新しい年度を迎えるにあたって ユダ17~23


1.嘲る者から学ぶ

17 愛する者たち。あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語ったことばを思い起こしなさい。

18 彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、嘲る者たちが現れて、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう。」

19 この人たちは、分裂を引き起こす、生まれつきのままの人間で、御霊を持っていません。

ユダの手紙を読んだことがありますか。ユダの手紙は、全部で25節しかない短い書簡です。聖書では、ヨハネの第三の手紙とヨハネの黙示録の間にさりげなく置かれています。そして、このユダの手紙は、理解が意外と難しい書簡です。

まず、ユダの手紙の経緯について少し紹介したいと思います。ユダの手紙の著者は、「イエス・キリストのしもべ、ヤコブの兄弟ユダ」(1節)と表現されています。新約聖書には、ユダという名前の7人の人物が登場します。ユダという名前は、ユダヤ人の間で一般的な名前だったようで、イエス様の十二人の弟子にも、2人のユダがいます。ひとりはイエス様を裏切ったイスカリオテのユダ、もうひとりはイスカリオテでないタダイと呼ばれるユダです。このユダの手紙のユダは、イエス様の実の弟(処女降誕を考慮すれば、異母兄弟)であるユダだと言われています。ですから、このユダは、イエス様と共に育ちました。ユダは、イエス様が十字架に架けられるまで、イエス様がメシアであると信じていませんでした。イエス様が復活して、ユダの前に現れたとき、ユダはイエス様がメシアであったことを受け入れたのです。更に、彼は、自分自身を「イエス・キリストのしもべ」と呼んでいます。しもべは奴隷を意味するので、ユダは、イエス様を自分の主人と呼ぶようになったのです。幼い頃からイエス様と共に育ったユダは、イエス様を主人と受け入れたのです。

ユダがこの手紙を書いたのは、西暦68~70年頃と言われています。手紙の内容は、ペテロの第二の手紙に非常に似ており、そのため、ペテロの第二の手紙の後に、ユダがこの手紙を書いたと言われています。そして、この手紙を書いた目的は、4節にあるように、不敬虔な人々が教会に現れたためでした。

さて、17節に、ユダは教会の兄弟姉妹たちに「愛する者たち」と語りかけています。そして、ユダは「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語ったことばを思い起こしなさい」と言っています。使徒たちは、18節のように、「終わりの時には、嘲る者たちが現れて、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう」と語ってきたのです。

使徒のひとりペテロは、ペテロの第二の手紙で次のように言いました。

Ⅱペテ3:3 まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、

3:4 こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」

嘲る者たち、つまり、クリスチャンをバカにする者たちは、イエス様の再臨はないというのです。彼らは、聖書に書かれていることは迷信であり、間違っている、そのようなことを信じるのは馬鹿げていると言います。これに対して、ユダは彼らを「分裂を引き起こす、生まれつきのままの人間で、御霊を持ってい」ない者たちだと言っています。彼らは、自分自身を第一に考え、自分の欲望や快楽を満足させることが一番の人々なのです。

ユダは、嘲る者を旧約聖書の三つの物語を用いて具体的に説明しています。それは、不信仰、高慢、淫らな行いです。

1つ目:不信仰

イエスは民をエジプトの地から救い出しましたが、その後、信じなかった者たちを滅ぼされました。(5節)

イスラエル人は、モーセによって、エジプトの奴隷から救われ、約束の地カナンに向かっていました。神様は、イスラエル人のために、紅海を分け、人々を通らせました。また、食べ物が無い砂漠のような地で、マナと呼ばれる食べ物を与えました。更に、夜は火の柱、昼は雲の柱により、彼らを導いたのです。これらの神様のお働きを見ても、イスラエル人は、神様を信じず、神様でない偶像を拝み、更に奴隷であったエジプトに戻りたいと言いました。彼らの不信仰の結果、彼らは40年間も砂漠をさまよったのです。

2つ目:高慢

イエスは、自分の領分を守らずに自分のいるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の鎖につないで暗闇の下に閉じ込められました。(6節)

み使いは、天使とも呼ばれ、人間よりも力と知性に優れた霊的存在で、神様によって造られた存在です。彼らは、超人的な力と知識を持っています。しかし、世界が創造される前に、一部の天使たちが神様に反抗しました。この反乱を起こした天使が悪魔、サタンでした。彼は高慢で、神様のようになりたいと思っていました。それで反乱を起こしたのです。しかし、この反抗した天使たちは、暗闇の下、黄泉に投げ込まれたのです。

イザ14:13 おまえは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山で座に着こう。

14:14 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』

14:15 だが、おまえはよみに落とされ、穴の底に落とされる。

3つ目:淫らな行為

その御使いたちと同じように、ソドムやゴモラ、および周辺の町々も、淫行にふけって不自然な肉欲を追い求めたため、永遠の火の刑罰を受けて見せしめにされています。(7節)

ソドムとゴモラの物語です。ソドムとゴモラの住民は、彼らの恥知らずな淫らな行為のために、神の火によって滅ぼされました。

2021年9月に、ルコントという科学者のグループが15年にわたる研究の末、新たな発見をしたというニュースが入りました。3600年前、ヨルダンの肥沃の地にあった古代都市トール・エル・ハマムに直径50メートルの隕石が落下し、一帯を焼き尽くしたことが分かました。そして、これはソドムとゴモラの物語に似ています。実際、それが、ソドムとゴモラの物語と同じであるとは証明できませんが、ソドムとゴモラの物語であるとするなら、この世界を治める神様は、このように厳格な裁きをされる方であると心に留める必要があるのではないでしょうか。

ですから、私たちは、神様が嫌われる不信仰、高慢、淫らな行為に対して、本当に注意深く自分自身を省みなければなりません。

ローマ書の2:3でパウロは、

そのようなことを行う者たちをさばきながら、同じことを行っている者よ、あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか。

とあります。更に、

ロマ2:4 それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。

と、神様のいつくしみ深さが、このような私たちを悔い改めに導こうとしておられることを記しています。

私たちは、もう一度、これら、神様が嫌われる不信仰、高慢、淫らな行為に対して、ただ他人を裁くのではなく、自分自身が神様の前に出たとき、どうなのかを考えてみてはどうでしょうか。そして、神様のいつくしみ深さ、それは、御子イエス様を十字架に架けるほどに私たちを愛しておられ、私たちの弱さを忍耐し、私たちをそのまま受け入れて下さる主の前で、もう一度、自分が愛される者として行動したいと告白してはどうでしょうか。それこそ、神様のお心を受け入れることなのです。

2.愛する者たちへの勧め

20 しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。

21 神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

それでは、ユダが勧めていることを学んでまいりましょう。

20節、ユダは、「愛する者たち」と呼びかけています。この愛する者は、かけがえのない者を意味し、神様に愛されているかけがえのない者たちというのです。

誰がこの人たちでしょうか。

あなたも、そして、主イエスを信じている人々も、かけがえのない人なのです。

そして、ユダは「あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。」と勧めています。「最も聖なる信仰」とは、イエス様ご自身とイエス様が私たちに語られた教えを信頼する信仰です。ユダは、私たちがこの信仰の上に、自分自身を築き上ることを勧めています。

信仰の上に自分を築くとは、どういうことなのでしょうか。

Ⅰコリント3章に以下のように記されています。

3:10 私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。

3:11 だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。

3:12 だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、

3:13 それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。

3:14 だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。

3:15 だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。

土台はイエス様、このイエス様の土台の上に私たちは人生の家を建て上げます。私たちは様々な材料を用いて自分の人生を築くのです。ここに上げられている、6種類の材料があります。金、銀、宝石、木、草、藁です。そして、火は、私たちの人生で出会う試練です。

試練のとき、私たちが建て上げてきた人生は焼き尽くされるのです。焼けた痕には何が残るでしょうか。もし、私たちの人生が金、銀、宝石で作られているなら、試練の火は何の影響もありません。しかし、木、草、藁で作られているなら、試練によって私たちは大きな痛みを伴うのかもしれません。私たちにとって、金、銀、宝石とは、そして、木、草、藁とはなんでしょうか。

私は、2019年の夏、松原湖聖会でイエス様から直接、私に従ってくるようにと語られました。

しかし、私は、その直後に、仕事の関係で体調を崩し、1年の間、休職に追い込まれました。このとき、私は不安を抱きました。いままでの自分の人生がガラガラと音を立てて崩れていくように思えました。仕事、地位、お金というものに頼っていた自分が、それを失うことに非常に痛み苦しみました。それを奪った者に対する怒りもありました。私は、イエス様を信じると言いながらも、信仰を大切にしていませんでした。嘲る人の例のように、不信仰、高慢という自分の利益を求める者でした。私は、本当に大切なものを見失っていたのです。しかし、その後、信仰、希望、愛の大切さを知りました。神様を信じる信仰を、誰も私から奪うことはできません。神様が与えて下さった人生への希望は、ささやかながら、穏やかで喜びを伴います。神様が私を深く愛しておられる事実は、私を深い慰めに導きます。そして、神様、自分、隣人という愛の関係を学ぶことができました。金、銀、宝石こそ、信仰、希望、愛なのではないでしょうか。

あなたの土台はイエス様ですか。あなたの人生は、木、草、藁のような燃えて無くなるもので築いていることはないでしょうか。是非、人生の土台にイエス様を据えて、その上に、金、銀、宝石である信仰、希望、愛で人生を建て上げて下さい。それは、私たちの人生の最期の試練である死を通しても、残るはずです。

それから、ユダは、聖霊によって祈ることを勧めています。

クリスチャンの内には、聖霊が住んでおられます。なぜなら、「聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはでき」(Ⅰコリント12:3)ないからです。

私たちは、祈る時、いつも、このお方のとりなしによって祈っているのです。

祈りは、私たちを愛するものに変えてくれます。神様を愛し、私自身を愛し、そして、兄弟姉妹を愛する者に変えて下さるのです。

ローマ8:26 同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

聖霊による祈りは、弱い私たちを助け、そして、私たちがどう祈ってよいか分からなくても、聖霊がとりなしてくださるのです。

それから、ユダは、私たちを深く愛して下さる神様の愛の内に歩むことを勧めています。私たちは、他のクリスチャンを見たとき、その行いや姿勢につまずくかもしれません。それは、私たちが弱いからです。また、この世界を見たとき、私たちは悲しみ、絶望します。それは、この世界が神様を知らないからです。

ですから、私たちは、十字架の主をじっと見つめるべきです。そこに、神様の愛があるからです。この神様の愛に自分を委ねるのです。そして、私たちを永遠のいのちに導いて下さる、イエスキリストの憐みを待ち望むのです。

神様がイスラエルの民をカナンの地に導いたように、私たちの主イエス・キリストは、わたしたちの人生に奇跡と喜びを与えて下さり、必ず、良い地である御国に導いて下さるのを望むのです。

ロマ 8:35 だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

私たちを愛して下さるイエス様の愛から離すものは何もないのです。

3.あわれみの心

22 ある人々が疑いを抱くなら、その人たちをあわれみなさい。

23 ほかの人たちは、火の中からつかみ出して救いなさい。また、ほかの人たちは、肉によって汚された下着さえ忌み嫌い、神を恐れつつあわれみなさい。

22節、23節にあわれみという言葉が使われています。この「あわれみ」は、ギリシア語のエレオという言葉で、苦しんでいる人を助ける、助けを求めている人を助けるという意味を持ちます。いずれも、実行が伴う言葉なのです。

第一に、ユダは、「ある人々が疑いを抱くなら、その人たちをあわれみなさい」と記しています。この疑いを抱くというのは、様々なことから、信仰につまずいている人々、信仰がぐらついている兄弟姉妹たちに、優しく接し、彼らが倒れないように最善を尽くすことを勧めています。私たちは、互いに祈ることで、互いの弱さを支えましょう。私の勧めたいことは、相手のために祈るだけでなく、自分の必要を祈って頂きましょう。必要を感じたら、愛を持って善処していくことを考えましょう。

ほかの人たちは、火の中からつかみ出して救いなさい。

火の中からつかみ出すとは、地獄の火からつかみ出すことです。私たちの周りを見ますと、このままだと地獄の火に入り、永遠の死を迎える多くの人々がいます。まずは、主が私たちに真実をよく見えるように目薬を与えて下さり、地獄の火の中にある隣人を見ることができますように。そして、彼らのために祈り、主イエス様のところにお連れするのです。十字架の主はその方々を受け入れて下さるはずですから。

また、ほかの人たちは、肉によって汚された下着さえ忌み嫌い、神を恐れつつあわれみなさい。

最後に、もうひとつの他の人たち、これはキリストとその救いを否定する異端をあらわしています。彼らはキリストの救いを無駄にし、そしてキリストの御名を汚しているのです。私たちは、彼らに出来るだけ関わらないようにすべきです。彼らから色々な影響を受けて、私たち自身の信仰がぐらつかないためです。ただ、彼らが苦しんでいるなら、助けることも忘れないことです。

ユダの手紙を通して、私たちは神様のいつくしみ深さを思い起こし、もう一度、自分自身を省みてみましょう。そして、イエス様という土台の上に、信仰、希望、愛を建て上げることを考えてみましょう。兄弟姉妹の間であわれみの心を持つのです。 Ⅰペテ 4:8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

勧士 高橋堅治