バプテスマのヨハネの証し ヨハネ1:19~34


早いもので、もう6月も最後の日曜日を迎えました。これからは梅雨の後半になります。じめじめした天気が続いたと思うと、真夏の日が差してきます。この季節は、身体のむくみと下痢を起こしやすいとも言いますので、水分と共にバランスの良い食事を摂りたいものです。

今日は、バプテスマのヨハネという人に焦点を当てて、学びたいと思います。

.荒野で叫ぶ者の声(19~24節)

19 さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちが、祭司たちとレビ人たちをエルサレムから遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、

20 ヨハネはためらうことなく告白し、「私はキリストではありません」と明言した。

21 彼らはヨハネに尋ねた。「それでは、何者なのですか。あなたはエリヤですか。」ヨハネは「違います」と言った。「では、あの預言者ですか。」ヨハネは「違います」と答えた。

22 それで、彼らはヨハネに言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人たちに返事を伝えたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」

23 ヨハネは言った。「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」

24 彼らは、パリサイ人から遣わされて来ていた。

イエス様は約30歳の時に、ユダヤ(今のイスラエル)で宣教活動を始めました。イエス様が宣教活動をされる前に、ユダヤにバプテスマのヨハネという人物が現れました。

聖書のマルコの福音書を見ますと、

バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。 マルコ1:4

とあります。バプテスマのヨハネが荒野(石と土の荒廃した草木のない場所)で、罪を赦すためのバプテスマの悔い改めを宣べ伝えたことが記されています。バプテスマとは、別名、洗礼を表し、ギリシャ語の「バプティスタス(Βαπτιστής)」が由来しています。そのため、バプテスマのヨハネを洗礼者ヨハネとも呼ばれます。

彼の誕生について、ルカの福音書の第1章に詳しく書かれています。クリスマスの時期になったら、改めて、学びましょう。

バプテスマのヨハネが活動を始めた時期は、ルカ3:1によると、ローマ皇帝ティベリウスの第15年ということが記されています。この年代は、西暦27年から28年ごろだったと考えられます。

皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督であり、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイトラヤとトラコニテ地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。    ルカ3:1-2

バプテスマのヨハネは、ヨルダン川で罪を許すための悔い改めのバプテスマ(洗礼)を行っていました。彼の活動を耳にしたユダや周辺地域、エルサレムの住民は、みんなヨハネのところに集まり、罪を告白してヨハネからバプテスマを受けていました。

ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。 マルコ1:5

さらに、彼は、人々に具体的にどうすればよいのかを教えました。

群衆はヨハネに尋ねた。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょうか。」ヨハネは答えた。「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。食べ物を持っている人も同じようにしなさい。」

取税人たちもバプテスマを受けにやって来て、ヨハネに言った。「先生、私たちはどうすればよいのでしょうか。」ヨハネは彼らに言った。「決められた以上には、何も取り立ててはいけません。」

兵士たちもヨハネに尋ねた。「この私たちはどうすればよいのでしょうか。」ヨハネは言った。「だれからも、金を力ずくで奪ったり脅し取ったりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」 ルカ 3:10-14

当時のユダヤは、ローマ帝国が支配し、その解放を願う人々は、救い主であるキリストを待ち望んでいました。このヨハネという人物が実はキリストではないかと思う人も多かったようです。

人々はキリストを待ち望んでいたので、みなヨハネのことを、もしかするとこの方がキリストではないか、と心の中で考えていた。 ルカ3:15

それでは、ヨハネの福音書1章をみていきましょう。

さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちが、祭司たちとレビ人たちをエルサレムから遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、(19節)

最初に、「ヨハネの証しはこうである」と説明が行われています。ここでは、ヨハネと、ユダヤ人たちの派遣した祭司たちとレビ人たちの会話が記されています。

ここに登場する、「ユダヤ人たち」は特別な人々で、一般のユダヤ地方の人々ではありません。このヨハネの福音書には、この「ユダヤ人たち」がよく登場します。彼らは度々、イエス様と宗教的な問題で対立しました。24節をみると、彼らの正体はパリサイ人であることがわかります。パリサイ人は、律法(神の教え)の戒めを厳格に守ることが正しいと考え、ヨハネのような新しい宗教活動を危険視していました。そこで、彼らはエルサレムの祭司やレビ人を派遣したのです。今で言えば、宗教トラブルとして、クレーマーのパリサイ人が、当時の公務員である祭司、レビ人たちに調査に行くように依頼したと考えると分かりやすいです。当時も、クレーマーはいたみたいですね。

そして、19節からは、祭司たちとレビ人たちによるヨハネへの事情聴取なのです。

さて、派遣された祭司、レビ人たちは、ここで、ヨハネに2つのことについて尋ねています。それは、「あなたは誰ですか?」、「何をしているのか?」です。

彼らは最初に、ヨハネに「あなたはどなたですか」と尋ねました。多くの人々はヨハネがキリストではないかと考えていたからでしょう。ところが、20節のように、ヨハネはためらわずに「私はキリストではありません」と答えたのです。祭司とレビ人たちは、期待していた答えが得られなかったため、「では、あなたは何者ですか。エリヤですか」と尋ねました。ヨハネはそれに対しても「違います」と答えました。当時の人々は、預言者マラキが言った言葉から、神様の審判の前に、キリストのような預言者エリヤが現れるだろうと考えていたようです。

見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。 マラキ4:5

彼は「違います」と答えましたが、ヨハネは、実際にエリヤのような預言者でした。

彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」 ルカ1:17

しかし、人々はキリストのようなエリヤと思っていたために、彼はそれとは「違います」と答えたのです。祭司、レビ人たちはさらに、ヨハネについて尋ねました。「では、あの預言者ですか」と。聖書で、「あの預言者」というと、ユダヤの人々はモーセの語った預言者を思い起こすようです。それは、申命記18:18に書かれた預言者です。やがて、「モーセのような一人の預言者」が現れると、ユダヤの人々は信じていました。

わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる。わたしの名によって彼が告げる、わたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしはその人に責任を問う。 申命記18:18-19

ヨハネはここでも「違う」と言って否定しました。実は、この「もう一人の預言者」はキリストご自身を示しているのですから。

祭司、レビ人たちが質問したことを、ヨハネはことごとく否定しました。そこで、祭司、レビ人たちは、彼らを遣わしたパリサイ人たちに何と報告したらいいか分かりません。そこで「あなたは自分を何だと言われるのですか」と尋ねたのです。ヨハネの答えは、23節、「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』」と言いました。

この御言葉はイザヤ40: 3-4に書かれています。

荒野で叫ぶ者の声がする。「【主】の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。 イザヤ40:3-4

想像してみて下さい。荒野の中、すなわち、荒れ果てて、草木のないような荒れた土地で、ひとりの大声で叫んでいる人がいます。その叫びは、神様に近づくための道を整えなさいというものです。

その声の人物はヨハネでした。彼は、人々が神様のところに行くためには、心に真っすぐで平らな道を作る必要があると言っています。その叫びは、当時の人々の心の状態を表していました。人々の心は、山や谷があり、曲がりくねった道で、障害物がいっぱいの状態、神様の前で自分自身を見失っています。そのような状態では、たとえキリストに出会っても、キリストに本当の自分を見て頂くことはできません。だからこそ、ヨハネは、その障害物である罪を告白し、自分の心を整えるように人々に伝える者だったのです。

現在、バプテスマのヨハネは存在しません。しかし、私たちには彼に代わるものが与えられています。それは、聖書の御言葉です。聖書には、モーセの十戒を含む神様の教えやきまりが書かれています。もし、私たちが、ありのままで聖書の御言葉を実行しようとするなら、きっと、途中で挫折するでしょう。そして、自分の罪に気づくことになるのです。

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。 ローマ 3:20

バプテスマのヨハネは、荒野で叫ぶ者として、人々に罪の意識を生じさせ、キリストに人々を導く者でした。同様に、聖書の御言葉、すなわち、律法も、私たちに罪の意識が生じさせ、私たちは、キリストによる罪の赦しが必要になります。逆に、罪の意識が無ければ、キリストの救いは不要なのです。

こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。 ガラテヤ3:24

キリストにお会いする前に、私たちは罪という問題に取り組むことが必要なのです。

2.あなたがたの知らない方(25~28節)

25 彼らはヨハネに尋ねた。「キリストでもなく、エリヤでもなく、あの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」

26 ヨハネは彼らに答えた。「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。

27 その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」

28 このことがあったのは、ヨルダンの川向こうのベタニアであった。ヨハネはそこでバプテスマを授けていたのである。

祭司、レビ人たちがしたもう一つの質問は、「なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか」ということでした。

当時、バプテスマは、ユダヤ教を信じるユダヤ人には必要のない儀式でした。バプテスマは、異教の人々が、ユダヤ教に改宗する際に、清めのため、水に浸かるという儀式だったからです。ですから、パリサイ人は、なぜ、ユダヤ人にバプテスマを行うのかと考えていたのです。

祭司、レビ人たちの質問に対して、ヨハネは次のように答えました。「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。」

このヨハネの答えは、「どうしてバプテスマを行うのか?」に対する答えになっていないのです。なぜ、ヨハネは、こんな答えをしたのでしょう。

恐らく、ヨハネは途中で説明を止めたのだと思います。祭司、レビ人たちに「知らない方」を説明することに躊躇したのでしょう。そこで、彼は、「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません」と言ったところで、説明を打ち切ったのだと思います。

私たちは、身近な人々に対してイエス様の話をすることが難しいと感じることがあるかもしれません。相手が、イエス様を知らず、興味がないならば、彼らは容易に拒否します。でも、もし、自分の信仰体験、すなわち、人生の中でイエス様に出会って救われた体験を話すなら、相手の方はより聞いて下さるはずです。

3.世の罪を取り除く神の子羊(29~34節)

29 その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。

30 『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。

31 私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。」

32 そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。

33 私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』

34 私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」

翌日に、ヨハネのところにイエス様が訪れました。ヨハネがイエス様がおられるところで、人々にバプテスマを授ける本当の理由を伝えています。彼は、「この方がイスラエルに明らかにされるため」にバプテスマを行ったのです。ヨハネは、バプテスマを授けるまで、キリストが誰なのか知りませんでした。神様は、バ「御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのを見たら」、その人がキリストであると言っていたのです。故に、ヨハネは、多くの人々にバプテスマを授けて、キリストを捜してきたのです。そして、とうとう、ヨハネは、イエス様にバプテスマを授けたとき、御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見ました。ヨハネは、このとき、イエス様がキリストだと知ったのです。

私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。 (34節)

だから、「この方がイスラエルに明らかに」するために、ヨハネは人々に言いました、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と。

ヨハネは、キリストが、世の罪、この世界の人々の多くの罪を取り除くお方であるということを知っていました。ヨハネ自身は、人々に、神様に至る道を整えること、自分が神様からどれほど離れ、神様に背いているかを知らせるために来ました。神様から離れ、背いていることを罪と言います。もし、人が自分の罪を知ってしまったら、罪をそのままにしておくことは出来ないはずです。そして、その罪を自分で帳消しにも出来ないのです。ですから、私たちには神の子羊が必要なのです。聖書で子羊は、生け贄を表し、神の子羊は、神様による罪の生け贄なのです。キリストは、全世界の罪をひとまとめにして、処分してしまうお方です。イエス様は、あなたを含む、人々の罪をぜんぶひとつにまとめて十字架で死なれました。十字架上で罪を帳消しにして下さったのです。

ヨハネは、バプテスマという活動を通して、人々が罪の中にあり悔い改めることを勧め、さらに来るべき方であるキリストに出会いました。そして、ここで、ヨハネは罪の中にある人々にキリストを紹介したのです。それは、イエス様が神の子であると信じて、いのちを得るためなのです。

あなたにとって、キリストは必要なお方ですか。このお方を信じる者は、神の子どもとなり、永遠のいのちを持つのです。

勧士 高橋堅治