神のことば、イエス ヨハネの福音書1:1~5


これまでは、イエス様のたとえについて学んでまいりました。ひとたび、たとえの学びを止め、これからヨハネの福音書を学んでまいります。

ヨハネの福音書は、イエス様のお弟子12人の中のひとり、ヨハネが書いたものだと言われています。ヨハネは、兄弟のヤコブと一緒にガリラヤ湖で漁師をしていました。ガリラヤ湖のそばでイエス様が話をしていたとき、シモン・ペテロと一緒に、ヨハネは、イエス様に従いました(ルカ5:10-11)。

シモンの仲間の、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」

彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。                          ルカ 5:10,11

ヨハネは、12人の弟子の中で一番長く生きた人と言われています。彼は、現在のトルコにあるエペソの教会の長老(牧師)になりました。そのころ、キリスト教はローマ帝国内でたくさんの人々が信じるようになりました。でも、同時に、ローマ皇帝によるキリスト教への迫害があり、教会内に異端(異なった教え)がはびこりました。この状況の中、ヨハネは、このヨハネの福音書の他、3つの手紙、そして黙示録を書いたと言われています。

ヨハネの福音書の内容は他のマタイやマルコ、ルカの福音書(これら3つを共観福音書と言います)とはちょっと違います。3つの共観福音書は、イエス様の公生涯を順序に沿って書いています。ところが、ヨハネの福音書は、7つのしるし(奇跡)を中心に、神の子キリストを証ししています。

このヨハネの福音書の目的を、ヨハネは以下のように書いています。

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。                                      ヨハネ20:31

すなわち、イエス様が神の子キリストであることを信じるため、そして、永遠のいのちを得るためなのです。

1.ことばは神であった

1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

ヨハネの福音書の冒頭に、「初めにことばがあった」と言っています。この「初め」という言葉は、聖書の中で一番昔を言っています。実は、創世記1章に記された天地創造よりも、更に昔なのです。そんな昔に、「ことば」があったというのです。この「ことば」を、ギリシア語で「ロゴス」と言います。それは、私たちが普段使う単なる言葉という意味に留まらず、命、知恵、知識、人格、そして神の言葉という意味があるようです。旧約聖書時代(今より二千年以上前)のユダヤ人は、聖書の言葉を神様と同じように大切にしていました。ですから、神様のお名前は、ヤーウェという呼び方だと言われていますが、実は、本当は分からないのです。ユダヤ人は、神様の名前で呼ぶことをためらいました。そして、元々、ヘブル語には、母音記号がありませんでしたから、発音がわからないのです。このように、ユダヤ人にとっては、神様の言葉は、神様と等しいものと考えていたようです。新約聖書にはギリシア語が用いられていますが、ギリシア人はロゴス(言葉)を神の理性や法則と解釈していたので。ヨハネは、イエス様を紹介するのに、ロゴス、神のことばというように用いたようです。このロゴスである神のことばこそ、ヨハネの福音書全体が述べる神の子キリストを指しているのです。

聖書には、この神のことば「ロゴス」がイエス様ご自身であり、この世界ができる前に存在されていたと証ししています。このお方は、神であるのです(父と子と聖霊からなる三位一体の神)。

聖書は、神様のことについて記されていますが、ヨハネ1:1に示されるイエス様は、クリスマスにお生まれになったお方だけでなく、このお方は、この世界ができる前から存在されたお方なのです。

2.この方によって造られた

1:2 この方は、初めに神とともにおられた。

1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

この方、イエス様は神様ご自身であり、父なる神様と共に、この天地創造をされたお方だと言っています。すべてのもの、この中に私たち一人一人も含まれているのです。

もしかすると、このような疑問を持たれるのではないかと思います。「私は、親から生まれてきたんだ、神様とは何の関係もないのでは?」

確かに、私たち一人一人には、それぞれ、お父さんとお母さんがいて、両親の遺伝を受けて、今の私たちになったことは事実です。そこに神様がどう関わっているのでしょう。

ここからはちょっと難しい話になりますが、しばらく、一緒に科学の勉強をしましょう。

多くの皆さんは、スマホ(スマートフォン)をお持ちではないでしょうか。スマホはとても便利です。たとえば、ラインで家族や友人と連絡を取り合ったり、メールを送ったり、インターネット検索もできるし、電話もできます。カメラが付いているので、写真撮影もできてしまいます。もう、使っている皆さんにとって、生活必需品になっているはずです。

このスマホ、どうして、1つの機器でこれだけ沢山のことが出来てしまうのでしょうか。それはアプリと呼ばれるプログラムがあるからです。ライン用アプリ、カメラ用アプリ等々、アプリが沢山用意されています。

スマホのアプリは、スマホが理解可能な電気信号の文字の配列で作られています。例えば、ラインアプリの場合は、入力した文字を正確に登録した相手に伝えられるように作られています。カメラのアプリの場合は、スマホのレンズから取得した画像を記録し、それを画面に表示することができるのです。これらのアプリは、自然に湧いてきたプログラムではありません。アプリの開発者が、書いたものなのです。

生物にも、スマホのアプリと同じように、実はプログラムがあります。これを遺伝子と言います。

遺伝子を構成する物質DNA(デオキシリボ核酸)は、アデニン、グアニン、シトシン、チミンの4つの塩基の配列でプログラムしています。この遺伝子というプログラムによって、どのような機能があるのかというと、それはタンパク質を生成するプログラムなのです。

私たちの体を構成する物質のうち、水が60%を占めています。でも、家族や友達を見たとき、殆どのとき、水をみかけることはありません。実は、私たちが相手の姿を見るとき、相手のタンパク質を見ているのです。実際、この体というたんぱく質の中に、水、脂質、炭水化物などが貯蔵されているのです。そして、この私たちの体を構成するたんぱく質は、食事によって取得したアミノ酸を原料に、遺伝子が作るものなのです。遺伝子は、食べ物から摂取した様々なアミノ酸を繋げていって、刺激に応じて必要なタンパク質を作ります。タンパク質によって、体の組織、免疫、信号伝達、栄養輸送などができます。たとえば、風邪にかかった場合、遺伝子は、風邪にかかったという情報に対して、風邪に対する免疫機能を持ったタンパク質を作って風邪の病原体を排除しようとするのです。もし、私たちの免疫機能が正常に働かないなら、私たちはこの世界で生きていくことはできません。

そして、この体の驚くべき仕組みは、人類誕生のときに、備わっていたのです。それが、遺伝子という仕組みを書いたプログラムです。この遺伝子は対で出来ており、子は父親と母親から一つずつ遺伝子を受け継ぎます。遺伝子を受け継ぐときに、両親の遺伝子は特別な組み換えが行われ、世界で1人しかいないユニークな人間が生まれるのです。

アプリが専門の開発者が作ったように、遺伝子も専門家が作ったはずです。これが自然に、偶然に出来上がったと思いますか?

日本の遺伝子研究者、筑波大学名誉教授の村上和雄氏は、生命の暗号という本で「ヒトの遺伝情報を読んでいて、・・・人間を超えた 存在を想定しないわけにはいかない」と言っています。

2011年6月30日、東京都東久留米市で行われた「第66回コーヒーアワー」で、心臓外科医の今中和人博士が「心臓外科医が語る驚異の人体」というテーマで講演しました。今中博士は心臓外科医として人間の内部に触れる機会があり、心臓や他の部分の驚くべき仕組みを学びました。それによって彼は、人体は徐々に進化してできたのではなく、最初からほぼ完全な機能を持って創造されたという確信を得たそうです。彼は、講演の中で、現在の日本の学校で「進化論」が教えられていることについて遺憾の意を表しました。彼はキリスト教徒として、「進化論」は間違った考え方であり、私たちが存在するすべては全知全能の神によって創造されたものだと堂々と伝えるべきだと強調しました。

近年、「インテリジェントデザイン」という理論があります。この理論は、「宇宙や自然の精巧さや複雑さはただの自然の力だけでは説明できないとして、設計や意図、目的などの要素が関わっていることを科学的に認めよう」というものです。これまでは、進化論に対して、創造論という考え方が上がっていました。しかし、創造論は宗教的な要素が強いため、日本の学校では教えられていません。インテリジェントデザインは、まずは自然界をよく観察して、生命の中に繊細さや高度な構造があることを認めて驚くことから始めます。そして、「こんなに繊細なものは自然だけではできないはずだ。だから、地球上の生命は知恵のある設計者によって作られたに違いない。この繊細さは、知性が関与した証拠だ」と認め、政教分離を重視する教育の場にも、理論を取り入れようとしています。

聖書では、私たち人間が神様を信じないことはとても愚かなことだと言っています。

愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っている。忌まわしい不正を行っている。善を行う者はいない。                                               詩篇 53:1

神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。

彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。                                                             ローマ 1:20,21

この遺伝子は、私たちの体を構成する60兆個を上回る細胞の中のひとつひとつに書かれています。親の世代から代々受け継いできた、この生命のプログラム、そして、父親と母親の遺伝子を特別な組み換えによって、ユニークな存在とする仕組み、ここに神様が、私たちに生きる目的と存在の意味をお与えになっていると思えないでしょうか。

私たちを構成する細胞のひとつひとつに、両親の愛、そして、神様の愛が記されている、あなたは、これほど、貴重な存在なのです。

私たちは、単に無機物のものから、偶然に出来上がったもの、存在に意味がない、価値のないものではないのです。ですから、私たちは、この世界に神様が存在し、その神様が私たちを意図して造られたということを知るべきなのです。なぜなら、私たちが、本当に生きる目的、存在の意図を理解するために必要だからです。

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。                                              創世記 1:27

3.このいのちは人の光であった

1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。

1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

この方イエス様の中に、いつも「いのち」があったと言います。そして、この「いのち」こそが、人の光だと聖書は言うのです。ギリシア語には、「いのち」を表す言葉が2つあります。1つは「プシュケー」という言葉で、生まれてから死ぬまでの、生物学的に生きている状態のことを表す「いのち」です。もう1つは「ゾーエー」という言葉、霊的な命や根源的な命、永遠の命の意味があり、この「いのち」は、肉体が死んでも生き続ける命なのです。そして、この方の「いのち」は、「ゾーエ―」である永遠の命なのです。そして、この「いのち」は、光のように、人々に命を与え、暗闇の中で人の魂を照らすものです。もしこの光がなければ、私たちの人生は真っ暗で、先が見えない状態になります。何も見えず、つまずいたり、ぶつかったり、手探りで生きることになります。

あなたのみことばは私の足のともしび、私の道の光です。   詩篇119:105

一方、光は私たちにとって全てが都合がよいとは限りません。朝早く、窓から差し込む太陽の光を見ることがあると思います。その光の中には、たくさんの埃が見えるのではないでしょうか。私たちは、直ぐに、窓を開けたくなるのです。なぜなら、埃の存在を知ってしまったからです。もし、キリストの光が私たちの心に差し込んだら、私たちは汚れた心に気づいてしまうのです。もし、汚い心に気付いたら、私たちはその汚れた心を洗いたいと願うようになるはずです。

もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。                                                   Ⅰヨハネ 1:7,9

そのようなとき、イエス様の十字架の血を思い出して下さい。イエス様は、十字架上で尊い血潮を流されました。私たちは、神様の光の中で歩んでいるとき、その心の汚れに気付いたのなら、速やかに、イエス様を呼び、私たちの罪をイエス様に告白することです。そうすれば、イエス様は、その罪を赦し、すべての不義からきよめてくださる、心の汚れを洗い清めて下さることを約束しておられます。

神様の祝福をお祈りします。

勧士 高橋堅治