インマヌエル、神がともにおられる マタイ 1:23

待降節

マタイ 1:23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。

イエス様の待降節を記念し、「インマヌエル」について学びます。神様が私たちとともにおられるということを、この世界の歴史と、私たち自身について、一緒に考えてみましょう。

 

1.神がともにおられる(世界の歴史から)

日本でキリスト教というと、多くの人からは「外国の神様だね」と言います。それは、日本の神様と言えば、大晦日やお正月に賑わうお寺や神社での二年参りや初詣を思い浮かべるからだと思います。日本人なんだから日本の神様を拝むのが当然だと言う人もいるでしょう。

聖書にこのような話があります。キリスト教の伝道者である使徒パウロが、昔、宣教のために外国ギリシャのアテネを訪れたとき、そこにたくさんの異なる神々の像があるのを見ました。

使徒17:16 さて、パウロはアテネで二人を待っていたが、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを覚えた。

パウロは、神々の像を偶像と呼びました。偶像とは、本当の神様ではないけれど、人々に崇拝されている人やものを言います。

使徒17:24 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。

17:25 また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。

神様という言葉には、いろいろな意味がありますが、パウロは「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神」を表しました。すなわち、世界の創造者、つまり創造主です。

言葉によって神様という呼び方は異なります。英語では、ゴッド,ギリシャ語ではゼウス、アラビア語ではアッラーと呼びます。私たちは、アッラーと言えば、イスラム教の神様を思い浮かべるでしょう。しかし、アラビア語の聖書では神様をアッラーと表現しています。それぞれの言葉には意味があり、ゴットは「捧げるお方」、ゼウスは、ギリシャ神話の最高神の名前で、人々にとって崇拝するお方を指す名なのです。聖書の神様は、「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった」お方であり、私たちひとりひとりを造られた方を指すのです。

聖書には、この世界は神様が造られたと書かれています。そして、人間は、神様のかたちに造られ、この世界を管理する使命が与えられました。ところが、人間は、大きないくつかの失敗をしました。神様は、その都度、人間の失敗をなんとか直そうと計画を立てられたのです。創世記には、人間の大きな失敗と、それに対する神様のご計画が記されています。創世記に書かれた堕落、洪水、バベルの塔は、人間の失敗の歴史です。

最初の人間であるアダムとエバは、悪魔である蛇にだまされて、神様が食べてはならないと言った善悪の木の実を食べてしまいました。

創世記3:11 主は言われた。「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」

3:12 人は言った。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

3:13 神である【主】は女に言われた。「あなたは何ということをしたのか。」女は言った。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」

3:14 神である【主】は蛇に言われた。「おまえは、このようなことをしたので、どんな家畜よりも、どんな野の生き物よりものろわれる。おまえは腹這いで動き回り、一生、ちりを食べることになる。

この失敗に対して、すぐに神様は解決する方法を考えていました。

創世記3:15 わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」

女の子孫はキリストであり、キリストは悪魔と戦い勝利します。しかし、この戦いでは、キリストも傷つくのです。キリストの傷は十字架であり、復活は勝利なのです。

それから、人間の次の失敗による神様の裁きが、ノアの時代の大洪水でした。

創世記6:5 【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。

6:6 それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

6:7 そして【主】は言われた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを悔やむ。」

神様は、人間が悪い事ばかりしているのをみて、とても悲しくなりました。そこで、神様は大洪水を引き起こし、人間を消し去ることを決めたのです。

でも、ノアとその家族は神様に助けられました。洪水が終わった後、ノアは次のようなメッセージを語りました。

創世記9:25 彼は言った。「カナンはのろわれよ。兄たちの、しもべのしもべとなるように。」

9:26 また言った。「ほむべきかな、セムの神、【主】。カナンは彼らのしもべとなるように。

9:27 神がヤフェテを広げ、彼がセムの天幕に住むようになれ。カナンは彼らのしもべとなるように。」

このメッセージには、神様の特別な計画が隠されています。27節、「彼がセムの天幕に住むようになれ」という部分は、キリストがセム族の子孫として生まれることを予告していると言われています。

ノアの子どもたちは、現代の世界の人々の先祖だとされています。ノアからたくさんの異なる民族が生まれたのです。創世記10章に、ノアから生まれた70の民族が記されています。私たち、東洋人もその中のひとつ、10:17に書かれたカナンの子孫であるシニ人(別名でシナ人)の子孫ではないかという説があります。

次の失敗は、バベルの塔を建てようとしたことです。そのときまで、人々は共通の言葉で会話していました。

創世記11:1 さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった。

その時代の人々は、自分たちが神のようになれると思い込んでいました。

創世記11:4 彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」

11:5 そのとき【主】は、人間が建てた町と塔を見るために降りて来られた。

11:6 【主】は言われた。「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。

11:7 さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」

そこで、神様は人々の互いの言葉を理解できないようにしました。神様のご計画には、ひとつの民族を選んで、神様と人間の間のとりなし役を立てました。それが、アブラハムです。

創世記12:1 【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。

12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。

12:3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

だから、神様は、ユダヤの国を特別な国にしました。それは、神様と人間をつなぐ祭司の王国です。

出エジプト19:6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」

それから、イザヤ、他の預言者を通して、神様はユダヤを通じて、世界中の人々を救う計画を示したのです。

イザヤ49:6 主は言われる。「あなたがわたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせるという、小さなことのためだけではない。わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」

そして、神様の計画は、イエス・キリストがユダヤに生まれることでした。

ヨハネ1:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。

イエス・キリストが生まれた目的は、本来、神様のものであった人間を探して救う(取り戻す)ためでした。

ルカ19:10 人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」

最初の人アダムが失敗(罪)を犯したときから、神様は人間を救う計画を始めました。約2000年前、イエス・キリストが生まれて、十字架で死に、そして復活されたことで、神様は私たち人間に救いの道を示しました。これまで、この2000年の間、全世界に福音が宣べ伝えられ、多くの人々が救われたのです。この長い歴史を経た救いの計画には、あなたと私の救いも含まれているのです。神様は私たち人類と共におられたのです。

 

2.神がともにおられる(私たちのうちに)

でも、神様のこの計画は、私たちにとって、かけ離れたものと感じるかもしれませんイエス様の誕生は、2000年前にユダヤの小さな村で起こった小さな出来事でした。イエス様は、貧しい大工の家に生まれ、大人になるまで家族のために働きました。30歳になった後、3年半、人々に神様のことを教えました。イエス様の弟子となった人々も、イエス様は、単にイスラエルを解放するお方だと考え、神様の大きなご計画があるとは気づかなかったようです。ですから、イエス様が、捕まって十字架で死んだとき、弟子たちは、自分の身に降りかかる恐怖で隠れて生活したほどです。しかし、弟子たちは、復活したイエス様に出会って、この方が、この世界に来られた本当のキリストであることを知りました。彼らは、約束の通り、聖霊を受け、力を与えられて、福音を宣べ伝えはじめました。使徒ペテロが言うように、キリストを信じる者は誰でも、賜物として、神様の御霊である聖霊を受けることができます。

使徒2:38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

2:39 この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」

聖霊は、イエス様が言われたように、真理の御霊であり、私たちと共におられ、私たちのうちにおられる神なのです。

ヨハネ14:17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。

そして、キリストを信じる者は、圧倒的な勝利者になるのです。

ローマ8:37 しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。

それでは、私たち自身はどうでしょう。

私たちは神様から聖霊を受けているのに、あまりに弱く、小さいと感じていませんか。私は、ある聖書の学びの中で、ほとんどのクリスチャンが、神様の声を聞くことがなく、神様が共におられることが分からないということを知りました。その原因は、私たちの心にある否定的感情と罪だと言うのです。

エペソ4:26 怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。

4:27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。

4:28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。

4:29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。

4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

4:31 無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。

怒りは、否定的な感情の代表例です。怒りは、私たちの心に生じる悲しみ、失望、憎しみなどによって生じる二次感情だからです。

私は、体調を崩して、休職したことがありますが、その原因のひとつが怒りでした。当時、私は、仕事上の問題で私を利用した人々に憎しみを覚えました。そして、誰も、この気持ちを理解してくれないことに悲しみを覚えました。二次感情である怒りが沸々と湧いてきたのです。認知行動療法やアンガーマネジメントなどで、この怒りを抑えたつもりになりました。しかし、その後も、時々、この怒りの気持ちが心に戻ってきて、私の心を痛め付けました。

この怒りを捨て去ることは難しいと思っていましたが、ある方の導きで、怒りの解放の祈りをしたのです。それは、祈りで怒りの対象の方を赦し、祝福すること、そして、怒りの感情をイエス様のところに持っていき、イエス様に引き渡すこと、そして、イエス様のお顔を見て、イエス様の声を聞くという方法です。私が頂いたイエス様の声は、

  • わたしもあなたを裁かない
  • あなたがこの怒りの感情を持ち続けることに何の意味があるのか?
  • かえって、その感情はあなたを傷つけるものだ
  • 悪魔は、機会を狙って、この感情を用いて、あなたを攻撃し、ダメにする

という声でした。

更に、神様は、とても大切な事を教えて下さいました。

聖書で、イエス様は、最も重要な戒めがあることを言われています。

マタイ22:37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』

22:39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。

これらは、神様を愛すること、そして、自分を愛すること、隣人を愛することです。しかし、私は自分を愛することが分かりませんでした。

自分を愛することは、自分に同情し、自分が傷ついたときに可哀そうに慰めることだと思っていたようです。だから、そのように、隣人にも接するべきだとも思っていました。しかし、これらの感情は、否定的な感情であり、実は悪魔に機会を与えるものだと知りました。実に、悪魔は、私が哀れで弱くって貧しい存在であると私の耳元で囁き、それによって、私の心は、怯え、悲しみ、そして怒りに支配されていたことに気付いたのです。では、自分を愛することとは何でしょうか。

神様が教えて下さったのは、初めの戒め、「あなたの神、主を愛しなさい」でした。自分ではなく、私を愛しておられる神様に目をとめ、神様を愛することだと言うのです。

神様は、私たちを大切にされ、十字架の死に現されるほどの深い愛で愛して下さっています。

イザヤ43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

Ⅰヨハネ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

神様のご愛に目をとめるのです。

ペテロは、イエス様が捕らえられたとき、三度、イエス様を知らないと言いました。このときのペテロの気持ちはどうだったか想像してみてください。恐らく、彼の心は否定的な感情でいっぱいだったのだと思います。自分はなんと弱いのか、主はもはや私を赦さないだろう、ここには立ち直ることすらできないペテロがいます。

しかし、イエス様は、ペテロのことをよく知っており、深く愛しておられました。イエス様は、その三度、知らないという言葉に対して、三度、イエス様を愛するという言葉を用いることで、ペテロの愛を取り戻したのです。彼の否定的な感情は無くなり、イエス様への愛で満たされたのです。

さて、神様は、聖霊を私たちに与え、神様がいつも共におられるようにしてくださいました。しかし、私たちは神様がともにおられることが分からなくなることがあります。私たちの心が否定的な感情で支配されているからです。そんなときは、私たちは、あなたはダメだ、弱いと耳元で囁く悪魔の声を退け、神様の声、ひとり子を与えるほどに愛して下さる神様を愛する応答をするのです。そうすれば、あなたは心に平安と喜びを頂き、神様が共におられることを実感することでしょう。

主が祝福してくださいますように。    勧士 高橋堅治