神によって生まれる ヨハネ1:9~13


梅雨に入り、鬱陶しい雨の日々が続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。

今回も、前回に続いてヨハネの福音書から学びたいと思います。

まず、ヨハネの福音書が書かれた目的を御言葉からおさらいしましょう。

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。           ヨハネ20:31

ヨハネの福音書は、イエス様が神の子キリストであることを信じるため、そして、永遠のいのちを得るために記されたのです。

本日は、ヨハネの福音書1章9節から13節を通して、「神によって生まれる」ことを学びます。

1.世はこの方を知らなかった

9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。

10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。

9節に「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた」と記されていますが、これは「すべての人を照らすまことの光が、この世界にやって来た」と読んでください。ギリシア語では、物語の背景を描写するときに、これから起こることのように書く場合があります。

「イエスが神様である」と言われると、疑問を抱く方がおられるのではないでしょうか。

その理由のひとつは、「キリスト教がイエスを神にたてまつったのではないか?」ということです。私は、次のように考えると腑に落ちるのではないかと思うのです。

  • この世界をお造りになった創造主がおられ、この方を神様と呼ぶ。
  • 世界は、神様のことばを通して、造られた。
  • この神のことばは、人格をもち、人々を照らす光の存在のお方である。
  • このお方が、ある日、人間として、この世界にお生まれになった。
  • 人間として生まれたから、名前が必要。「イエス」と名付けられた。

このように整理すると、イエス様が神様であるということが理解できると思います。

イエス様がお生まれになる前の旧約聖書では、やがて、この世界に救い主が来られると語られています。例えば、イザヤ書9:6-7に、次のように記されています。

ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。 

イザヤ9:6-7

ひとりのみどりごが生まれ、その名は、「力ある神」、「永遠の父」と呼ばれ、万軍の主、すなわち創造主なる神様の御心が行われるのだというのです。

ところが、この世界は、このひとりの男の子がうまれることを知らないというのです。そして、このお方を受け入れませんでした。

イザヤは53:1で、「主の御腕」(メシヤ)は、「だれが信じたか」、「だれに現れたか」と言っています。

私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。 イザヤ53:1

神のことばであるお方が、この世界にお生まれになったのに、だれも信じません。

それは、「彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもな」かったからです。そして、イザヤが言うように誰も彼を受け入れませんでした。

彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。

彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。  イザヤ53:2-3

彼を受け入れなかったばかりか、人々はこの方を十字架につけて殺してしまったのです。

虐げとさばきによって、彼は取り去られた。 イザヤ53:8

私たちは、神様は愛のお方で、私たちの罪のために、イエス様を十字架に架けられたと、何度も何度も聞いています。人々は、キリスト教を愛の宗教として認知し、結婚式では、十字架の前で愛を誓いあうのです。若者の首には十字架のネックレスを身に着けています。でも、私たちのこの世界は、イエス様をいまも受け入れていません。キリスト教や聖書に悪い感情を持つ方も多くはありません。しかし、人々に、イエス様のことを伝えようとすると、多くの人々は拒否するのです。「私には必要ありません」と。

先日、長野で3年ぶりにマーチフォージーザスの集まりがありました。賛美をしながら、街角を歩くのですが、今回は、一緒にチラシを配りました。先頭で歌いながら、配ろうとすると、避けるような冷たい眼差し、否定的な人々の反応をみます。そのとき、私は、この御言葉を思い返していました。「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。

受け入れない理由は、何でしょうか。聖書には、あなたは、このお方のものです。更に、このお方はあなたをお造りになり、あなたを命懸けで愛されるお方であると言っています。

2.神の子どもとなる特権

12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。

聖書は更に続けていうのです「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」と。人々は、このお方を受け入れませんでしたが、「受け入れた人々」、「その名を信じた人々」には、神の子どもとなる特権を与えるというのです。この信じる【πιστεύω,ピスティオ】という言葉に、「自分への依存や自分の行為の正しさへの信頼を捨てて、神の義であるキリストへの信頼に全面的に切り替える。また、彼の中に信頼を置き切って委ね続ける」という意味があります。

では、神様が与える特権、神の子どもとはどういうものでしょう。

聖書のローマ人の手紙8章には、神の子どもなら、相続人であると書かれています。

子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。  ローマ8:17

神の子になると、キリストとともに神様の共同相続人になるのです。私たちが、キリストを信じ受け入れたときに、神様は、私たちと養子縁組をして下さるのです。

当時、ローマ帝国では養子縁組の制度があったようです。日本の養子縁組の制度は、本来、武家社会における、御家存続のために設けられました。後継ぎがいない、或いは御家を守るため、相応しい家柄の子どもを養子縁組で子供とするものです。現在では、二種類の養子縁組制度があります。ひとつは、普通養子制度と言って、戸籍に実の両親と養父母が記載されるもの、もう一つは特別養子制度という養父母のみが戸籍に記載されるものです。この特別養子制度は、親の様々な事情によって養育できない子供を養父母が引取り、実の子どもと同様に受け入れるものです。

私たちと神様の関係は、実に、この特別養子制度のようなものだと思います。私たちは、私たち自身が既に大きな問題で自らが行き詰まった状態になっているとき、養父である父なる神様が私たちを実の子と同じように神の子どもとして引き取って下さるのです。ただ、そこには代価が必要でした。それは、神様の実子のいのちでした。ある一面、それはとてもむごいことかもしれませんが、父は、実子の痛み、苦しみを受けることをお認めになりました。

実子である御子は、十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだほどなのです。父なる神は、実子よりも、養子を愛したのでしょうか。いいえ、そうではありません。実子である御子を愛することと同じ程に養子も愛そうとされたのです。

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 マタイ27:46

2018年4月25日のYahooニュースで次のような記事がありました。
2017年、政府は特別養子縁組を年間1000件成立させる目標を立てた。だが血縁を重視する日本社会において、特別養子縁組をした家族の実態はなかなか見えてこない。そこで、特別養子縁組をしたある家族のストーリーを追った。

片山さんが特別養子縁組に興味を持つきっかけは25歳で始めたボランティア活動だった。脳性麻痺の男の子と関わる中で、「お母さんになりたい」と強く思うようになり、2年後に児童相談所へ相談に行き、里親登録をした。その3週間後に妊娠7ヶ月の妊婦からのお願いを受け、特別養子縁組を決定。義父母の反対を乗り越え、夫婦で長男、正人くんを迎え入れる。その後も片山さんは、長男に兄弟を与えたいと考え、2人目の養子縁組を決意した。義父母の再度の猛反対にもかかわらず、5年後に2人目の鈴ちゃんを迎えた。片山さんは義母に対して、「おなかの中に娘はいなかったけれど、心の中にはいた。この子を守る、と必死でした」と伝えた。

この記事のように、片山さんは子供が授からなかったのですが、彼女の心には子供がいたというのです。

養子縁組で結ばれた片山さんの心は、「おなかの中に娘はいなかったけれど、心の中にはいた。この子を守る、と必死でした」。私たちは、神様の特別養子縁組によって、神様の子どもとされました。それは、片山さんと同じように、神様の心の内に、私たちひとりひとりが生まれていたからではないかと思います。神様は、十字架を通して、私たちを命懸けで守って下さるお方なのです。

私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。 Ⅰヨハネ3:1

私たちは、この神様の大きな愛によって、神の子どもとされたのです。

3.神によって生まれた者

13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

13節、「この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」、神の子どもとされた人々は、「神によって生まれた」とあります。「血によってではなく」、ある国民、民族でなければならないということでなありません。聖書ではユダヤ人と神様の関係を語っていますが、ユダヤ人でなければならないということはないというのです。もちろん、日本人ではダメだということもありません。創造主なる神様は全世界の神様なのです。また、「肉の望むところ」とは、私たちの欲望です。クリスチャンっていう響きは清楚な響きであり、昔、「私はクリスチャンです」というのに少し優越感に感じたことがありました。しかし、その目的は自分が認められたい、自分が良く思われたいという、自分の欲望を満たす想いがあるかもしれません。「人の意志によってでもなく」、私たちは家族や友達などをクリスチャンに強要しようと思うことがあるのではないでしょうか。身近な人に神様を知ってほしい、救われてほしいと願うことは、正しいことです。しかし、強要することは、神様の目からは正しいことではありません。

神の子どもは、「神によって生まれ」るですから。このことを、新生(しんせい)と言います。新生は、神様が行われることであり、私たちが自ら新生するのではありません。新生とはどのようなものかというと、神様によって新しく生まれるということです。そして、新生されなければ、人は神の国、天国に決して入ることはできないのです。

イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。 ヨハネ3:5

では、この新しく生まれるとはどういうことなのでしょう。

私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。死んだ者は、罪から解放されているのです。私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。

 ローマ6:6-8

私たちの古い人は、私たちが望まない罪の体、死の体であり、私たちはこのからだのままで神の国に入ることは出来ません。聖書に、古い人はキリストと共に十字架につけられた、キリストとともに死んだといいます。あなたが、もし、ご自分の罪に悩み、また、ご自分を否定する想いが心にあるなら、それをまるごと、イエス様のところに預けてみてはどうでしょうか。預ける方法は、神様とひとこと祈るだけで良いのです。古い人はイエス様の十字架で死ぬべきものです。そして、イエス様が三日目に復活されたように、私たちもイエス様とともに新しく生きる生活を始めるのです。

新しく生まれるということを、頭で考えても難しいので、ここである方の人生を紹介します。既に、ご存じの方も多いと思いますが、ここで、田原米子さんを紹介します。

彼女は、次のような証しをしています。

昭和30年17歳の時、彼女は母親の死をきっかけに自殺を試み、新宿駅で飛び込む。

奇跡的に生き延びるが、重傷を負い、両足と左手を失い、右手もほとんど使えなくなる。

病院で、彼女は8日間意識不明の状態だった。目を覚ますと、自分の手足がないことに気づき、絶望感が増す。

家族は彼女を支えようとするが、彼女は人々の親切に反発し、怒りと疑念でいっぱいだった。ある日、クリスチャンの知人が彼女を訪れ、彼女は最初、彼らを拒絶する。しかし、彼らが献身的に通ってくるうちに、彼女は彼らが違う世界の人間で、穏やかな気持ちでいられることに気づく。

彼らの励ましを受け、彼女は神に祈りを捧げる。

彼女が神に「助けてください」と叫んだとき、彼女の心には平安が訪れる。

彼女は初めて安らかに眠り、翌日目が覚めると、聖書の一節

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

に目が止まる。彼女は自分の手を見て、「古いものが過ぎ去った」ことに気づく。

彼女はまだ指が3本もあることに感謝し、初めて物事を肯定的に捉えることができるようになる。

そのときから、彼女は人生に新しい価値と意味を見つけ、周囲の世界を違う視点で見るようになる。

彼女は感謝の心で満たされ、「生かされている」と感じる。

彼女はどん底から出発し、小さな発見に喜びを見いだす人生に歩んだのだ。

彼女は、聖書の御言葉に目をとめたとき、「私は、外側は変わらないけど、私の内側が全く新しくなった。」と言っています。彼女は、「生かされたんだ、助けられたんだ、ありがとう」と言うようになったのです。聖書は、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」と言っています。あなたも、もし、キリストを心に迎えるなら、新しく造られた者、神によって生まれた者なのです。 古いもの、私たちの罪、私たちを苦しめる様々な否定的な想い、それは全て、キリストの十字架につけられ、過ぎ去ってしまいました。そして、あなたは神によって新しく造られたものなのです。

勧士 高橋堅治