永遠のいのちを持つ ヨハネの福音書3:9~16


今日は、ヨハネ3章から、イエス様とニコデモとの対話を通して、永遠のいのちについて学んでみましょう。

1.天から下って来た者

9 ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」

10 イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。

11 まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。

12 わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。

13 だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。

前回までのお話ですが、ニコデモはイエス様の奇跡を見て、夜、こっそりとイエス様のところに行きました。ニコデモは、イエス様に、「あなたは神様のところから来られた教師です」と告白、しかし、イエス様は「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と返しました。ここから、二人の信仰問答が始まりました。問答を進める中、ニコデモは、イエス様がいう事が理解できていないようです。イエス様は、ニコデモに「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。」と言いました。これは、イエス様の失望に聞こえますが、「イスラエルの教師のあなたですら分からない程、難しい神の国のことは誰が理解できるだろうか」と問うているのです。ですから、イエス様は、「わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしの証しを受け入れません」と言い、更に、「わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか」と話しました。私たち人間は、神の国のことは分かりません。だって、実際に神の国をその目で見た人はいないのですから。どうやって知るのか、「しかし、天から下って来た者、人の子(イエス様のこと)は別です」。神の国を知りたいと思うなら、イエス・キリストを通してしか方法はないのです。ですから、私たちは、イエス・キリストの言葉が記されている聖書を通して、神の国のことを学ぶのです。

聖書は、現在でも世界で最も売れる本、ベストセラーです。誰もが、一生に一度は読んでみたい本だと言います。それは、聖書が、多くの人々や現代社会に影響を及ぼしたからです。特に、欧米の芸術、文化は聖書の影響を受けてきました。クラッシック音楽や絵画を味わうには、背景となる聖書を知るのは有益です。しかし、実際、聖書を読むとなると、とても難しいのです。多くの方々は、初めに、マタイの福音書から読みます。でも、いきなり、たくさんの人物名が並んでいて、読むのをやめてしまう人が多いと聞きます。特に、聖書の最初から最後まで、66巻全部を読むのは並大抵ではありません。クリスチャンの方でも、全部を読んだことがないという人は多いのです。なぜでしょう?それは、聖書が古文だからです。私たちは学校で古文を学びますが、日本の古文ですら、苦手な方が多いのではないでしょうか。実は、私も、そのひとりです。古文は、昔の文法、昔の語句、歴史的時代背景を学ぶ必要があります。聖書も同じで、原語は、主にヘブル語と古代ギリシア語で書かれ、イスラエルをはじめとする古代ヨーロッパと中近東の地理、歴史が背景にあります。でも、安心してください。教会の礼拝では、聖書が易しく語られ、また、より良い手引き書などもあります。聖書に親しむと、色々な発見があり、あなたの人生に良い影響を与えてくれるかもしれません。

2.永遠のいのちを持つ

14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。

15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

イエス様は「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」と言いました。「モーセが荒野で蛇を上げ」た話は、民数記21:4-9の話です。

民数記21:4~9

4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回しようとして、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中で我慢ができなくなり、

5 神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」

6 そこで【主】は民の中に燃える蛇を送られた。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ。

7 民はモーセのところに来て言った。「私たちは【主】とあなたを非難したりして、罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう【主】に祈ってください。」モーセは民のために祈った。

8 すると【主】はモーセに言われた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」

9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。

今から3500年前のことです。イスラエルの人々はエジプトで奴隷となっていました。神様の命を受けた指導者モーセは、エジプトの奴隷から解放させ、その人々を率いて、エジプトからイスラエル(カナン)の地に移動したときのことです。エジプトとイスラエルは、長野と大阪の距離ぐらい(直線距離で約200km)しかないのに、イスラエルの人々は、なんと40年もかかりました。彼らは行く先々で敵に行く手を阻まれ、40年の間、荒野(砂漠)を放浪したのです。このときは、シナイ山から北上し、あと少しで目的の地に入るところでした。しかし、彼らはUターンして、紅海に戻る途中でした。彼らは、エジプトから出た後、毎日、天から落ちて来るマナと呼ばれる食べ物を食べていました。彼らは、この食べ物に飽き飽きし、我慢できずに不平を言い始めたのです。このことに神様は、怒って、イスラエルの人々に燃える蛇を送ったのです。

現代の調査の結果、この燃える蛇はイスラエルノコギリヘビだろうと言われています。この蛇は、今もホル山から葦の海(アラバ湾)に向かう道筋にあるアラバ渓谷に生息しています。この蛇は、猛毒を持ち(日本マムシの130倍、コブラの5倍、咬まれたときの死亡率36%)で、攻撃的で近くにいる人間には無条件で咬みつくようです。当時、この燃える蛇に咬まれ、イスラエルの多くの人々が死にました。民は、神様とモーセを非難して罪を犯したことに気づき、告白しました。そこでモーセは神に祈り、神様が、モーセに「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる」と命じたのです。そこでモーセは、青銅の蛇を造って、旗ざおにつけました。その青銅の蛇を見た人は、死をまぬがれたということです。

当時のイスラエルの人口は、出エジプト記38:26によれば、20歳以上の成人男性で60万人、すなわち、女性や子どもを含めると、100万人以上いたと思われます。100万人を超える全ての人々が、蛇に咬まれたとは思えませんが、少なくとも、数千人から数万人規模の人が咬まれたのかもしれません。そうなると、全ての人が青銅の蛇を見上げたのではないと予測できます。すなわち、次の3通りの人がいたと考えてよいのではないでしょうか。

  • 青銅の蛇を見ると死なないという話を聞けなかった人(結果は死)、
  • 青銅の蛇のことを聞いても、その蛇を見ずに死んだ人(結果は死)、
  • 青銅の蛇のことを聞いて、蛇を見て死ななかった人(結果は生きた)

さて、ヨハネ3:14にもどりますが、イエス様は、この青銅の蛇のように、ご自身も上げられなければならないと言います。どこに上げられなければならないか、それは十字架の上です。そして、青銅の蛇を見上げた人がと生きたように、イエス様の十字架を信じた者は、永遠の命を持つと約束されました。「イエス様の十字架を信じれば永遠のいのちを持つ」ことを、福音と言います。

この福音についても、青銅の蛇と同様に3通りの人がいるのではないかと思います。

  • 福音を聞けなかった人、
  • 福音を信じない人、
  • 福音を信じた人

福音を聞けなかった人は、福音を知ることができないので、信じ永遠の命を持つことができません。

しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。 ローマ10:14

ですから、福音を知っている人には、大きな責任があります。もし、永遠のいのちの価値を知っているなら、家族や友達に福音を伝えたいはずです。しかし、実際は、福音を伝えたい人が聞いてくれません。蛇に咬まれた人は、死の恐怖により、助かる方法を必死で求めます。しかし、人は「罪の報酬は死」(ローマ6:23)という罪の悲惨さを知らなければ、福音に興味を示しません。ですから、私たちは家族や友人たちの救いのために祈り、彼らが福音を必要とするときを忍耐して待つのです。

コロナ感染症が流行り始めたとき、私たちはワクチンを求めました。しかし、振り返ってワクチン接種率を調べると、2割の方が未接種でした。未接種の理由は、副反応の心配だけでなく、若い人は重症化しないという情報でした。福音を信じないのは、「コロナが重症化しないからワクチンを打たない」のと同じです。罪の悲惨さが分からず、福音が必要と感じないのです。

私たちは、誰もが人殺しや盗みは罪であると思います。しかし、聖書では、人殺しや盗みのほか、嘘、むさぼり、妬みなども罪とします。また、罪の大きさで判断しません。たとえば、聖書では、相手を馬鹿者、愚か者と思えば、それは人殺しと同じとみなします。その理由は、原因である「相手を憎む心」を問題とするからです。それから、燃える蛇のきっかけになった神様への反抗です。創造主である神様を神様としない、創造主以外のものも神とすること、これは神様を冒涜することに相当します。そして、聖書は、これらの罪の結末が死、それも永遠の滅び、永遠の死であると言っています。

もし、コロナ感染症の死亡率が異常に高ければ、たとえ、副反応が大きくても、私たちは躊躇せずにワクチンを接種したはずです。でも、恐ろしい病気以上に、私たちに永遠の死をもたらす罪は、悲惨なのです。

16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

のように、創造主は、私たちに永遠のいのちを与えるために、ひとり子イエスを差し出したのです。永遠のいのちの価値は、全世界を手に入れるより、価値のあるものなのです。

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。 マタイ16:26

私たちには、この永遠のいのちを得るために何も出来ませんが、神様は私たちのために、ひとり子を差し出して下さったのです。

私は、ある人の死を通して、私にとって死を迎える上で最も怖いことは何かを思い巡らしていました。たとえば、癌を患い、余命宣告をされた方々は何に怯え、日々過ごしているのだろうと考えました。そのとき、「ああ、ひとりで経験もなく、何も分からない死という大きな事柄に相対すること」これが一番の恐怖かもしれないと思いました。コロナ禍になり、人との面識が減り、死をおひとりで迎えられることは、なんと辛いことなのだろうかと思います。ここに、家族や知人の介添えがあるだけで、少しでも恐れへの負担が減らせればいいと思いました。しかし、やがて誰もが迎える死に対して、どう、対処すべきでしょうか。

私は、聖心女子大学教授鈴木秀子さんの著書、「神は人を何処へ導くのか」を読んでみました。この本には、著者が体験された臨死体験が記されております。彼女の臨死体験は次のようにありました(※著作権の問題から概要のみ記載)。

彼女が、ある修道院に泊めてもらっていたときのことです。彼女が、間違って階段を踏み外して落ち、気を失ったとき、気付くと、体が空中に浮き、その後、からだが飛翔し、高いところまで登ったといいます。そこで彼女は、今まで見たことがないような美しい光に包み込まれ、その光は人格を持ち、命そのものの光であったのです。彼女は真に満たされた状態になったと言います。

※鈴木秀子著 「神は人を何処へ導くのか」 15-16ページ クレスト社

これはあくまでも彼女の臨死体験ですが、私は、彼女が出会った光の主こそ、私たちが神様と呼ぶお方ではないかと思いました。

聖書に記された永遠のいのちとは、

あなたがたは、初めから聞いていることを自分のうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いていることがとどまっているなら、あなたがたも御子と御父のうちにとどまります。

これこそ、御子が私たちに約束してくださったもの、永遠のいのちです。

Ⅰヨハネ2:24,25

とあり、私たちが神様(御子と御父)のうちにとどまるということです。もし、私たちが死を迎えたとしても、私たちはひとりぼっちではないのです。神様の内に包み込まれ、永遠に私たちは共に生きることができるのです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 ヨハネ3:16

神様は、そのひとり子の命を惜しまずに、ひとり子イエスを十字架に捧げたのです。それほどに、神様はあなたを愛し、あなたが滅びず、そして、永遠の命を持つことを願っておられます。それは、御子、御父である神様と、あなたが、永遠に共に住むことなのですから。

勧士 高橋堅治