主を知る者 サムエル記 第一 2章12~25節

傲慢のイメージ

先週の礼拝メッセージでは、私たちに神様が下さるプレゼントは無料であることを知りました。私はそれを聞いて、ふと、考えました。「本当に無料なの?」って。よく、「タダほど高いものはない」という言葉を聞きます。実際に、これまで福音を聞いた人々は、福音を引き換えに、大きな犠牲を払って来ています。実際、キリストの福音のために、自分の人生、命さえもささげた人がいます。パウロや多くの聖人たち、この日本でも多くの殉教した人たちがいました。神様のプレゼントは無料ですが、その本当の価値を知った人々は、その価値を認めて、それに見合う代償を喜んで差し出したのです。福音は、神のひとり子がいのちをささげたこと、私たちに永遠のいのちを与えるというものだからです。

今回は、「主を知る者」について、学びます。

1.主を知る者

サムエル記 第一 2章12~21節

12 さて、エリの息子たちはよこしまな者たちで、【主】を知らなかった。

13 民に関わる祭司の定めについてもそうであった。だれかが、いけにえを献げていると、まだ肉を煮ている間に、祭司の子弟が三又の肉刺しを手にしてやって来て、

14 これを大鍋や、釜、大釜、鍋に突き入れ、肉刺しで取り上げたものをみな、祭司が自分のものとして取っていた。このようなことが、シロで、そこに来るイスラエルのすべての人に対してなされていた。

15 そのうえ、脂肪が焼かれる前に祭司の子弟がやって来て、いけにえを献げる人に「祭司に焼くための肉を渡しなさい。祭司は煮た肉をあなたから受け取らない。生の肉だけだ」と言うので、

16 人が「まず脂肪をすっかり焼いて、好きなだけお取りください」と言うと、祭司の子弟は、「いや、今渡すのだ。でなければ、私は力ずくで取る」と言った。

17 このように、子弟たちの罪は、【主】の前で非常に大きかった。この人たちは【主】へのささげ物を侮ったのである。

18 さてサムエルは、亜麻布のエポデを身にまとった幼いしもべとして、【主】の前に仕えていた。

19 彼の母は彼のために小さな上着を作り、毎年、夫とともに年ごとのいけにえを献げに上って行くとき、それを持って行った。

20 エリは、エルカナとその妻を祝福して、「【主】にゆだねられた子の代わりとして、【主】が、この妻によって、あなたに子孫を与えてくださいますように」と言い、彼らは自分の住まいに帰るのであった。

21 【主】はハンナを顧み、彼女は身ごもって、三人の息子と二人の娘を産んだ。少年サムエルは【主】のみもとで成長した。

旧約聖書、サムエル記 第一の1章から3章に、サムエル記を書いたサムエルの誕生と子ども時代が書かれています。このサムエルは、イスラエルの最初の王サウルと、イスラエル王国を作った王ダビデを王にした人物で、イスラエル最後の士師、指導者でもありました。サムエルは、母ハンナの祈りが答えられて誕生し、小さいときから神様に仕えるために神殿で育ちました。大祭司エリのもとで育てられて、エリから神様に仕えることを学びました。

イスラエルには、神殿の儀式を行う仕事をする人たちがいました。この人たちは「祭司」と呼ばれ、代々に引き継ぐ仕事(世襲)でしたから、祭司の子どもは祭司になりました。大祭司エリには、ホフニとピネハスという息子がいて、父親エリのあとを継いで祭司になりました。12節をみると、この息子たちは、「よこしまな者」とあり、自分のことしか考えない、ルールを破っても平気な人でした。そして、彼らは「主を知らなかった」者でした。

祭司は神様に仕える者ですから、神様に関する知識があったはずです。でも、聖書は、彼らを「主を知らなかった」者と言っています。だから、彼らは、神様のルール(律法)を平気で破りました。たとえば、「民に関わる祭司の定めについて」、神様に捧げるべき、犠牲の動物の肉を横取りしたり、「会見の天幕の入り口で仕えている女たちと寝」るという淫行をしました。

一方、サムエルは、神様を敬う人になりました。エリの息子たちも、サムエルもエリに教育され、育ったわけですから、エリの教育が悪いわけではなかったようです。何が違うのでしょうか。

Ⅰサムエル記3:7を見ますと、

サムエルは、まだ【主】を知らなかった。まだ【主】のことばは彼に示されていなかった。 サムエル記 第一 3:7

とあります。サムエルも、神様を知らなかったときがあったようです。それは、「まだ【主】のことばは彼に示されていなかった」からです。そして、そのサムエルに、神様は直接、語りかけたのです。

【主】が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。 サムエル記 第一 3:10

サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」と語り、神様の声を直接聞くという体験をしたのです。実は、聖書の「知る」は、「体験して知る」という意味があります。サムエルは、神様の声を直接聞くという体験から、神様が本当に存在し、自分に語りかける方であることを知ったのです。ところが、エリの息子たちは、残念なことに、神様を知る体験がなかったのです。だから、彼らの神様は、ただの像みたいなもの、実際には存在せず、なんの力もないもの、彼らには神様を敬ったり、畏れる必要はなかったのです。ある人が、神社からもらったお札を神棚に配置して、手を合わせているのですが、新年を迎えたとき、そのお札を燃えるゴミに入れて出しました。彼は、お札が何の力もないことを知っているようです。

イエス様は、ヨハネの福音書16章で、「主を知らない者」について、このように言っています。

人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。実際、あなたがたを殺す者がみな、自分は神に奉仕していると思う時が来ます。彼らがそういうことを行うのは、父もわたしも知らないからです。 ヨハネの福音書16:2-3

これは、イエス様が最後の晩餐のとき、弟子たちに言った言葉です。イエス様は、将来、弟子たちが遭遇する迫害について警告しました。迫害の理由は、「主を知らない」(父もわたしも知らない)からだというのです。

使徒パウロの例を考えてみます(パウロは、ヘブル語でサウロと呼ぶ)。パウロは、小さい頃から聖書を学び、聖書の知識は誰にも負けないほどでした。彼は、やがて、キリストの弟子たちを迫害しました。

サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた。 使徒の働き8:3

さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。 使徒の働き9:1-2

パウロは、ダマスコのキリストの弟子たちを捕らえるために、ダマスコに行く途上で、突然、まばゆい光に出会いました。そして、彼は「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」(使徒の働き 9:4)という声を聞いたのです。それから、

彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 使徒の働き9:5

パウロは、「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねました。その答えは、「わたしは、・・・イエスである」でした。彼は、それまで、「主を知らなかった」のですが、このとき、彼は、「主はイエスであった」と体験を通して知ったのです。パウロは、この出来事をきっかけに、イエス様を信じ、彼の人生が大きく変わりました。

私たちは、よく、神様に、「守って下さい」、「助けて下さい」、「治してください」などと、様々なお願いのお祈りをするのではないでしょうか。間違ってはいませんが、要求ばかりしているように思えます。もし、友人が相手なら、要求ばかりしません。友人の話も聞くはずです。祈りも同じで、要求ばかりするのではないのです。祈りは、神様のお心を知るために、神様に心を向けることです。ですから、祈りこそ、「主を知る」絶好の機会なのです。サムエルの「主よ、お話しください」、パウロの「主よ、あなたはどなたですか」は、神様の声を聞こうとする姿勢があります。

前回、「解放の祈り」を紹介しました。私たちは、普段の生活で、怒ったり、悲しんだり、恐れたりします。怒りや様々な否定的感情は、悪魔に嘘を言う機会を与え、その嘘に騙されて罪を犯すことがあります。ですから、私たちは、いつも悪魔が働こうとしているのを知り、「神の武具」を身につけて、悪魔に対抗する必要があります。この「神の武具」の「信仰の盾」のひとつが、「解放の祈り」です。「解放の祈り」は、私たちの怒りや悲しみなどの感情をイエス様に明け渡して、私たちの心を解放して頂くための祈りです。この祈りで、明け渡す感情を頭の中で袋か箱に詰め込むイメージをして、それをイエス様に渡したとき、イエス様の表情と声(御言葉など)を受け取ります。このイエス様からのメッセージこそ、私たちに主を知る体験の機会を与えるのです。心が解放され、イエス様からのメッセージを受けたときは、私たちの心に平安と喜びが起こるはずです。

2.仲介者(大祭司)イエス・キリスト

Ⅰサムエル 2章22-25節

22 さて、エリはたいへん年をとっていたが、息子たちがイスラエル全体に行っていることの一部始終を、それに彼らが会見の天幕の入り口で仕えている女たちと寝ていることを聞いていた。

23 それでエリは彼らに言った。「なぜ、おまえたちはそんなことをするのか。私はこの民の皆から、おまえたちのした悪いことについて聞いているのだ。

24 息子たちよ、そういうことをしてはいけない。私は【主】の民が言いふらしているうわさを聞くが、それは良いものではない。

25 人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、【主】に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。」しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが【主】のみこころだったからである。

大祭司エリは、息子たちの罪深い行いを聞いて、息子たちを呼んで叱責しました。

「なぜ、おまえたちはそんなことをするのか。私はこの民の皆から、おまえたちのした悪いことについて聞いているのだ。息子たちよ、そういうことをしてはいけない。私は【主】の民が言いふらしているうわさを聞くが、それは良いものではない。」

しかし、息子たちは、エリの言うことを聞きませんでした。この出来事は、今から3100年も昔、BC1100年ごろの話です。その頃、イスラエルでは、指導者モーセが神様から教えられたルール(律法)によって、罪を裁きました。エリは、人と人の間の仲裁をする神様はいても、神様に対する罪(律法を破ること)を仲裁する者がいないことを嘆きました。

その後(今より2600年前、BC600年頃)、神様は、預言者エレミヤによって、新しい契約を伝えました。

見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。

その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──【主】のことば──。

これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『【主】を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──【主】のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」 エレミヤ31:31-34

この新しい契約は、次のことが約束されていました。
・神様の教えが人々の心にしっかりと書き記される。
・神様のことを知る
・罪を赦し、忘れて下さる

この新しい契約は、2000年前、イエス様によって実現しました。

食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。 ルカの福音書22:20

新しい契約とは、イエス様の十字架の血による新しい契約でした。この契約により、エレミヤが預言したように、私たちはみな「主を知る」ことができるようになり、神様は、イエス様の十字架の死により、私たちの罪を赦し、もう罪のことを思い出さないと約束されました。

そして、エリの嘆きは解消されたのです。

神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。テモテへの手紙 第一2:5

私たちの罪は、神様であり、人間である唯一のお方、イエス様によって仲裁され、すべての罪は帳消しされるのです。新しい契約の中にある私たちは、聖なる祭司となります。

あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。ペテロ 第一の手紙2:5

私たちは、霊の家である教会を建て上げるひとりひとりなのです。わたしたちが祈り、賛美し、神様のために生きる人生そのものは、イエス様を通して、神様に捧げられるのです。イエス様を通してとは、イエス様が私たちと神様の間を取り持つ、大祭司だからです。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。 ヘブル人への手紙 4:15

大祭司であるイエス様は、私たちの罪を負われるだけでなく、罪を犯してしまう私たちの弱さを理解して下さり、私たちを易しく受け入れてくださる方なのです。だから、私たちは、自分の弱さである、怒り、否定的な感情や過ちをそのまま、イエス様にお話しできます。イエス様は、私たちを責めず、代わりに愛をもって、私たちに語りかけて下さるのです。

ですから、私たちは、勇気をもって、イエス様に自分を明け渡すことができるのです。

私の体験した解放の祈りのひとつを証しします。

私は、自分の言動を振り返ったとき、とても思い上がっていたこと(傲慢)に気付きました。何かするとき、いつも、「自分は人よりもうまくできる」と思っていました。私は、家族、仕事関係の人たち、そして、教会の人たちに対して、思い上がっていたことを知りました。この傲慢という感情を袋に入れて、イエス様に渡そうとしました。その思い上がりのイメージはとても高くて、袋ではに入りきらないほどでした。

神様に心を向けておりましたら、翌日、私の心に次のようなことを示されました。

私は、アダムとエバが「善悪の知識の木の実」を食べて、知識などの面で「神のように」なろうとしていたことを知りました。しかし、神様の本質は謙遜であり、もし、人が神のようになりたいなら、それは謙遜になることが必要だと教えて頂いたのです。そして、神様は、私からこの傲慢の心を取り除きたいと思っておられたのを知りました。

もし、私が、解放の祈りではなく、他の人から「おまえは傲慢だ!」と言われたら、私は素直に受け止められない、かえって、怒り出すのだろうと思います。しかし、この祈りを通して、直接、神様から教えて頂いたことは、私の成長にとって大切なことであり、そこに私に対する愛情がみられます。

最後に、主(神様)を知るということは、神様(聖書)の知識を持つことではなく、神様を体験を通して知ることです。特に、祈りは、「主を知る」体験の機会です。私たちを愛する大祭司イエス様は、私たちの罪を赦して下さるお方だけでなく、私たちの弱さを理解し、受け入れて下さるお方です。ですから、私たちは、自らの様々な問題をそのまま、イエス様に持って行き、イエス様のお心を求めることができます。

勧士 高橋堅治