この上もない喜び マタイ 2:1~12

この上もない喜び

クリスマス、おめでとうございます。神様のお恵みが豊かにありますように。

クリスマスは、ラテン語「クリストゥス・マッセ」の語源に由来し、「イエス・キリストを礼拝する」という意味があります。まさに、イエス・キリストがお生まれになったことをお祝いする日です。12月24日はクリスマスイブで、「クリスマスの夜」を示します。正確には、24日の日没以後がクリスマスイブなのです。それは、キリストが生まれたユダヤ暦の一日の数え方が、私たちが普段用いるグレゴリオ暦と異なるからです。すなわち、ユダヤ暦の12月25日は、グレゴリオ暦の24日日没から25日日没までを指します。クリスマス物語は、夜の出来事が多いですから、24日夜に様々な催しが行われます。

それでは、クリスマスについて、少しの間、思い返してみましょう。

  • キリストの誕生と人々のこころ

2:1 イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。

2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」

2:3 これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。

2:4 王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。

2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。

2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」

2:7 そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞いた。

2:8 そして、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出した。

イエス・キリストが生まれたのは、約2000年前のことです。場所は、日本から9000km程離れたイスラエルという国でした。当時、イスラエルは「ユダヤ」と呼ばれ、ローマ帝国に支配されていました。

冬至、ヘロデ王という王様が、ローマ帝国の力を借りて、ユダヤを治めていました。

ヘロデ王は、ユダヤ人ではなかったので、ユダヤ人たちに好かれるように、たくさんの建物や、大きな神殿を建てました。でも、彼は残忍な性格でした。自分の王座に執着し、王座を奪おうとする者を許しませんでした。彼は陰謀を疑うと、自分の妻や子どもたちでさえも殺してしまいました。それで、自分が死んでも誰も悲しまないと考え、自分が死んだら家来たち全員も殺すように命じたのです。そうすれば、自分の死を悲しむようになると考えたほどです。

さて、ある日、遠い東の国から、博士たちがヘロデ王のところにやってきました。この博士たちは、おそらくアラビアの高官で、星の動きから世界や国の未来を占う人々(占星術師)でした。クリスマス物語で、よく「3人の賢者」と呼びますが、実際は12人か、15人だと言われます。

博士たちは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました」とヘロデ王に話しました。

博士たちは、占星術のために、多くの知識を持っていましたので、聖書も知っていたのだと思われます。その昔、ユダヤはアッシリアやバビロンと呼ばれる国々に征服され、ユダヤ人が世界の各地に離散しました。エジプトのパロは、離散した彼らに、ギリシア語の聖書(七十人訳聖書)を作りました。それが広まったようです。聖書には、未来の事が書かれていましたので、博士たちにとっても重要な書物のはずです。そして、聖書には、ユダヤ人の王が生まれて、世界を治めることが書いてあります。その中に、ユダヤに関わる星が現れ、イスラエルに王様が生まれる予言がありました。これは民数記24:17、キリスト誕生の1400年前に書かれたものです。

「私には彼が見える。しかし今のことではない。私は彼を見つめる。しかし近くのことではない。ヤコブから一つの星が進み出る。イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみを、すべてのセツの子らの脳天を打ち砕く。」 民数記24:17

星を見て、ユダヤ人の王が生まれたことを知った博士たちは、ユダヤに行って、その王に会いたいと思いました。そのために、彼らは長い旅に出る決心をしました。

さて、博士たちがエルサレムに着いた時、彼らは生まれたばかりの王を探しに宮殿を訪れました。しかし、宮殿にはいなかったのです。

ユダヤ人の王が生まれたことを聞いたヘロデ王は、動揺しました。ヘロデ王は、ユダヤ人たちが、ローマ帝国の支配から逃れること、その指導者キリストを待ち望んでいたことを知っていたので、このユダヤ人の王こそ、ユダヤ人たちが待ち望んでいる救い主、キリストだと気づきました。一方、ヘロデ王が動揺した理由は、自分の王座を脅かす人物が現れたことです。エルサレムの人々も、ヘロデ王の執着心を知っていましたから、キリストの知らせが、ヘロデ王の暴挙につながることを恐れました。

ヘロデ王は、聖書に詳しい祭司長たち、律法学者たちを呼びました。王は彼らに「キリストはどこで生まれるのか?」と尋ねたのです。彼らは、こう答えました。

「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」

彼らは、聖書のミカ書(5:2)に、キリストが生まれる場所を知っていました(ミカ書は、キリスト誕生の700年前に書かれました)。

ところで、彼らは、なぜ、ヘロデ王にキリストが生まれる場所を伝えたのでしょうか。彼らは、ヘロデ王が残忍であることを知っていたはずです。もし、ヘロデ王が知ったら、必ず殺そうと行動に出るはずです。実際、この後に、ヘロデ王は、ベツレヘム一帯の2歳以下の赤ちゃんを殺害したのですから(マタイ2:16)。

ヘロデ王は、自分の殺害計画に気づかれないように、こっそりと博士たちを呼び、星がいつ現れたかを尋ねました。それは、赤ちゃんの歳を割り出すためでした。

以上から、キリストの誕生を知ったときの、4通りの人々の反応をまとめてみると、

  1. 東方の博士たち
    星を見て、ユダヤ人の王の誕生を信じ、王に会うために遥々と旅をしてきました。
  2. ヘロデ王
    王座に執着し、ひそかに、ユダヤ人の王であるキリストを殺す計画を立てました。
  3. エルサレムの人々
    キリストの誕生が自らの生活に悪影響を及ぼすことを恐れました。
  4. 祭司長たち、律法学者たち
    キリストのことを知っていた彼らは、本物のキリストには興味がなく、彼らにとって、キリストの生き死にはどうでもよかった。

ところで、イエス・キリストは、自分の信じる人たちを次のように述べています。

わたし(キリスト)の羊たち(信じる者)はわたし(キリスト)の声を聞き分けます。わたし(キリスト)もその羊たち(信じる者)を知っており、彼ら(信じる者)はわたし(キリスト)について来ます。 ヨハネ10:27

そして、イエス・キリストは、信じる者に次の約束をしました。

わたし(キリスト)は彼ら(信じる者)に永遠のいのちを与えます。彼ら(信じる者)は永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼ら(信じる者)をわたし(キリスト)の手から奪い去りはしません。 ヨハネ10:28

すなわち、キリストを信じる人とは、キリストの声を聞き分けて、キリストについていく人のことです。そして、キリストはご自分を信じる人たちに、永遠のいのちを与えること、そして、だれ(悪魔)からも守り抜くことを約束しています。

前述の4通りの人々のうち、誰がイエス・キリストがいう、信じる者だったでしょうか。もちろん、博士たちです。博士たちは、神様に特別に選ばれたユダヤ人ではなく、聖書を詳しく知っている訳でもありません。彼らは、ただ、星が昇ることからユダヤ人の王の誕生を信じ、それに従ったのでした。彼らは律法など聖書の教えを厳密に守らなかったと思いますが、様々なことを通して示される神様のメッセージを見分ける(聞き分ける)ことができた人々でした。そして、そのメッセージから、行動に移すことが出来る人々でもありました。

私たちは、律法学者のようになる必要はありません。律法学者たちは、聖書の知識があっても、神様のメッセージを見分け、行動する力はありませんでした。私たちは、日々の生活の中、神様からのメッセージを見分けること、すなわち、「このことを通して、神様が何を私に教えようとしておられるのだろうか」と、聞き耳を立てること、目で見ること、起こったことを思い巡らすのです。そして、神様の御心と判断したとき、信じて行うことです。ただ、神様の御心と、正しい判断するには、祈りながら、聖書の御言葉を深く思い巡らすことも必要です。

2.この上もない喜び

2:9 博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。

2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

2:11 それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

2:12 彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。

さて、博士たちは、「ユダヤ人の王」がベツレヘムという町にいることを知りました。そして、彼らはベツレヘムにその赤ちゃんを探しに行きました。道中、以前に見た星を再び見つけました。彼らは、その星に導かれるように進み、なんと、星は赤ちゃんがいる場所の上でとどまったのです。この星は何だったのか、残念ながら、現代科学において、この星のことが説明できません。私は、この星は神の栄光の光ではないかと思っています。聖書では、光をもって、神様の臨在を表すことを記されている記事があるからです。しかし、この星は神様の奇跡によるものですから、本当は何だったのかは分からないというのが本当です。

博士たちは、その星がとどまるのを見て、この上もなく喜びました。この喜びを、このマタイの福音書の著者マタイは、次のように、その喜びを表しました。

直訳すると、「さて、その星を見て、この上もない喜びで、この上もなく喜んだ。」と言えます。ギリシア語の喜びは、KARAと発音し、このKARAは韓国の女性アイドルグループの名前の由来でもあります。

彼らは、どうしてこれほど、喜んだのでしょうか。

カーネギーメロン大学の苫米地英人(とまべちひでと)先生によれば、喜びは、「何らかの欲求が満たされたときに生じる感情」だそうです。美味しいものを食べたとき、会いたかった人に会えたとき、欲しかったものが手に入ったときに起こる感情です。また、社会的な行動を伴い、欲求の満たされかたが大きいほど、意外性があるほど、喜びが大きくなるそうです。

博士たちは、ユダヤ人の王に出会いたいという欲求を持ち、遥々遠いところから長く旅をしたという社会的行動が伴い、ユダヤ人の王がキリストであったという欲求の達成度が高かったこと、星が彼らを導いたという意外性から、この上もない喜びにつながったのでしょう。

私たちは、「喜」という言葉を多く使うことを好みます。特に、年末年始には「慶び」や「喜び」という文字を多く見つけます。でも、欲求が満たされたときの感情である喜びは、一瞬で過ぎ去るものではないでしょうか。

それでも、新約聖書には、「喜ぶ」という語句が74回も使われています。特に、使徒パウロは、彼の書簡の中で、私たちが喜ぶことを勧めています。ひとつの言葉を紹介すると、

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。 ピリピ4:4

これは、「いつでも」、どんなときでも、嬉しい時はもちろん、悲しい時も、苦しい時も、「喜びなさい」、喜び続けなさいとパウロは言うのです。私たちは、「そんなことは無理、悲しい時、苦しい時は喜べない」と思います。確かにそうです。しかし、パウロは、「主にあって」と言うのです。「主にあって」は、「イエス・キリストの中に身を置いて」という意味があります。自分では喜べないけど、「イエス・キリストの中に身を置いて」なら、喜ぶことができるのでしょうか。

2000年前にお生まれになったイエス様は、全世界の人々を救うためにお生まれになりました。彼は、3年半の間、神の国のこと、すなわち福音を人々に伝え、人々に寄り添い、病を癒したり、人々を愛されました。そして、聖書の預言の通りに、十字架に架かり死なれました。それは、ご自身が代わって人々の罪を赦すためです。イエス様は三日目に復活され、信じる者に、神の霊である聖霊を与え、更に滅びることがない永遠のいのちを与えました。聖霊は、私たちの心に住まれ、私たちを慰め励まし、喜びを与えてくださるのです。

※内村鑑三先生の娘路得子(ルツ子)さんの死

無教会主義を唱えた内村鑑三先生には、妻静子さんとの間に生まれた長女、ルツ子さんがおりました。彼女は、1911年に実践女学校を卒業し、聖書之研究社に事務員として努めます。しかし、就職して僅か2ヶ月で原因不明の発熱で苦しみ、翌年の正月にこの世を去りました。彼女は、イエス・キリストの十字架により、自分の一切の罪が許されていることを確信しており、病気が重くなっても動揺しませんでした。彼女が亡くなる三時間前に、彼女は父鑑三から洗礼を受け、そして、聖餐を頂きました。彼女は、亡くなるまで、喜びの笑みをたたえて、「感謝、感謝」と言い続けたそうです。(Wikipeida,DEREK第40号「内村鑑三と3人の娘たち」より参照)

2000年前、博士たちは、キリスト(ユダヤ人の王)の誕生を信じ、キリストに会うために旅をしました。キリストがおられるところで星がとどまるのを見て、彼らはこの上もなく喜んだのです。この喜びはキリストによるものでした。

内村鑑三先生の娘路得子さんは、原因不明の病にかかりました。彼女は、キリストの十字架により、一切罪が許されていると確信し、死を前にしても、喜びの微笑みをたたえました。彼女の喜びの秘訣は、キリストでした。

イエス・キリストの中に身を置いた私たちは、喜び続けることができるのです。悲しい時、苦しい時は必ずあります。そのとき、私たちはイエス・キリストを見上げ、彼にその思いを委ねていく、そのとき、イエス・キリストは平安と喜びを与えて下さるはずです。

主を褒めたたえましょう。

勧士 高橋堅治