新しく生まれる ヨハネ3:1~10


今回も、前回に引き続き、イエス様とニコデモのお話を学びます。前回は、ニコデモがイエス様を訪れるところまでを学びました。今日は、「新しく生まれる」というテーマについて一緒に考えてみましょう。
1.イエスのもとに行く(3章1~2節)
1 さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。
2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」


ニコデモという人について、前回のお話を振り返りましょう。ニコデモは、当時、次のような人物でした。
パリサイ人の一人
昔のユダヤ教の宗派一つ、パリサイ人のひとりでした。パリサイ人たちは、神様の教え(律法)と彼らの先祖の教えを大事に守った人々です。イエス様に対しては悪い感情を持っていました。
ユダヤ議会の議員
ユダヤの議会、サンヘドリンの議員でした。
・イスラエルの教師
ユダヤ教の指導者としても尊敬されていました。
・大富豪
エルサレムで最も裕福な人の一人だったと言われています。当時のエルサレム市の財政の十年分を持っていたと言われています。
以上のように、ニコデモは当時のユダヤ社会でとても偉大な人物でした。
ニコデモは、過越の祭りでイエス様が行った奇跡を見て、イエス様を信じる気持ちが芽生えたようです。彼はイエス様に批判的なパリサイ人に属し、ユダヤ教の指導者という立場でしたが、イエス様にお会いしたいという気持ちが抑えきれなかったのでしょう、彼は人目を避けて、夜、こっそりとイエス様を訪ねました。イエス様を訪ねたニコデモは、イエス様に会うと、「神のもとから来られた教師」と証言しました。
さて、彼のこのイエス様との出会いは、偶然の出来事だったのでしょうか。私は、偶然でなく、まさに神様の導きだと思うのです。
私たちの人生を振り返ったとき、ある時、イエス様と出会った方がおられるのではないでしょうか。そのような方は、イエス様に初めて出会った時のことを思い出してみてください。幼い頃に教会学校に行った人、友達に紹介された人もいるでしょう。今でしたら、聖書に関する読み物を読む、インターネットを介して知る場合もあります。どのような形であれ、これを読んで下さっている方は、どこかで聖書、そして聖書の中に記されているお方、イエス様にお会いしたと思います。
私は、幼いころ自然科学に興味があり、特に星を見るのが好きでした。小学6年生の時に、友達に誘われて地元の公民館で行われたムーディの科学映画を見ました。その映画では、この宇宙は神様が創造されたと言っていました。私は子どもながら、とても衝撃的でした。これほど、大きな宇宙を造られた方がいるということです。友達が行くという教会学校に、私も行きたくなりましたが、親が大反対です。ですから、中学になって、こっそりと聖書を読み、当時のキリスト教のラジオ番組を聴いて、神様への興味を増したのです。17歳のとき、教会に行きたいという思いが強くなり、ニコデモのようにこっそりと礼拝に出席しました。
私は、これらの出来事が今更ながら偶然ではなかったと思います。偶然では無ければ、これは意図的な事、まさに神の導きと言って良いと思います。


2.新しく生まれる(3章3~6節)
3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
4 ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

イエス様に出会ったニコデモは、「あなたが神のもとから来られた教師です」と証言したところ、イエス様はこのように言いました。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。この後、イエス様とニコデモの信仰問答が続きます。信仰問答は、師と弟子が互いに問答するものですが、イエス様はニコデモの証言を受け入れ、彼をこのときから弟子として扱ったのだと思います。
さて、ここで言われた「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」の「新しく」という言葉、ギリシア語の「ἄνωθεν」は、「新しく」という意味の他に、「上より」という意味があります。ニコデモは「新しく生まれる」ことを、大人が、もう一度、赤ちゃんとして母親から生まれなければならないなんてあり得ないとと考えました。そこで、イエス様は「新しく」という言葉を「水と御霊によって」という言葉に言い換えて、「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」と答えました。この言葉に、「水と御霊によって生まれる」ことが、天国に入る絶対条件であると言っています。私は、以前に、キリスト教、仏教という信心は、「すべて行きつくところは同じなんだ」というある方の言葉を耳にしました。これは信心こそ重要という考え方だと思います。確かに、著名なお坊さんのお話などはとても崇高であり、これまで多くの修行と鍛錬をされてこられたからだと思います。しかし、天国の主でもあるイエス様が言われた言葉は、天国に入る絶対条件が、「水と御霊によって生まれる」ことだというのです。例えば、私たちが海外旅行で外国に行ったとき、最初に入国審査を受ける必要があります。この審査は、パスポートの確認や、なぜその国を訪れたのかを尋ねられ、審査されます。ところで、米国の場合は、少し注意が必要です。米国政府が定めているESTA(エスタ)という手続きを事前に済ませておかないと、入国出来ないのです。すなわち、米国の法律に基づいた入国審査が行われるからです。同様に、天国に行くときも注意が必要です。天国の入国審査があるからです。この入国審査には、「水と御霊によって生まれる」ことが必要なのです。
では、「水と御霊によって生まれる」とはどういうことでしょうか。水については、いくつかの解釈があります。
・ 母親のお腹の中の羊水という説、
   既に人として生まれることなので問題ありませんね。
・聖書の御言葉、
    これは御霊によって生まれる上で必要なことです(後述)。
・悔い改め、
    これも御霊によって生まれる上で必要なことです(後述)。
・洗礼
洗礼は、イエス様が定められた一つの儀式で、イエス様を救い主と信じた方は、受けられることをお勧めします。

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、     マタイ 28:19

信じてバプテスマを受ける者は救われます。 マルコ16:16

ところが、洗礼は絶対条件にはならないのです。イエス様と共に十字架に架けられた犯罪人の一人は、十字架上で悔い改め、イエス様を信じました。彼は洗礼を受けることができませんでした。でも、イエス様からパラダイス(天国)に行くことを約束されました。


そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」 ルカ 23:42,43


以上のように、水は諸説がありますが、洗礼については絶対条件ではないことが分かります。これらのことから重要なことは、御霊(聖霊)から生まれることなのです。御霊から生まれるとき、聖書の御言葉と悔い改め(いままでの神に背く生き方から、神に向く生き方に変わること)も満たしてしまうからです。
続いて、イエス様は「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」と言われました。聖書のいう「肉」とは、特別な意味があります。それは、アダムとエバから堕落した人間が持つ、神に反抗する性質のことです。また、「肉」には、血族、血筋、家系を意味します。ユダヤ人は、ユダヤ人の血筋だけが、天国に入れると信じていました。実に、当時、ユダヤ人たちは、天国の門では、ユダヤ人が迷わないようにアブラハムが見張っていると考えていたほどです。しかし、イエス様はユダヤ人という血筋で天国に入れるのではないと言いました。
「肉」は神に反抗する性質ですが、対する「霊」は全く異なった性質を持ちます。それは、


・神との人格的な交わりを持つことができる、
・神の前に罪を悲しむ、
・神の愛や罪の赦しを受けて喜ぶ、
・人を人として生かす神からの生命力を受け止める


という性質です。「霊」をひとことで言うなら、神によって創造された神のかたちとしての人です。

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。     創世記1:27


当初、神のかたちに造られた人は堕落したことにより、神から離れ、自分勝手な道を歩みました。これが「肉」です。しかし、御霊によって、本来のあるべき姿、神のかたちである人に生まれるのです。
それでは、聖霊によって生まれるとはどんなことかを学びましょう。


3.新しく生まれた者(3章7~10)
7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」
9 ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」
10 イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。


イエス様はニコデモに、御霊(聖霊)を風にたとえて、聖霊によって生まれた者はどうなるのかを教えられました。「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。」私たちは風が意のままに吹くことを知っています。私たちは、家の中から外をみたとき、草木をみて、風が無いとか、風が強いと判断します。風は目に見えないからです。
イエス様は御霊(聖霊)によって生まれた者も同じだというのです。私たちは御霊を直接、見ることは出来ません。しかし、私たちは風で揺れる草木を見ることで、風が吹いていることがわかるように、御霊の働きにより霊の人に変わった人を見ることで、御霊が働かれたのを知るのです。
ですから、私たち自身の意志や努力で、霊の人に変わることは出来ません。風(御霊)は思いのままに吹く(働く)からです。多くの宗教は、修行や鍛錬によって、自分自身を変えようと試みます。しかし、キリスト教には特別な修行や鍛錬はありません。御霊によって生まれるからです。人が生まれるとき、親、生まれる家、時代が選べないように、御霊によって生まれるのも、私たちに選択肢はありません。私たちの意志に関係なく、風が思いのまま吹くように、御霊も思いのままに働かれるのです。そして、御霊が人に働かれたとき、霊の人の性質を持つという変化が生じるのです。それでは、私たちは神の国に入ることは出来ないのではないかと思うかもしれません。
では、改めて、ニコデモの生涯に目を止めてみましょう。ニコデモは、イエス様の奇跡を見て、イエス様がキリストであるという信仰を持ち、人目のつかない夜にイエス様のもとに訪れました。ニコデモは、イエス様のお言葉を聞き、水と御霊によって生まれることが必要だと知りました。ニコデモは、イエス様が十字架に架かったとき、自らの財産を用いてイエス様を葬りました。ここに、それまで人目を恐れたニコデモが、イエス様の弟子であることを表明するという変化がみられます。ニコデモは、その後も、キリスト者として生涯を過ごしました。彼はキリスト者になったために、パリサイ派から追放、イスラエルの議員、教師という立場を失くしました。また、大富豪であった彼は、財産も失い、エルサレムの郊外にひっそりと住んだと言われています。この人目を恐れたニコデモが、持っていたものを失ったとしても、キリストの弟子として生きた彼の後半の生涯は、御霊によって変えられた者であったのではないでしょうか。

私たちはどうでしょうか。私たちは、既にイエス様というお方と何らかの形で出会いました。そして、このお方に惹かれているのではないでしょうか。このことが、実に、私たちに対する御霊の働きではないかと思います。御霊の働きがあれば、私たちは、諸教会が告げる御霊の声を聞く耳が必要です。


耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。 黙示録3:22

御霊は何と私たちに語ろうとしているのでしょう。

見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
                           黙示録3:20


御霊は、私たちの心の外で戸をたたき、いま、私たちに働きかけています。もし、私たちに御霊の声を聞く耳があれば、私たちは御霊の声を聞いて、心の戸を開くことが出来ます。私たちが御霊に心を明け渡すときが来ました。「主よ、わたしの心にお入りください」と祈ってみましょう。私たちは、御霊(聖霊)を自分の心に迎い入れ、ともに食事をする(ともに人生を歩む)ようになるのです。このときが、私たちの御霊による誕生なのです。

勧士 高橋堅治