積極的な愛の行動の勧め(互いに愛し合いなさい)Ⅰヨハネ3:11~19


今回は、使徒ヨハネが記したヨハネの手紙第一3章から、積極的な愛の行動について、学びましょう。

イエス様は、有名な最後の晩餐で、弟子たちと一緒に食事をしているとき、「互いに愛し合いなさい」と言われました(ヨハネ13:34)。この御言葉は、イエス様から与えられた新しい戒めで、モーセの十戒に相当するものです。更に、ヨハネ13:35に、「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」とイエス様が言われています。イエス様の教えを守ることは、世界中で私たちをイエス様の弟子であると認める重大なことなのです。

1.死からいのちに

3:11 互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。

3:12 カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。

3:13 兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。

3:14 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。

3:15 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。

使徒ヨハネが書いた「ヨハネの手紙 第一」では、イエス様がヨハネを含む弟子たちに直接教えられた大切な事を書いています。それは、私たち自らも聖よく生きること、そして、兄弟姉妹を愛することを教えています。3:11の言葉は、ヨハネの福音書13:34のことを示し、「互いに愛し合うべきであること」が教会でずっと大切に伝えてこられたことを示しています。そして、ヨハネは、アダムとエバの子カインを悪い例として引き合いに出したのです。それは、ヨハネが、カインの悪い行為に倣うことがないように警告するためです(12節)。カインは弟アベルを殺した者だからです。

カインとアベルの物語、創世記4章1節から8節を見てみましょう。

4:1 人は、その妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「私は、【主】によって一人の男子を得た」と言った。

4:2 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す者となった。

4:3 しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを【主】へのささげ物として持って来た。

4:4 アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物に目を留められた。

4:5 しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。

4:6 【主】はカインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。

4:7 もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」

4:8 カインは弟アベルを誘い出した。二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかって殺した。

カインとアベルは、そろって神様へささげ物を捧げました。神様は、アベルのささげ物だけに目を留められたため、目を留められなかったカインは激しい怒りを覚え、顔を伏しました。このカインが顔を伏したというのは、彼が恥を覚えてでした。彼の心は、嫉妬に支配されたのです。そして、8節で、カインは弟アベルを殺したのです。ヨハネは、「なぜ殺したのでしょうか。自分(カイン)の行いが悪く、兄弟(アベル)の行いが正しかったからです。」と言っています。

そして、ヨハネは、カインが、悪い者から出た者、悪魔の子であると12節で述べています。カインは悪魔の子でしたから、カインは自分ではなく、弟アベルが神様に目を留められたことを良く思えず、アベルへの憎しみを抱いたのです。ヨハネは、15節で「兄弟を憎む者はみな、人殺しです」と言っています。憎しみは、対象者の存在を否定します。実際に、もし、憎しみの感情が理性を超えると、人は衝動的になり、殺人をします。ことわざに、「人をみたら泥棒と思え」といいますが、神様からみたら、「人をみたら人殺しと思え」と言えるのです。あなたの周りにも、「人殺し」がいるのかもしれません。

ローマ5:12に「ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった」とあります。ですから、実際のところ、私たちも、悪い者から生まれた者、悪魔の子であり、罪によって死ぬ者なのでした。パウロも、自らが悪魔の子であることを知り、「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)と、嘆いたのです。もう一度いいます、私たちは、カインと同じ、悪い者からでた者、悪魔の子でした。

しかし、イエス様が十字架で身代わりなって下さり、私たちの罪は赦されました。私たちは、ただ、罪赦されただけではありません。ローマ11:17によれば、「野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受け」(ローマ11:17)たとパウロは語っています。私たちは、野生のオリーブの枝、悪い者から出た者、悪魔の子でした。ところが、私たちは、イエス様を救い主と信じたときから、イエス様というオリーブの根に接ぎ木されたと聖書は言うのです。このことを、ヨハネは、「死からいのちに移った」(14節)と言っています。

昨年、私は家庭菜園でスイカを作ろうと思って、スイカの苗を購入し植えました。毎朝、スイカが成長していく様子を楽しみながら、水を与えたり、肥料をやったり、手入れも行いました。やがて葉が茂り、花が咲き始めました。夕方になると、白色の花が咲き、実を付けました。ところが、不思議なことに、緑色の細長い実がなり、明らかにスイカとは異なりました。調べたら、それは夕顔の実なのです。どうやら、この苗は、夕顔の根にスイカの枝を接ぎ木したものだったのです。それは、スイカは、本来、病気に弱いもので、より丈夫な他の苗に接ぎ木すると、強く育つためだそうです。当時の私には、このような知識が無かったので、より強い夕顔が育ってしまったのでした。参考までに、スイカを収穫するには、夕顔の芽を取り除くことが必要なようです。

この接ぎ木の例からも、私たちは、本来は弱くて死ぬべき存在であったのですが、イエス様に接ぎ木されることで強く生きる者とされました。そうです、私たちは、死からいのちに移ったのです。そして、接ぎ木されてイエス様のものになった私たちは、もはや、悪魔の子ではありません。神の子となったのです。

なお、私たちが神の子となっても、何故、罪を犯すのか?それは、私たちの罪の芽が完全になくなっている訳ではありません。私たちは、罪の芽を神様によって取り除いて頂くことが今も必要なのです。キリストの血は、私たちをきよめて下さる(Ⅰヨハネ1:9)、ちょうど、消毒のようなものですね。

ヨハネは、私たちがイエス様に接ぎ木されたこと、すなわち、いのちに移されたことは、兄弟を愛しているということで分かると言っています。

次に兄弟を愛することについて学んでいきましょう。

2.積極的な愛の行動

3:16 キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

3:17 この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。

3:18 子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。

3:19 そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。

16節に「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました」とあります。これまで、イエス様の十字架により、私たちの罪は赦され、私たちはイエス様に接ぎ木され、死からいのちに移ったことを学びました。私たちは、信仰体験を通して、このイエス様の愛をそれぞれが体験したのです。

神の愛について学ぶとき、私たちが用いている愛の概念を少し変える必要があります。新約聖書の原文はギリシア語で記されており、このギリシア語には4種類の愛があるからです。それらは、エロス、ストルゲ、フィリア、アガペーです。

エロスは、愛情の熱い表現、性的な愛。ストルゲは、家族間の深い結びつき、親しい愛を表します。フィリアは、友人の間のパートナーシップ、深い友情を意味します。そして、アガペーの愛は、神の愛、無償の愛、変わることなく愛する完全な愛です。この愛は、見返りを求めず、相手に期待もせず、他者を思いやり、自己犠牲的な大きな愛です。拒絶されようとも愛し続ける、喜びを分かち合う愛です。Ⅰコリント13章には、愛の賛歌として有名ですが、神様の愛、アガペーの愛が記されています。そして、パウロは「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です」(Ⅰコリント13:13)というほどにすぐれた愛なのです。

愛には、4つの種類があることを知っていると、愛という言葉で、自分を傷つけることはありません。人を裁くことも無くなります。それは、神の愛は、私たち人間に求めても得られないからです。例えば、ある人が「愛している」と言ったとき、その意図が単純に相手を愛しているだけでなく、何かを求めていることが多いのがおわかりでしょう。通常では「あなたから何かが欲しい。待つことは出来ないから、今すぐに欲しい」というのが、世間一般で呼ばれる愛を指すのです。ですから、私たちは人間に、神の愛を求めることはナンセンスなのです。

聖書で記す神の愛とは、自分よりも、相手の幸せを願うことです。更に、この愛は、愛の感情だけではなく、行動が伴うのです。神様の罪人に対する思いは、「かわいそう」という内臓を引き裂くほどに痛みを覚える感情、この神様の感情は、イエス様の十字架によって行動に移されました。

パウロは、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)と言っています。

ですから、このイエス様の愛を体験している私たちに、ヨハネは「私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです」と説いています。「いのちを捨てるべきです」とは、「当然、いのちを差し出す責任があるのだ、義務があるのだ」という意味です。

しかし、実際にいのちを捨てることが容易に実践できるかというと、私たちには無理だと思います。いままでの歴史の中、信仰のために殉教を選んだ人々や、命懸けで未開拓地を伝道した宣教師たちがいました。彼らは、いのちを捨てる覚悟で信仰を貫き通しました。今日でも、キリスト教を禁じている国々では、福音のために牢獄に入る人々がいます。しかし、今の私たちは、迫害や牢獄のような状況に置かれることなど、とても想像が出来ません。

そのような大多数の私たちに対して、ヨハネは、「いのちを捨てる」ことを具体的な行動を提案しています。それは、「この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざ」さないことです。言葉を代えて言えば、私たちは、自分のいのちを捨てるという一度限りの行為ではなく、日々の生活の中で、兄弟姉妹に関心を持ち、憐みの心で行動することです。そして、このことは、口先や言葉でなく、行いと真実な行動によることが求められているのです。

それでも、私たちにとって、まだ難しいのかもしれません。しかし、私たちにはイエス様の愛になんとか答えたいと願う心が起こされているはずです。それは、イエス様の命懸けの愛を体験しているからです。

では、どうすればいいでしょうか。どうやって、イエス様の愛にお答えできるでしょうか。

イエス様は「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)と言われました。愛し、祈ることは同じことなのです。私の家では、祈りのカードにより、また、それぞれの必要と知人の必要を毎回取り上げ、家族でそのために祈りの時間を設けています。祈りの中では、祈る方々への神様の祝福を求め、決して呪うことはありません。具体的に、困難にある方の解決、その方の病気の快復、更に経済的な祝福を神様に求めます。そして、日々祈りを重ねていくとき、祈る相手に関心を持つようになりました。そして、イエス様の愛に触れられ、祈る相手のために、自分たちに何が出来るのかを考えるようになりました。

それには、とても小さなことしかできないかもしれません。声をかけたり、笑顔を投げかけたり、話を聞いてあげるなど、とても小さな行動です。しかし、祈る私たちに、神様は大きな喜びを与えて下さるのです。それは、私たちに与えて下さる神様の祝福なのです。

最近、家内の友人のご主人がコロナにかかり、ICUに入り、危篤状態に陥りました。その方は、最近、イエス様を受け入れた方です。奥様は既に諦められておられ、神様の元に送ることを準備し始めておられました。コロナ禍のために、その方のところに訪問も出来ません。私たちは、毎晩、心から主の憐みを求め続けました。主の憐みによって、その方のいのちを留めて頂くこと、快復し、残された生涯を神様の証し人として歩むことを願いました。その方は、奇跡的に快復し、食事も口にされたと聞きました。私は、神様の大きな憐みを覚えました。この喜びは、祈る者にだけ与えられた特権なのです。

ですから、まず、互いに祈ることを始めてみてはどうでしょうか。そして、祈りの中で、神様に促されたことを信じて行ってみるのです。小さなことで十分です。そこに、神様の大きな祝福が待っているはずです。

勧士 高橋堅治