イエス・キリストの復活 Ⅰコリント15:1-20


先週は、イエス様が私に代わって、そしてあなたに代わって十字架に架かったこと、イエス様の十字架の救いは、どのような人々にも及ぶことを教えて頂きました。

今日はイースター、復活祭です。このイースターという言葉は、ドイツ語で “Osten” 、東から昇る太陽のように春が来ることを表し、または、古い英語では春を “Ēastre” とよび、春分を祝う祭りが行われたといい、そこから、イエス様の復活を祝う祭りをイースターと呼ぶようになったと言われています。

ですから、今日は、イエス様の復活について一緒に学びます。

さて、教会では、日曜日を「聖日」または「主の日」と呼びます。それは、イエス様の復活した特別な日だからです。イエス様は金曜日に十字架にかかり、日曜日の朝に復活されました。そこから、この日曜日にイエス様を礼拝するようになったのです。

先ほど、読んで頂いた聖書のところは、使徒パウロがコリント教会に送った最初の手紙です。ここでパウロは、死者の復活はありえないというクリスチャンたちに、イエス様の復活を明らかにして、そして、キリストにあって亡くなった人も復活することを教えています。ですから、今日は、このところから、パウロが明らかにしたイエス様の復活について学びます。

まず、イエス・キリストの福音の中でとても大切なイエス様の復活について、弟子たちの証言から学びます。次に、使徒パウロが復活のイエス様に出会うことで得た恵みについて学びます。そして最後に、では、私たちにとって、イエス様の復活とはどのようなものなのかを考えます。

1.イエス・キリストの福音

15:1 兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。

15:2 私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。

15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

15:4 また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、

15:5 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。

15:7 その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。

15:8 そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。

使徒パウロがコリント教会に手紙を書いたのは、西暦56年頃、イエス様の復活を書かいた最も古い記録です。この書簡によれば、当初、教会でイエス様の福音が伝えられており、福音書がない時にも、彼らは福音を基に歩んでいたのです。

2節で福音によって救われることを明らかにし、3節から福音の内容を説明しています。福音とは、「キリストは、私たちの罪のために死んで葬られ、三日目によみがえられた」ことです。これは旧約聖書に書かれた以下の預言によります。

私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。   イザヤ 53:6

主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださる。     ホセア 6:2

そして、5節からパウロによるイエス様の復活の証言が始まります。

最初に復活のイエス様が現れたのは、使徒ペテロでした(ケファ:シモン・ペテロのアラム語名)。

「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していた。 ルカ24:34

それから十二弟子(実際にはイスカリオテのユダを除く11人)に現れました。

その後イエスは、十一人が食卓に着いているところに現れ、彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった。 マルコ 16:14

それから、「五百人以上の兄弟たちに同時に現れ」たのです。あんずホールの座席数は760人、その7割に相当します。マタイの福音書の最後の部分、ガリラヤの山で弟子たちが集まった出来事と言われています。500人もいるのですから、疑う人もいました。

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。 マタイ28:16-17

イエス様はヤコブにも現れました。ヤコブはイエス様の弟になります。聖書にヤコブとの出会いはありません。更に、イエス様は他の使徒たち、イエス様を信じ従う人たちに、ご自身を現したのです。

最後に復活のイエス様はパウロに現れました。パウロには、他の弟子たちとは違う現れ方をしました。イエス様が天に昇ったからです。

サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 使徒9:3-5

パウロは、クリスチャンたちを迫害する人でした。信者たちを捕まえるためにダマスコに向かう途中、まばゆい光の中でイエス様に出会いました。パウロにとって驚くべき出来事でした。

パウロは、人々、パウロ自身の証言をもとに、イエス様が復活したことを証ししました。私たちにも、パウロと同じように、復活のイエス様に出会ったはずです。

イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。 へブル13:8

イエス様は、今日も生きておられ、私たちと共におられるからです。

2.神の恵み

15:9 私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。

15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。

15:11 とにかく、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。

パウロは、以前は神の教会を迫害した人だったことを証ししています。

このパウロは、どのような人だったか:

生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。 ピリピ 3:5-6

私は、キリキアのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しく教育を受け  使徒22:3

更に、彼は、大祭司にも顔が利く人で、指導者としても将来を確約された人物だったのです。

ところが、復活のイエス様に出会ったパウロは変わりました。彼は、それまで自分が迫害していたクリスチャンになったのです。彼は、今までの身分、地位を追われたのです。しかし、パウロは、イエス様に徹底的に仕えました。

ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。 Ⅱコリント11:24-27

このような労苦を経験しても、パウロにとって、イエス様は大切でした。

しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。 ピリピ3:7

更に、復活のイエス様に出会った人々への神の恵みをみてみましょう。

復活前、イエス様にどこまでも従うと言ったペテロは、イエス様が捕らえられたとき、3度、イエス様を知らないと言いました。

ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。 マタイ26:75

ペテロ以上に、他の弟子たちはどうしようもありませんでした。

皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった。 マルコ14:50

彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。 マルコ14:52

イエス様が捕まった直後、弟子たちは、捕まるのが恐ろしくってたまらなかったようです。

ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。 ヨハネ20:19

ところが、復活のイエス様に出会って、ペテロを含む弟子たちは変わりました。

ペテロとヨハネは彼らに答えた。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」 使徒 4:19-20

ペテロとヨハネが、エルサレムで捕まり、サンヘドリンと呼ばれるユダヤ議会でこのように証言したほどです。どうして、彼らはここまで変わったのでしょうか。復活のイエス様に出会ったからです。

イエス様の弟ヤコブはどうだったでしょう。イエス様と同じ家庭で一緒に育った兄弟たちは、イエス様をキリストだと信じませんでした(ヨハネ7:5)。イエス様が福音の宣教を始めたとき、兄弟たちは、イエス様が、気が狂ったと思い、連れ戻そうとしたほどです。

しかし、その後、ヤコブはエルサレム教会のリーダーになり、自分をキリストのしもべと言うようになりました(ヤコブ1:1)。

なぜ、ヤコブは、自らイエス様のしもべと言ったのでしょうか。復活のイエス様に出会ったからです。

復活のイエス様に出会った人たちは、その前と後で大きく変わりました。彼らの信仰によって築かれた教会は全世界に広がりました。

私たちも、パウロのように、たとえパウロと同じではなくても、私たちの人生のどこかで、復活のイエス様に出会ったはずです。イエス様の救いを体験し、イエス様と共に歩み出したのです。

ですから、私も、あなたも、イエス様の復活の証人なのです。

3.イエス・キリストの復活

15:12 ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。

15:13 もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。

15:14 そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。

15:15 私たちは神についての偽証人ということにさえなります。なぜなら、かりに死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、私たちは神がキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。

15:16 もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。

15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。

15:18 そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。

15:19 もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。

15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

コリントの教会には、イエス様の復活は信じるけど、死んだ人たちが復活することはないと思っていた人がいました。あなたは、死者の復活があると思いますか?

復活とはどのようなことでしょうか。復活は、単に死から生き返ることではないのです。

イエス様が生きている間に、何人かの人がイエス様の力で生き返りました。

ヤイロの娘、ナインの若者、ラザロは生き返りましたが、再び、死にました。イエス様の復活とは違うのです。

子どもの手を取って言われた。「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。 マルコ5:41-42

イエスは言われた。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めた。ルカ7:14-15

イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。 ヨハネ11:43-44

聖書に、復活について、次のように記されています。

  • キリストの栄光に輝くからだに変えられること、
  • 天から与えられる住まいを着ること、
  • 白い服、純潔と完全性のしるしを与えられること
  • 第一の復活にあずかり、決して死なない永遠のいのちを得る

パウロは、更に、復活のからだについても書いています。

  • 朽ちないもの、
  • 栄光あるもの、
  • 力あるもの、
  • 御霊に属するからだ、

すなわち、復活のからだは、「天国で神様と共に生きるために必要なからだ」です。

そして、パウロは死者の復活はないという人々に言いました。

もし、復活がないなら、イエス様の復活もない。

イエス様の復活がないなら、私たちの信じることは無意味。

イエス様が死んだままなら、私たちの罪は許されていない。

すなわち、私たちは、今も罪の中にいる。

そうであれば、イエス様を信じる私たちは、世界で一番可哀そう人たちだというのです。

しかし、聖書は、イエス様が復活したことを証ししています。そして、世界中の教会がイエス様の復活を証ししています。更に、私たちの人生が、イエス様の復活を証ししているのです。

私はかつて、神様が私の人生に関わることを願ったことがあります。私の信仰の中で、イエス様が共におられるということが今一つ、分からないときがありました。私は、使徒パウロがダマスコの途上でイエス様に出会ったときの証しを通して、それまで、イエス様が私と一緒に歩んでこられた、いつも、私のそばにいらっしゃったことを知りました。もし、イエス様が共に歩んでいることが分からないとしても、是非、心鎮めて、語り掛ける小さな声に耳を傾けてください。そうすれば、復活の主が、共におられることに気付くはずです。

イエス様の弟子たち、兄弟たち、そしてパウロが、復活のイエス様に出会って、彼らの人生が大きく変わったように、私たち一人一人にも復活したイエス様が出会ってくださったために、私たちの人生はそこから変わったはずです。そして、イエス様なしで、生きることが出来なくなりました。

やがて、イエス様は、もう一度、再臨の主として、この世界に来られます。

そのとき、私たちにも、復活の主と同じ、栄光のからだを与えて下さると、聖書は約束しています。

主の復活の日、イースターをお祝いしましょう。

勧士 高橋堅治