父なる神との関係 ヨハネ5:16-24


昨日6月18日は、父の日でした。私たちには、母親と同様に、全ての人に父親がいます。それだけでなく、私たちには、父なる神様がおられます。ところで、何故、神様のことを父と呼ぶのでしょうか。

1.神を父と呼ぶ(16~18節)

16 そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。

17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」

18 そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。

お祈りするときに、よく「父なる神様」と呼ぶことがあります

イエス様は、マタイの福音書の5章から書かれている有名な「山上の説教」と呼ばれる部分で、神様を「あなたがたの父」と言っています。また、イエス様が私たちに教えてくださった「主の祈り」では、次のようにお祈りします。

ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。  マタイ6:9

このように、「天にいます私たちの父」と祈るようにと、イエス様は私たちに教えております。

さて、イエス様は、30歳ごろユダヤの地で福音を宣べ始めましたが、それより以前、イエス様の誕生から30歳までの詳しいことがわかりません。彼を育てたヨセフは大工でした(マタイ6:3)。そして、イエス様には兄弟や姉妹がいました。ヨセフが早くに亡くなり、イエス様が家族を養うために大工として働いていたと言われています。しかし、その頃も、イエス様はずっと神様を自分の父と意識していました。12歳の時の記録が残っていますが、彼はエルサレムの神殿にいたとき、イエス様を捜しにきた両親に対して、神殿を「自分の父の家」と呼んでいました。

すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」 ルカ2:49

そして、30歳頃、イエス様は、福音を宣べ伝えるために活動を始めました。この期間を「公生涯」と呼ぶ3年半になります。その間も、イエス様はずっと神様を「父」と呼び続けていました。実は、当時のユダヤの人々は神様を父のようには考えていませんでした。

神様という言葉は、私たちも、幼い頃から家族や様々な人々を通して教えられてきたのではないでしょうか。私たちの感覚では、神様は神社で祀られ、仏様はお寺で尊ばれています。しかし、どのような方なのかとなると、説明が難しいのではないでしょうか。辞書によれば、神様とは「絶対的で超越的な存在」「人間を超えた力を持つ人格的な存在」と言います。キリスト教では、この宇宙を創造した唯一の存在であるお方、創造主を神様と呼んでいます。

聖書によれば、創造主である神様は、最初、ユダヤ人の始祖であるアブラハムにご自身を現したとあります。そして、モーセを通じて、神様はユダヤ人たちと契約を結び、ユダヤ人らを神様の祭司としての王国、聖なる国民とされたと聖書に書かれています。

今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。出エジプト19:5,6

「祭司の王国」というのですから、王様がいたわけです。ユダヤ人の王様は神様でした。ですから、神様とユダヤ人の関係は、王様としもべという関係でした。そこで、神様とモーセが契約をしたとき、神様から与えて頂いた十戒には、神様の名前をみだりに口にするなという規則がありました。

あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。  出エジプト20:7

このような理由から、ユダヤの人々は、聖書を読む際に実際の神様の名前を用いず、「主(英文:Adhonay、日本文:アドナイ)」という言葉を用いました。更に、ユダヤが用いるヘブライ語では、当初、文字に母音の記号がなく、子音の記号だけが書かれていました。そして、神様の名前を発音しなかったため、神様のお名前の正確な発音方法が分からなくなってしまったのです。

後になって、どのような発音だったのかを推測しました。
神: יהוה 英語表記:YHWH

説1 à  アドナイ(Adhonay) の母音を当てはめる。  エホバ(YaHoWaH)

説2 à  有る(Hawah)という意味から、派生させてヤーウェ(Yahweh)とする。

※神様のお名前は、出エジプト3:14から「わたしはある」といいます。

神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」 出エジプト3:14

さて、ヨハネの福音書をみてまいりましょう。このとき、イエス様は、あるお祭りの時にエルサレムに来ていました。そして、ベテスダという名前の池で38年間も病気の人を治しました。

そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。ヨハネ5:16

イエス様が病気の人を治したその日は、ユダヤ人の宗教の教えでは休むべき安息日でした。宗教指導者たちは、イエス様がなぜ安息日を破って病人を治したのかということを問題にしたのです。

イエス様は彼らに対して、次のように答えました。

イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」 ヨハネ5:17

この答えに、ユダヤ人たちは、非常に怒りました。

そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。ヨハネ5:18

ユダヤ人にとって、神様は王様以上の存在でしたが、イエス様は父と呼びました。

ちょうど、私たち、日本人が、天皇陛下に対しても「なるひとさん」と、呼びかけるのです。親しげではありますが、実際、私たちにとって、天皇陛下は雲の上のような存在かもしれません。創造主である神様は、この宇宙を造り、全世界を支配しておられるお方です。ですから、ユダヤ人らの考えの方が正しいように思えてしまいます。たしかに、当時の人々に、神様を「父」と呼ぶことが、冒涜と考えても過言ではありません。

でも、イエス様にとっては、神様との関係は父と子の関係なのでした。

たとえば、イエス様がバプテスマ(洗礼)をバプテスマのヨハネから受けたときに、天からの声は次のように語られたといいます。

イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」 マタイ3:16-17

更に、イエス様が山でお姿が変わったときに、声がしました。

彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。マタイ17:5

神様にとって、イエス様は愛する子なのです。ですから、イエス様が父と呼ぶことは納得できます。そして、私たちは、神様を父と呼んでもよいのでしょうか。

イエス様を信じ受け入れた人たちは、神様によって生まれ、神の子どもとされます。

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。 ローマ8:14-15

私たちも、神様を父と呼んでもいいのです。

明治時代に活躍した牧師に、木村清松(きむらせいまつ)という人がいます。木村牧師は、次のような有名な話を残しています。

1908年、清松はアメリカのバファロー市の教会で説教をするために招かれた後、ナイアガラの滝を見に行きました。あるアメリカ人が、彼に「どうだい、こんな大きな滝は日本にはないだろう!」と言いました。それに対して清松はこう答えました。「なんのことはない、この滝は私の父が作ったんですよ。」アメリカ人はびっくりしました。「お前さんは、インディアンなのかい?」

「いいえ、私の父は天地を造った神様です。私はクリスチャンになって、神の子供とされたので、この滝は父のものだと言ったんですよ。」

この答えに感動したアメリカ人は、清松が牧師であることを知り、自分の教会に来て話をしてほしいと頼みました。デトロイトの新聞に載り、「この日本人はナイヤガラの持ち主である」と大げさに書かれました。それによって有名になり、「ナイヤガラの持ち主の息子」としてアメリカ各地で講演を行ったと言われています。

どうですか、あなたも、この宇宙全体を創り上げた神様の子供なのです。だから、私たちは親しみを込めて「お父さん」と呼んでもいいのです。

2.父がなさることを行う(19~20節)

19 イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。

20 それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。

19節に、イエス様は「すべて父がなさることを、子も同様に行う」と言われました。

ある神学者は、「イエス様とヨセフが一緒に大工の仕事をした経験が、イエス様の姿勢を形成したのではないか」と言います。ヨセフの大工仕事は、親方と弟子の師弟関係があり、親方の技を弟子が見て覚え、その通りに実施するという匠の技です。すなわち、イエス様は、ヨセフの技を見て育ち、その通りの技を身に付けていったと思われます。イエス様は、この経験をもとに、父なる神様と御子の関係を深く学ばれたのではないでしょうか。イエス様の33年半の地上生涯のうち、公生涯である3年半は、一生の中で短い時間でした。一見、その前の30年間は無駄のように感じてしまいますが、そうではなかったのだろうと思います。イエス様の30年間の公生涯の準備期間は重要だったはずです。

私自身、農作業を通して2つのことを学びました。1つは農機具の使い方です。私は、子供に鍬で畑を耕すように頼んだのですが、彼の動きはとても見られたものではありません。耕せないのです。私は、幼い頃から、父親に農作業を教えられてきました。今になって、きちんと農作業ができるのは、そのせいだと思います。もう1つは、イエス様のたとえ話です。イエス様のたとえ話には農作業に関するものがあります。私が、実際に農作業を体験してみると、イエス様のたとえがとても真実であるように思いました。イエス様は、農業にも精通しておられたのです。イエス様が万能だからと考えず、イエス様が30年間の生活を通して、学ばれたことだと思うのです。

だからこそ、私たちの人生には無駄なことはないのです。私たちは、私たちの人生のどんなことでも、その経験を通じて、神様のことを学ぶことができます。そして、その経験と聖書の御言葉によって、私たちは神様の栄光を表すことが出来るようになるのではないでしょうか。私たちも、神様の子どもなのですから、イエス様のように、聖書を通して父なる神様の御心を学び、神様の業を行うことができるようになれば、なんと幸いなことでしょうか。

3.父なる神を信じる(21~24節)

21 父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。

23 それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。

24 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

まず、24節を見てみますと、「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています」と言います。

「わたしのことば」とは、イエス様が語る福音や聖書全体を指します。イエス様は、わたしではなく「わたしを遣わされた方」と言っています。父なる神様を信じる人には、永遠のいのちと、最後の審判からの回避が約束されているというのです。

21節では、イエス様がいのちを与える権威をもつことを表しています。父なる神様は、いのちを与える者として聖書で証ししています。たとえば、エリヤやエリシャを通して行われた奇跡です。

彼(エリヤ)は主に叫んで祈った。「私の神、主よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」そして、彼は三度その子の上に身を伏せて、主に叫んで祈った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちがその子のうちに戻り、その子は生き返った。Ⅰ列王記 17:20-22

エリシャは中に入り、戸を閉めて、二人だけになって主に祈った。それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口をその子の口の上に、自分の目をその子の目の上に、自分の両手をその子の両手の上に重ねて、その子の上に身をかがめた。すると、その子のからだが温かくなってきた。それからエリシャは降りて、部屋の中をあちらこちらと歩き回り、また寝台の上に上がり、子どもの上に身をかがめると、子どもは七回くしゃみをして目を開けた。 Ⅱ列王記 4:33-35

同じように、イエス様も、奇跡を通して、ご自身がいのちをお持ちになることをお示しになりました。

そして近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった。イエスは言われた。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めた。イエスは彼を母親に返された。  ルカ7:14-15

人々は、少女が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。しかし、イエスは少女の手を取って叫ばれた。「子よ、起きなさい。」すると少女の霊が戻って、少女はただちに起き上がった。それでイエスは、その子に食べ物を与えるように命じられた。 ルカ8:53-55

そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」 ヨハネ11:43-44

更に、22節に、父なる神様は、御子に最後の審判を委ねられたとあります。その経緯は何故かというと、

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。 ピリピ2:6-11

父なる神様は、この世界を愛し、人間の救いのために御子をこの世界に遣わし、十字架の死に至らせました。御子は、父の御心を知り、十字架の死まで従われたのです。そのため、私たちは御子を敬い、「イエス・キリストは主です」と告白することで、御子によって、永遠のいのちを受け、最後の審判から免除されるのです。

そして、父なる神様と御子の愛の関係は、父なる神様が御子を愛し、御子は父に従うということです。これは、御子と教会の関係と同じなのです。御子は教会を愛し、教会はイエス様に従っています。この麗しい愛の関係に、私たちも招かれています。

父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。 ヨハネ17:21

勧士 高橋堅治