1.労働者たちの雇用(1~7節)
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
20:2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。
20:3 彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。
20:4 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』
20:5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』
イエス様の話されるたとえには、必ず背景があります。その背景を知ることは、イエス様が何を伝えたいのかを深く理解することができます。
この「ぶどう園の主人のたとえ」は、前章にあるマタイの福音書19:16から始まる別の物語がきっかけです。
19:16 すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」
この物語は、ある役人であり金持ちの人が、イエス様に永遠のいのちを手に入れるためには何の良いことをすべきか尋ねたことから始まります。そして、この人の話は、マタイだけでなく、マルコやルカの福音書にも記されており、私たちが永遠のいのちを得るためにどうすればよいのかを自分自身に問うものです。
イエス様は彼に「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい」と答えました(マタイ19:21)。彼は、イエス様に従うことが求められましたが、受け入れることができず、失望して、去ったとあります。
そのとき、弟子のペテロは、 「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」(19:27)と述べ、自分たちはあの金持ちの人とは異なり、全てを捨てて、イエス様に従ったので、何かの報酬を頂けるものと思ったのでしょう。イエス様は、彼に永遠のいのちを約束されました。そして、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります」と言わたのです(マタイ19:30)。どのような意味をもつのでしょうか。
ここで学ぶ「ぶどう園の主人のたとえ」の最後にも、「後の者が先になり、先の者が後になります」と、同様に話されたとあります。このたとえに、その鍵があります。
たとえでは、「自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人」が神様です。神様がぶどう園の主人であり、労働者を雇おうとしています。
イスラエルの地域では、古くからぶどうを栽培していて、そのぶどうを使ってぶどう酒を作っています。ぶどう酒を作るにあたって、大切なことはぶどうの収穫時期を見極めることだそうです。良いぶどう酒を作るには、ぶどうの実の糖度がとても重要で、収穫が早すぎると酸っぱく、遅すぎると甘ったるくなってしまいます。だから、ぶどう園の主人たちは、ぶどうの成熟度をチェックし、適切なタイミングで一度に収穫します。ですから、この収穫期間中、ぶどう園の主人たちは、とても多くの人手を必要としているのです。
このぶどう園の主人は朝早く出かけて、その日の仕事をする労働者を雇わなければなりませんでした。ユダヤでは日の出と共に朝が始まるので、この主人はおそらく朝6時頃に市場に出かけました。そこで、1日1デナリの約束で労働者と雇用契約を結び、労働者たちを自分のぶどう園に送りました。1デナリは当時の通貨で、1日働いてもらえるお金の単位です。ローマ軍の日当は2/3デナリ程度、ホテルの宿泊費は1/20デナリ程度と言われているので、日雇い労働者にとっては満足できる賃金だったと言えます。
ところが、主人は、まだ、人手が足りないと知り、その後も、労働者を探すために市場に出かけました。午前9時に、何もしていない人たちがいたので、自分のぶどう園で働くように勧めました。主人は、彼らに「相当の賃金を払う」とだけ伝え、それ以上の金額の交渉はしていませんでした。その後も、正午、午後3時に労働者を雇いました。ユダヤでは日が沈む午後6時に仕事が終わります。残り1時間、わずかの時間ですが、人手が必要だったため、午後5時に働く人たちを雇いました。
それぞれの労働時間を見てみますと、もっとも長い人が12時間、そして9時間、6時間、3時間と短くなり、もっとも短い人はたったの1時間です。朝6時に雇われた人は、12時間という長い時間、ぶどう園という環境の過酷な場所で働き続けるために、相当の覚悟が必要です。事前に主人と1デナリという約束をしていますから、安心して働くことができたと思います。一方、それよりも短い労働時間の人々は、相当な賃金と言われ、1デナリは期待できずとも、賃金を貰えることがありがたいと考えていたのです。労働者たちはそれぞれの考えの中、約束された日当や相当な賃金をもらうため、主人のぶどう園で働いたと言えましょう。
ここで、イエス様にペテロが尋ねた言葉を振り返ります。
「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」19:27
「すべてを捨てて、あなたに従ってき」たという言葉は、この朝6時から働いた人と重ならないでしょうか?
2.神の国の賃金(8~12節)
20:8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。
20:10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。
20:11 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。
20:12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』
夕方になって、ぶどう園の主人が労働者たちに賃金を支払うことになりました。主人は最後に来た労働者から、最初に来た労働者に順番に支払うように監督に指示しました。最後に来た者が最初に支払われるのは常識では考えられないことです。
そして、もう一つ注目すべきことは、9節の「五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った」ということです。たった1時間しか働いていない人が、最初に1デナリの報酬を受け取ったのです。それを見ていた先に来た人たちは、主人の太っ腹に感心し、自分たちはもっと多く貰えると期待しました。しかし、実際には、彼らと同じ1デナリしか貰えず、不満を持つ人がいました。
20:12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』
朝6時から働いた人たちの期待は、ペテロがイエス様に尋ねた言葉に似ています。「私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」(19:27)。ペテロもより多くのものを期待していたのです。しかし、このたとえの通り、イエス様の答えは、全員に与えられる同じ報酬なのです。これが、神様の国の賃金の与え方です。そして、その報酬は1デナリです。しかし、単なる1デナリではありません。何を意味するかと言えば、実に、この1デナリの報酬こそ、金持ちの人がイエス様に聞いた、「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」(19:16)と、人間が最も欲しいと願う、永遠に生きることを保証する、朽ちることのない永遠の命そのものです。神の国の賃金、それは永遠のいのちなのです。
3.後の者が先に、先の者が後に(13~16節)
20:13 しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。
20:14 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。
20:15 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』
20:16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」
ぶどう園の主人は、全ての労働者に同じ賃金を支払うことを望みました。その結果、先に来た人たちは、長時間働いたにもかかわらず、後から来た人と同じ賃金であったので、不満を持ちました。しかし、主人は「私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか」と、不当に扱っていないことを説明しました。
でも、次のような疑問を持つのではないでしょうか?
何故、主人は、わざわざ、後の者から賃金を支払ったのか?もし、先の者から賃金を支払うなら、人のねたみは起こらなかったはずだから。
聖書には、「後の者が先になり、先の者が後になる」とイエス様が言われたところがあります。ルカの福音書13章に、次のように記されています。
13:27 しかし、主人はあなたがたに言います。『おまえたちがどこの者か、私は知らない。不義を行う者たち、みな私から離れて行け。』
13:28 あなたがたは、アブラハムやイサクやヤコブ、またすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分たちは外に放り出されているのを知って、そこで泣いて歯ぎしりするのです。
13:29 人々が東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
13:30 いいですか、後にいる者が先になり、先にいる者が後になるのです。」
ここでは、後にいる者(外国人)が神様の救いを受け取ったことにより、先の者になったとあります。一方、先にいる者(ユダヤ人)は、神の民として選ばれたにもかかわらず、福音を受け入れずに救いから外れてしまいました。このように、実際の歴史で起こったことです。神様の救いは人種や国籍に関係なく、全ての人々に与えられるものであること、そして、福音を受け入れることが救いを得るための鍵なのです。
更に、使徒の働き13章では、
13:44 次の安息日には、ほぼ町中の人々が、主のことばを聞くために集まって来た。
13:45 しかし、この群衆を見たユダヤ人たちはねたみに燃え、パウロが語ることに反対し、口汚くののしった。
ユダヤ人は、外国人が神様の言葉を受け入れようとすると、ねたみに燃えました。でも、パウロは、ユダヤ人にねたみを起こさせてでも、何人かでも救われるように願ったのです。
11:11 それでは尋ねますが、彼らがつまずいたのは倒れるためでしょうか。決してそんなことはありません。かえって、彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせました。
11:12 彼らの背きが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らがみな救われることは、どんなにすばらしいものをもたらすことでしょう。
11:13 そこで、異邦人であるあなたがたに言いますが、私は異邦人への使徒ですから、自分の務めを重く受けとめています。
11:14 私は何とかして自分の同胞にねたみを起こさせて、彼らのうち何人かでも救いたいのです。 ローマ11:11-14
永遠のいのちは、ユダヤ人だけの特権ではなく、福音を受け入れる全ての人々に与えられるものです。しかし、ユダヤ人は神の選民でありながら、イエス様の福音を受け入れなかったため、神様に一時的に見捨てられたのです。パウロはユダヤ人に対して、異邦人たちが救われる妬みにより、同胞のユダヤ人を救いたいと願いました。
さて、私は洗礼を受けることを希望したのは、妬み心からでした。ラジオ番組の明日への窓で興味を持ち、私は教会に出席するようになりました。その番組主催のラジオキャンプに参加しました。その中のある集会のとき、仲良くなった友人たちが洗礼を受ける決心をしました。私は、うらやましい、どうして自分にはそんな思いがないのか、と妬み心をもち、自分も洗礼を受けたいと思うようになりました。そして、その年のクリスマスに、私も洗礼を受けました。
40年以上が経った今、その友人の一人は私の良き文通相手であり、私たちは互いに神の救いに感謝しています。
神様は、すべての人々に対して1デナリ、永遠のいのちを与えたいと望んでいます。それは、どのような形であっても、神様から与えられる大きな喜びの心だからです。しかし、この喜びを受け取ることができない場合、妬みや不満が生じることがあります。しかし、神様は私たちに言います。「あなたの分を取って帰りなさい」つまり、主イエスが十字架の死と復活によって与えて下さった1デナリ、永遠のいのちを、私のため、そして、あなた自身のためにも用意しておられます。ですから、主を信じて、神様の贈り物を受け取りましょう。
勧士 高橋堅治