信じる者になりなさい ヨハネ20:24~29


先々週のイースターでは、Ⅰコリント15章のパウロの手紙から、イエス様の復活について学びました。今回は、イエス様が復活された当日、弟子たちと共にいなかったために、イエス様にお会いすることが出来なかったトマスの事柄から、イエス様の復活について学びましょう。

1.疑い深いトマス

20:24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。

20:25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。

ヨーロッパで、トマスを「疑い深いトマス」と呼ばれています。イエス様の仲間の一人に、デドモというトマスがいました。イエス様が死んだ後、イエス様が復活して弟子たちの前に現れた時、トマスだけが一緒にいなかったようです。

トマスという人物については、聖書に書かれている箇所が多くないので、正確にどんな人だったかは分かりません。でも、あえて聖書の中に出てくるトマスの人物像について考えてみます。最初にトマスが登場するのは、ヨハネの福音書の11章です。

イエス様は、父なる神様のことを「父」と呼んでいました。でも、そのことがユダヤ人たちから反感を買い、イエス様は命を狙われて南北に横断するヨルダン川の東側に逃げました。あるとき、エルサレムの近郊、ベタニア村のマルタとマリアの兄弟ラザロが死んだことをイエス様は知りました。イエス様がラザロの元に向かおうとしたとき、トマスはイエス様のためなら死を覚悟して行くと言いました。イエス様の弟子たちは、イエス様がローマ帝国の支配からイスラエルを解放し、神の国を建て上げる救い主メシアであると信じていました。トマスも同様に、イエス様に期待し、一緒に困難を乗り切ろうとしていたのでしょう。

ヨハネ11:14 そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。

11:15 あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」

11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」

次に、ヨハネの福音書14章に、イエス様が「どこに行くのか、その道をあなたがたは知っています」と言ったとき、トマスはイエス様が何を言っているのか理解できませんでした。そこで、素直に「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。」と答えました。トマスは、自分でも分からないことははっきりと答える人であり、とても率直な性格だったことが分かります。

ヨハネ14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

14:4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」

14:5 トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」

14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

その後、イエス様はゲッセマネの園という場所で祭司長や律法学者らの手で捕まってしまいました。弟子たちは、恐くなって、イエス様を残して、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまいました。なぜなら、彼らは、イエス様がローマ帝国の支配から解放し、神の王国を建てることを期待していました。でも、イエス様が捕まってしまったことで、弟子たちの期待は外れたものになったと考えたようです。

ルカ24:21 私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。

トマス自身も、イスラエルが解放されるというメシアの到来を信じていたと思います。そして、彼は、イエス様こそがそのメシアであると信じていました。しかし、イエス様は、ローマ帝国の総督ピラトによって裁かれ、十字架にかけられ、最後は苦しい死を遂げたのです。トマスは、イエス様を3年間も師として慕い、信仰心が厚かったのですが、イエス様が十字架にかかって死んでしまったことによって、トマスは失望してしまいました。そのため、彼は、イエス様の死後、他の弟子たちと行動を共にすることはなかったのでしょう。

ところが、イエス様が復活された日の夜、弟子たちの前に復活されたイエス様が現れたのです。

ルカ24:37 彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。

ヨハネ20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」

20:20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。

弟子たちの言うことには、「イエス様が生き返った」というではありませんか。しかし、トマスはそれを信じようとしませんでした。彼は「そんなはずがない。イエス様は十字架で死んだし、人が生き返るなんて嘘だ」と心を閉ざしたのです。もちろん、トマスも弟子たちと同じように信じたいと思ったかもしれません。しかし、彼には、イエス様が死んでしまった現実の失望していたのです。だから、弟子たちに対して、彼は「私は、釘で打たれた跡を見たり、脇腹に手を入れて確かめたりしなければ、信じません」と言ったのです。

キリスト教の教会に十字架が掲げられているように、キリスト教にとって、十字架はとても大切なものです。なぜなら、十字架上でイエス様が死んだことにより、私たちの罪が赦されたからです。しかし、クリスチャンの中には、トマスのように、イエス様が死んだことだけを信じている人もいるのではないでしょうか。

聖書のⅠコリント15:17,18には、

15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。

15:18 そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。

と記され、キリストが復活しなければ、私たちは罪の中にいるのだと言います。しかし、キリストは十字架で死にましたが復活されたのです。キリストの死は、私たちを罪から救う力があるのです。

2.信じる者になりなさい

20:26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。

20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

20:28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」

八日後の夜の出来事に、「トマスも彼ら、弟子たちと一緒にいた」と書かれています。強い口調で、弟子たちに「その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言ったトマスが、なぜ、弟子たちと一緒にいたのでしょう。

恐らく、この一週間のうちに、トマスの心に変化が生じたのでしょう。トマスは、イエス様と3年余りも一緒に暮らし、いつも、イエス様のお話しに熱心に耳を傾けていたはずです。ですから、イエス様が何度も預言された、十字架で殺され、三日目に復活することを聞いていました。

マタイ16:21 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。

17:22 彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。「人の子は、人々の手に渡されようとしています。

17:23 人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると彼らはたいへん悲しんだ。

ルカ18:33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」

18:34 弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。

当時、弟子たちは、イエス様の預言を理解できなかったのですが、「主を見た」と言う言葉に、トマスの心に小さな信仰が芽生えたのです。彼は、その小さな信仰により、他の弟子たちと一緒に、閉じた部屋にいたのです。そこに、イエス様が訪れられました。実に、このとき、イエス様は、トマスのために訪れたのです。イエス様は、すぐにトマスに言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と。

そして、イエス様は、トマスが言った「その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、そのわき腹に手を入れてみなければ、絶対に信じません」という言葉を知っておられたように、トマスにお答えになりました。彼の心は、固く閉じられた部屋のように、固く閉じられていたのです。しかし、イエス様は、彼の心の内を知り、彼の傷をいやすために、その痛々しい傷ついた手と脇腹を彼に見せ、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われたのです。

トマスは、「私の主、私の神よ。」とだけ答えることができました。

3.見ないで信じる人たちは幸い

20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

29節には、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」とイエス様は答えています。これは、トマスの告白を軽んじているのではありません。イエス様を実際に見ないで信じる人たち(私たち)への祝福です。イエス様は、40日の間、弟子たちの前にお姿を現された後、天国に昇られました。その後は、実際のイエス様のお姿を見ることはできません。パウロですら、イエス様との出会いは、神の栄光の光を通して、お声を聞いただけでしたから。ですから、イエス様は、「見ないで信じる人たちは幸いです」と、私たちを励ましておられるのです。これは、イエス様のお姿を実際に見ることが出来ないけれど、イエス様を信じて愛してやまない私たちへのイエス様のメッセージなのです。

Ⅰペテロ1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。

1:9 あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです

この聖書の言葉の通り、これまでの2000年間、多くの人々が、イエス様を見たことはないけれども愛し、信じ、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍る体験をしてきました。それは、信仰によるたましいの救いを得ているからなのです。

さて、隣町の坂城に、瞬きの詩人と呼ばれる水野源三さんがいました。源三さんは、小学4年生の時、赤痢にかかり、脳膜炎のため、高熱にうなされる日々が続きました。やがて熱が下がりましたが、脳性麻痺をおこし、話すことも書くこともできない、それまでの身体の自由を全く奪われた少年となってしまいました。ある日、偶然家を訪れた牧師が、一冊の聖書を下さったのです。その時から、源三さんは、母親の助けを借りて、聖書を読みました。絶望していた彼の閉ざされた心に、驚きと、喜びと、感謝がいっぱいになっていきました。「悩み苦しんでいる人々を、愛してくださる神様がいる。人間の罪を取り除き、神の子とするために、神が人となり、この世に来てくださり、私のために十字架上で死んで下さった。神様、ありがとうございます」という思いでした。彼は、18歳となった頃から、この感謝を詩に書き始めたのです。

源三さんは次のような詩を書いています。

戸を硬く閉め切っていた、部屋に入ってこられた。

キリストにお会いしてから、キリストにお会いしてから

その両手と、わき腹に、傷跡が痛々しい

キリストにお会いしてから、私の心が変わった

「信じない者にならずに、信じなさい」と言われた

キリストにお会いしてから、私の心が変わった、お会いしてから。

源三さんは、自分の心の戸を硬く閉め切り、誰も入れなかった心に、キリストが入ってこられたこと、キリストは、両手、脇腹の傷痕が痛々しい十字架のキリストであった。彼はキリストにお会いして、自分の心が大きく変わったことを証ししています。

キリストは、弟子たちのように、また、トマスのように、そして、水野源三さんのように、心の戸を硬く閉め切っていたあなたの心の中に入って来られました。キリストは十字架で傷ついたご自身を表し、「この傷はあなたを愛するために傷ついたのだ、あなたは、私の傷に触れることができ、その傷によってあなたの心は癒されるのです。だから、私を受け入れて、信じてほしい」と言われます。

私たちは、このようなキリストに、どうお返事したらよいのでしょうか。

勧士 高橋堅治