言われました。

この後、38年間、病気だった人に何が起こるかを見てまいりましょう。

1.安息日

すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。

そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。

                             ヨハネの福音書5章9,10節

イエス様によって、38年間、病気だった人はすぐに治って、自分の床(マットなど)を持って歩き始めました。でも、この日は安息日でした。彼を見た人たちの中に、ユダヤ人(ここでは、ユダヤ教の宗教指導者たちでパリサイ人や律法学者をいう)がいました。彼らは、神様の教えを細かくルールにして、人々に守らせていました。だから、彼らはその人に「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と注意しました。ユダヤでは、安息日に労働することが宗教的に禁じられていました。

ここで、安息日についてもう少し詳しく見てみましょう。安息日については、聖書の出エジプト記の20章に書かれている十戒が有名です。

安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。

六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。

七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。

それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。 

                               出エジプト記 20章8~11節

安息日は、モーセの十戒で教会学校でもよく教えられる重要な内容です。多くの人が、日曜日を安息日として、その日は教会で礼拝に出席するべきだと学んできたと思います。私も若い頃に教会学校でそのように子供たちに教えた覚えがあります。そのため、以来、日曜日に仕事をする場合、ためらいを感じました。

ところが、ヨハネの福音書5章18節に「イエスが安息日を破っていた」と書かれています。私は、驚いてしまいました。イエス様自らが安息日を破っていたというのですから。この疑問を解決するには、これまでユダヤ人が守ってきた律法や安息日の考え方を学ぼうと思います。

ユダヤ教では律法(神の教え)をとても大切にしています。この律法は、神様がモーセを通してユダヤ人に授けた教えで、「トーラー」と呼ばれています。このトーラーは、旧約聖書の創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5つの書から成る「モーセ五書」自体です。トーラーには、道徳に関する教え(道徳律法)、罰則を記した法律(司法律法)、礼拝の方法に関する規定(儀式律法)の3つのことが書かれています。

さらに、ミシュナーと呼ばれる「口伝律法」があり、これは先祖の言い伝えによるもので、全部で1521の規則があります。これらは、バビロンの捕囚の後、二度と捕囚にならないように神様の教えを厳格に守ろうとした結果生まれたものです。「ミシュナー」(規則本文)とその解説書の「ゲマラ」(解説書)の両方を合わせて、「タルムード」という書物になりました。

安息日に関するミシュナ―、「モエード・シャバット」では、安息日にしてはならない作業が記されています。このミシュナ―は、現在、インターネットでも公開されています。多くの規則で、「床を取り上げて歩く」行為に関する規則は次のものと思われます。

「この基本的なミシュナは、安息日に禁じられている労働の主なカテゴリーを列挙している。彼らはその役割に従ってグループ分けされている: 種を蒔く者、耕す者、刈り取る者、・・・ある物を領域から領域へと運び出す者。これらはすべて労働の主要なカテゴリーであり、その数は四十六である。」

安息日に公共の場に物を持ち出す者は、右手で持ち出そうが左手で持ち出そうが、膝の上に乗せようが肩に乗せようが、責任を負う。砂漠でケハトの子らが・・・。」

「責任を負う」という表現は、ミシュナーの安息日の規則で重要な考え方です。これは、安息日に禁じられた行為を行った場合、本人がどのような責任を負うべきかを示します。もし知らずに禁じられた行為を行ったなら、罪を償うために犠牲を捧げる必要があります。しかし、故意に行ったなら、死刑に相当するのです(実際は、殆ど死刑にならず、鞭打ち、罰金、破門という刑罰でした。破門の場合も、ユダヤ社会では生きていけないという重い罰です)。

ですから、ユダヤでは、安息日に「床を取り上げて歩く」ことが、重い罪になるのです。一方、安息日に人を癒すことは、ユダヤの「ピクアハ・ネフェシュ」と呼ばれる、人の命を救うことが宗教の規則より重要という考えから、ある程度は許されていたようです。

言い伝えについて、イエス様の考え方は次の御言葉から理解できます。

「なぜ、あなたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか。パンを食べるとき、手を洗っていません。」

そこでイエスは彼らに答えられた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。

神は『父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言われました。

それなのに、あなたがたは言っています。『だれでも父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は神へのささげ物になります、と言う人は、

その物をもって父を敬ってはならない』と。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまいました。

                               マタイの福音書15章2~6節

神様のささげものだと言えば、自分の親への支援は不要とする人がいました。イエス様は、言い伝えによって、神様のお心を無碍にしてしまうことを指摘されました。

安息日については、イエス様は次のように言われました。

そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。 

                                 マルコの福音書2章27節

すなわち、安息日は人が休息するための日です。イエス様が、「安息日を破っていた」のは、単に、ユダヤ人がいう安息日の規則を守らなかっただけなのです。

それでは、日曜日の礼拝はどう定められたのでしょうか。ユダヤ暦からみると、日曜日は安息日ではありません。安息日は、金曜日の夕方から土曜日の夕方までの期間を言います。キリスト教会で日曜日を礼拝の日に定めたのは、ローマ帝国がキリスト教を国教にした時、太陽神を奉る日が日曜日だったので、日曜日となったようです。その後、中世で、日曜日にミサが行なわれ、この日を日曜日安息日に定めたようです。宗教改革の後に、この定めは廃止されました。しかし、清教徒たちが現れ、彼らはその定めを復活させました。

では、私たちは、安息日をどう考えればよいのでしょうか。安息日の目的が休息なら、健康のために週に1日、休息を取ることは重要です。礼拝については、公けの礼拝(日曜礼拝)をお勧めしますが、イエス様はいつも私たちと共におられますから、日曜日に限る必要はありません。「安息日(日曜日)には教会の礼拝に出席すること」が規則ではありません。ですから、日曜日に教会に来れない人を裁いたり、日曜日に礼拝に出席しないからと心を痛める必要はないのです。これから、高齢化に伴い、自由が利かなくなっても、私たちは、いつでもどこでも礼拝できること、毎日をイエス様中心で生きることが大切なのです。

2.もっと悪いことが起こらないように

しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」

彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」

しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。

後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」

その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。

                            ヨハネの福音書5章11~15節

38年間、病気だった人は、ユダヤ人たちに「床を取り上げる」ことが安息日に反していると指摘されました。彼は、「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです」と答えました。彼は、恐くなり、直ちに、治して下さった方(イエス様)に責任転嫁しました。そこで、ユダヤ人たちは、「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか」と聞きました。その時は、その人は自分を治したのが誰なのか知りませんでした。

後になって、イエス様は、神殿で彼を見つけ「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない」と言いました。もっと悪いことが起きるとはなんでしょう?

しかし、彼はその直後に、ユダヤ人のところに出向き、「自分を治してくれたのはイエスだと伝えた」のです。彼は恐れに捕らわれていたのでしょう。直ぐに、イエス様のことを告げ口したのです。彼は、イエス様によって病気を治していただいたとき、大きな喜びを得たはずです。しかし、彼の心は、いまや、恐れと罪悪感でいっぱいだと思います。彼は、安息日の律法によって、喜びを失い、罪悪感が生じたのです。

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。

                              ローマ人への手紙 3章20節

私たちはどうでしょう。たとえば、教会の集会で、たくさんの恵みにより喜びを与えられたとしますが、多くの方がその喜びを失う経験があるのではないでしょうか。その原因のひとつは、私たちが偽りを真理と信じているところにあるかもしれません。この38年間、病気だった人は、安息日に物を運んではいけないという偽りを信じていたことです。実際、聖書には安息日に物を運んではいけないという決まりはありません。彼は、そのことを宗教指導者であるユダヤ人から指摘されました。そのときから、彼の心に、罪意識と罰に対する恐れが生じるのです。そして、恐れのために、イエス様への責任転嫁、告げ口という実際の罪を犯したのです。

このようなとき、私たちに必要なことは、まず、恐れと罪を取り除くことです。私たちには救い主、イエス様がおられますから、この方に頼り、恐れと罪を解放(赦)して頂くのです。そして、偽りを正しい真理に置き換えるのです。

このように、私たちには正しい真理が必要です。正しい真理は、神様を正しく理解することです。たとえば、神様が私たちを愛しておられる、十字架により全ての罪は赦される、イエス様は自由を得させるために解放して下さることなどです。そうすれば、私たちは、偽りによって、罪の奴隷となることはありません。

キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。

                            ガラテヤ人への手紙 5章1節

3.イエスを拒否する者

そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。

イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」

そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。

                            ヨハネの福音書5章16~18節

彼の告げ口は、ユダヤ人たちからの迫害の始まりになりました。彼の行為は、結果的にイエス様を十字架に架けてしまったのです。イエス様は、ご自身がキリストであることを示されますが、ユダヤ人たちの間違った神様の理解(律法、言い伝え)は、彼ら自身がキリストを受け入れず、キリストを殺す者としました。更に、十字架の死と復活による永遠のいのちの恵みも拒否してしまったのです。「もっと悪いことがあなたに起こる」とは、まさにこのことだったのではないでしょうか。

ですから、私たちは、現在、信じているものについて、もう一度、省みる必要があります。

たとえば、迷信や占いを信じていませんか。それは、神様の恵みを信ぜず、恐れを引き起こす偽りです。偶像礼拝をしていませんか。たとえ、聞こえの良い教えであっても、キリストの救い以外にも救われる道があるという偽りなのです。異端・異なった教えに心奪われていませんか。それはキリストの福音、十字架と復活による救いを変えてしまう偽りです。これらの偽りは、私たちを救わないばかりか、罪を生み、私たちから喜びを奪い取るものです。

私たちは、ただ、イエス様を通して、真実な方、父なる神様を知る理解力を得るのです。理解力とは、聖書を読むとき、御言葉を十分に思い巡らすことです。思い巡らすとは、御言葉を覚え、イエス様に実生活でどう用いるかを祈り求め、そして、実生活に用いていくことです。

また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。

                               ヨハネの手紙 第一 5章20節

神様の祝福がありますように God bless you!

勧士 高橋堅治