母親を深く憐れむイエス ルカ7:11~17


5月第二週は、母の日です。母の日は、米国のアンナ・ジャービスが、亡き母親を偲び、母親の日曜学校の教師をしていた教会で記念会をもって、白いカーネーションを贈ったことが起源とされています。この第二週の聖書箇所に思いを巡らしていたとき、ルカ7章11節からの「ナインのやもめ」の出来事にたどり着きました。この出来事は、新約聖書でもっとも美しい出来事と言われているお話です。

1.神も仏もあるものか

11それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大勢の群衆も一緒に行った。

12イエスが町の門に近づかれると、見よ、ある母親の一人息子が、死んで担ぎ出されるところであった。その母親はやもめで、その町の人々が大勢、彼女に付き添っていた。

私たちは、あまりにも酷く、不公平で、また、悲しい出来事があった場合に、「神も仏もあるものか」と思うことがあります。神様を信じているクリスチャンであっても、本当に神様がいたらこんなことは起こらないと思うことがあるのではないでしょうか。2000年前のユダヤの国の田舎町ナインでの悲しい出来事は、まさにそのような事でした。

ナインの町を紹介します。ナインの町は、イエス様の育ったナザレ村から南東20キロメートルのところにある、小さな町です。イエス様は弟子たちと共に、ナインの町に行かれたのです。そのとき、町の門のところで、葬式の行列にイエス様らは出会いました。当時の墓地は、町の外にあり、死んだ人を町の外に担ぎ出すところだったのです。死んだ人は、ある母親の一人息子であったのです。

さらに、この母親は「やもめ」であったようです。つまり、母親の彼女は、既に夫を亡くしていました。女手一人で一人息子を育ててきたのです。しかし、その一人息子が死んでしまったというのです。

彼女の心中は、どうだったのでしょう。彼女は、心の支え、経済的てな支えであった夫を亡くしていました。その彼女にとって、夫との間に生まれた一人息子は、とても愛おしい存在のはずです。彼女に残された彼女の生きる希望、支えだった筈です。彼女は、この子がいるから、この子こそが私の人生をかける価値と、何度も思ったことでしょう。息子が成長していくことは、彼女にとって大きな喜びだったはずです。ところが、彼女に、突然、悲しい事が訪れたのです。彼女の一人息子が亡くなってしまったのです。

ですから、葬式の行列には、「その町の人々が大勢、彼女に付き添っていた」といいます。町の人々は、この残された母親の悲しみを知って、彼女に付き添ったのです。彼女に同情し、一緒にいたのです。しかし、彼らに、付き添う以外に、何も出来ることはなく、解決の手立てもありません。葬式の行列の中で、人々は、母親をみて、この世界の無情さを痛感したのだと思います。そのような情況に私たちが遭遇するなら、私たちは、「神も仏もあるものか」という言葉が起こるのではないでしょうか。

2.母親を深く憐れむイエス

13 主はその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と言われた。

14 そして近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった。イエスは言われた。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」

15 すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めた。イエスは彼を母親に返された。

このナインの町の門で、葬式の行列のところに、イエス様が来られました。そのとき、イエス様は、葬式の行列に目を留められたのです。イエス様が目を留めたのは母親でした。その母親は、一人息子の死に深い悲しみを抱いていたからです。そして、「主はその母親を見て深くあわれ」んだのです。

この「深くあわれむ」という言葉は、ギリシア語でスプランクニゾマイと言います。これは、特別な言葉で、「内臓をひきちぎる痛みをもつ」という言葉で、神様だけに用いられる言葉で、神様自身の内から湧き出る、とても強い同情の心を表すものです。まさに、イエス様が十字架上での苦しみに表される、私たちをあわれむ心なのです。

この言葉は、強盗に襲われて助けを必要としている人を見つけた善きサマリヤ人の感情、放蕩に明け暮れ、その後、父の元に戻ってきた息子を見たときの父親の感情を表すのにも使われています。

善きサマリヤ人のたとえ:

ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った(スプランクニゾマイ)。そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』  

ルカ10:33-35

放蕩息子のたとえ:

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い(スプランクニゾマイ)、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。 

ルカ15:20-23

神様がこの深いあわれみの感情を抱いたとき、神様はすぐに愛の行動を起こされます。神であり主であるイエス様は、その母親の悲しみを理解し、深く同情しました。そして、ただちに、「もう、泣かなくてもよい」と励ましの言葉をかけました。息子の亡骸に近づき、その棺をつかみました。棺を担いでいた人々はその場に立ち止まったとき、イエス様は「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言いました。そのお言葉通りに、死んでいた若者は目を覚まし、話し始めました。それから、イエス様は、生き返った息子を母親に渡したのです。彼女は驚きと喜びで満たされたことでしょう。絶望は、大きな喜びへと変わったのです。

私たちが、人生で経験する悲しみは避けることはできません。そして、この世界はあまりに無情で、私たちは「神も仏もあるものか」と思うかもしれません。しかし、イエス様が、母親を見て深くあわれんだように、私たちの主は私たちの悲しみを理解し、同情されるお方です。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 

へブル4:15-16

なぜならば、イエス様は、いまも、私たちに十字架上の主をお示し下さり、深いあわれみ、スプランクニゾマイの感情を表して下さるのです。ユダヤ人は、神様が2つの御座をお持ちになると言うようです。それは、裁きの御座と、恵みの御座です。裁きの御座に座られた神様の前では、私たちは私たちの人生のすべての申し開きを述べ、裁きを受けるしかありません。しかし、恵みの御座は、イエス・キリストによるあわれみの御座です。恵みの御座に座られた神様は、この母親に対するように、私たちの弱さに同情されるのです。

悲しいとき、苦しいとき、辛いとき、私たちは「イエス様」と呼び、イエス様にすがるのです。それが、恵みの御座に近づくことなのですから。私たちを深くあわれむ主は、私たちに、あわれみと恵みを与え、折にかなった助けを与えて下さる筈です。

3.神が顧みて下さった

16 人々はみな恐れを抱き、「偉大な預言者が私たちのうちに現れた」とか、「神がご自分の民を顧みてくださった」と言って、神をあがめた。

17 イエスについてのこの話は、ユダヤ全土と周辺の地域一帯に広まった。

その場にいた人々、すなわち、イエス様の弟子たちと群衆、そして葬式の行列の人々は、イエス様の奇跡を目撃しました。彼らは「偉大な預言者が私たちのうちに現れた」とか、「神がご自分の民を顧みてくださった」と言って、神様をあがめたのです。神様がこの世界におられ、顧みて下さることを実感したのです。そして、イエス様の深いあわれみと、そのあわれみから生まれた愛の奇跡は、悲しみに暮れた人々の心を喜びに変えました。その喜びは、「ユダヤ全土と周辺の地域一帯に広まった」ほどです。

この二千年間、イエス様が十字架にかかり死んだこと、三日目に復活されたことが、語り告げられ、そして、全世界に伝えられました。私たちも、イエス様に出会いました。そして、イエス様は、私たちの悲しみを喜びに変えられたのです。この喜びを、私たちは隣人に語り、神様を讃えるとき、この御言葉のように、神様の恵みは、私たちの周囲に広がっていくのです。主を讃えましょう。

勧士 高橋堅治