主の再臨に備えて(十人の娘たちのたとえ) マタイ 25:1~13


前回、ぶどう園の主人のたとえを学びました。イエス様は、先の者が後に、後の者が先になる、福音を受け入れた外国人が救われる一方で、神の選民イスラエルの人々は、福音を受け入れなかったため、救われることができない状況にあったことを表しました。イスラエルの人々は見捨てられたのではありません。神様は全人類を救う計画を立て、私たち外国人たちが救われた後に、イスラエルの人々も救われることを約束しています。

マタイの福音書25章には、イエス様の3つのたとえがあります。13節までが十人の娘たちのたとえ、14から30節までがタラントのたとえ、そして31節から46節まで羊と山羊のたとえです。これらのたとえは、終末に関わる再臨、最後の審判について語られています。今回は、最初の十人の娘たちのたとえからイエス様の再臨について学びます。

1.愚かな娘たちと賢い娘たち(1~4節)

1 そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます。

2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。

3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。

4 賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。

1節に、イエス様は、天の御国を、ともしびを持って花婿を迎えに出る十人の娘たちにたとえました。

当時のイスラエルの結婚の習慣によると、まず、親が、自分の子供の結婚相手(いいなづけ)を探します。年ごろになったら、二人を婚約させます。1年後に結婚式を行い、二人の結婚生活が始まります。結婚式当日の夜、花婿は家で家族や友人たちから祝福を受けた後、花嫁を迎えに行きます。祝福が長引くと夜遅くに出発することもあったようです。

そのころ、花嫁の家では、花婿が来るのを、仕度を整えた花嫁が待ちます。まず、花嫁の友達たちが花婿を迎え、更に、花嫁の家から、花婿と花嫁を花婿の家まで送ります。

この花嫁の友達たちは、未婚の女性、人数が10人と定まっていました。暗い夜道を歩くために、娘たちはそれぞれ手にランプを持っていました。このランプは、急須のような形をして、注ぎ口に芯を入れたランプと思われます。また、長時間灯し続けるために、油壷も持ち合わせました。

10人の娘たちは、花婿の家に着いたら、一緒に結婚式を祝うための宴会に参加しました。

2節に、「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった」と書かれています。何が愚かで、何が賢かったのでしょうか?3節と4節によれば、賢い娘たちは、油を持っており、愚かな娘たちは持っていなかったのです。「愚か」という言葉は、浅はかで思慮に欠けるという意味です。

このたとえでは、油を持っていなかった者が愚かで、持っていた者が賢いと評価されています。油の有り無しが重要であり、愚か・賢いを決めるのです。

このたとえで、花婿は再臨のイエス様、花嫁は教会、十人の娘たちはクリスチャンたちを表します。結婚式の祝宴は、天国での祝宴で、そこに入ることは天国に受け入れられることを表します。

クリスチャンが持つ「ともしび」とは?「油」とは何でしょうか?

2.花婿を待つ姿勢(5~9節)

5 花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。

6 ところが夜中になって、『さあ、花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。

7 そこで娘たちはみな起きて、自分のともしびを整えた。

8 愚かな娘たちは賢い娘たちに言った。『私たちのともしびが消えそうなので、あなたがたの油を分けてください。』

9 しかし、賢い娘たちは答えた。『いいえ、分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って自分の分を買ってください。』

花婿は長時間、家族や友人たちの祝福を受けたので、家を出発するのが遅くなってしまいました。花婿が来るのが遅いため、十人の娘たちは全員、寝てしまいました花婿の来るのが遅く、夜も遅くなったので、誰も目を覚まして待っていることが出来なかったのです。その間、彼女らが持つともしびの火は燃え続けていました。

深夜になって、ようやく、花婿がやってきたぞ、という叫び声を聞きました。すると、十人の娘たちは、急いで自分たちのともしびを整えました。ともしびは、長時間、燃え続けていたので、ともしびの芯が黒ずんでいました。そこで、芯の黒い部分を取り除きました。油も減ったので、油を足して、ともしびを整えたのです。

ところが、油を用意していなかった娘たちは、自分のともしびが消えそうになっていることに気付きましたが、追加する油がありません。そこで、油を用意してきた娘たちに「私たちのともしびが消えそうなので、あなたがたの油を分けてください」と頼みました。しかし、油を用意してきた娘たちは、「いいえ、分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って自分の分を買ってください。」と答えたというのです。

さて、この物語をイエス様の再臨に当てはめてみましょう。聖書には、イエス様は、私たちの罪のために十字架で死に、三日目に復活し、天国に帰られたとあります。そして、再び、この世界に戻って来られると書かれています。再び戻って来られることを、再臨と呼び、その時が来ると、この世界は終わりを迎え、神様の救いが完成するといわれています。

花婿が遅くなったことは、イエス様の再臨が遅くなることを表しています。実際には、イエス様の再臨の時期は誰も知らないのです。

マタイ24:36 ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

ただ、私たちはイエス様が再臨することを知っていますから、まだかまだかとはやる気持ちになるのです。イエス様が遅れる理由もあります。それは、私たちに悔い改める機会を与えるためです。救われていない人々が永遠に滅びないように、イエス様は忍耐しておられるのです。

Ⅱペテロ3:9 主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

イエス様の再臨を待つ私たちは、待ちきれずに眠ってしまいます。ゲッセマネでイエス様が祈っている間に、弟子たちが眠ってしまったように、私たちは眠らずに待ち続けることが出来ないのです。でも、もし、「さあ、花婿だ。迎えに出なさい」と呼ばれたら、目を覚まして、イエス様に会いに行くのです。再臨の合図があります。

マタイ24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。

そして、再臨の合図を聞いたら、目を覚まして行動を起こすのです。それは、ともしびを整えることです。

ともしびは、「信仰」を表します。それは、ともしびのように、周囲を明るく照らす役目をもっているからです。十人の娘たちは、全員がともしびを持っていました。でも、長い間、ともしびを灯し続けて、ランプの中に油が無くなってしまいました。ともしびがとも続けるには、燃料である油は欠かせません。同様に、私たちが信仰を持続するには必要なものがあります。それは、イエス様から頂く栄養分です。言い方を変えれば、それは「恵み」です。そして、栄養分(恵み)を頂くには、イエス様につながっていなければなりません。

さて、私たちの信仰に、日々の喜びがあるでしょうか。礼拝や御言葉を学ぶ機会はあるけど、日々の生活の中で、イエス様と交わり、御言葉による慰めと賛美はあるでしょうか。もし、無ければ、魂を抜いた外観上のクリスチャンに陥ってしまったのかもしれません。

少し厳しい質問しますが、もし、あなたが心から望んだら、イエス様の再臨が直ぐにでも来るとしたら、あなたは、再臨を心から願うでしょうか。それは、イエス様の再臨は、私たちの日常生活を大きく変える出来事だからです。実際、再臨のような事が起きれば、私たちの日常生活は一転します。それが終末だからです。例えば、

Ⅰテサロニケ人5:3 人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。

とあります。実際に再臨が起こったら、全人類にとって、重大事です。

では、どう再臨を待ち望む心を得るのでしょうか。

私たちの毎日食べる食糧が神様からの恵みだと考えると、驚かされます。全世界で、毎年27億トンもの穀物が作られています。1日あたり、740万トンもの量、麦で換算すると、毎日、東京ドーム10杯分にもなる量を生産していることになります。神様は、昔、イスラエルの民を天からのマナで養いましたが、今でも、私たちを沢山の食べ物で養っておられるのです。ですから、「我らの日ごとの糧を今日も与え給え」と祈るとき、人類が生まれて後、ずっと、与え続けられた恵みです。このことに、驚きと感謝が生じるはずです。よく見ると、私たちの生活の至る所に、神様の恵みが満ちています。

更に、私たちは、自分自身が弱くて罪深いことを知るのではないでしょうか。

パウロは、「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ロマ7:24)と言いました。この弱い、死ぬべきからだを、イエス様は十字架で救って下さったのです。そして、イエス様は再臨し、私たちの救いは完成します。

そして、「恵み」は、9節のように、個々のクリスチャンにとって「分けてあげるにはとても足らな」く感じるのです。ですから、神様から頂いた恵みは、それぞれのクリスチャンが直接受け取り、しっかり持っていなければなりません。だから、イエス様とのつながりが重要なのです。

ヨハネ15:4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

15:5わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。 

3.花婿の到来(10~13節)

10 そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた。

11 その後で残りの娘たちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。

12 しかし、主人は答えた。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません。』

13 ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。

油を持っていない娘たちは、油を買いに行きましたが、遅くなって間に合わなかったようです。この娘たちが出かけている間に、花婿が来てしまいました。花婿と花嫁は、油を持っていた娘たちに導かれて、花婿の家に向かいました。そして、この娘たちだけが、花婿たちと一緒に婚礼の祝宴に参加できたのです。

遅れてきた娘たちは、婚礼の祝宴に入れませんでした。主人に嘆願しても、戸を開けてもらえません。主人は「あなたがたを知りません」と答えただけでした。

イエス様の再臨の時、み使いによって、信仰を持つ人々を集めます。彼らは、イエス様と親しい関係にあり、天国に入ることができるのです。しかし、油が無くなり、ともしびである信仰が消えた人々を、イエス様は知らないと言い、天国に入ることができないと言います。

以上のように、イエス様は再臨の備えを勧めています。それは、私たちが、信仰を持ち、その信仰を持続するために、イエス様と繋がり、恵みを頂くことです。

ただ、再臨はいつ起こるのか、まだ少し先になるかもしれません。だから、私たちは、もう一つの終末についても考える必要があります。それは、私たち自身が世を去るときががあることです。再臨がしばらく来ないとしても、私たちは、いずれ、この世での死を経験します。もし、明日、死ぬなら、どうなるのでしょうか。聖書には、イエス様の再臨に会わずに亡くなった人々のことについても書かれています。

Ⅰテサロニケ4:16 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、

4:17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

イエス様の再臨のとき、亡くなったクリスチャンたちは復活し、イエス様と空中で出会い(携挙)、天国に入ります。

ところで、もし、私たちが死ぬとき、キリストのものではなかったら、どうなるのでしょうか。聖書のヨハネの黙示録20章に次のように書かれています。

黙示録20:12 また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。

20:13 海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。

20:14 それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。

20:15 いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

このように、聖書によれば、死んだ人々は、生前の行いに基づいて裁かれ、いのちの書に記されていない人々は、火の池と呼ばれる場所に投げ込まれるというのです。

さて、あなたの名前は、いのちの書に記されていますか。

ですから、イエス様の再臨で重要な事柄、すなわち、信仰(ともしび)と、信仰を持続するために、イエス様につながり、恵み(油)を頂くことは、再臨に出会う人だけでなく、やがて死を迎えようとしている全ての人に関係するのです。すなわち、今日の日常の生き方が、私たちの永遠を決めると言っても過言ではありません。私たちは、イエス様の私たちに対するご愛と忍耐をもう一度、きちんと、知っておく必要があります。

Ⅱペテロ 3:9 主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

3:15 また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。

勧士 高橋堅治