主を愛する心 ルカ19:11~27


今回は、ミナのたとえから一緒に学んでまいりましょう。たとえ話のおさらいですが、たとえ話は、日本では寓話と呼ばれ、話し手が聞き手に何らかの教訓を伝えたいときに用いります。たとえば、日本の有名なたとえ話に、うさぎとかめの寓話があります。かめは、私たちの常識では、競争でうさぎに勝つことはあり得ません。しかし、この寓話では、うさぎが油断したため、負ける筈がないかめに負けてしまうのです。このことを通して、私たちに油断大敵を教えます。イエス様は、神の国についてたとえを多く用いられました。普通の生活の中で体験する事柄から、神の国について優しく教えておられます。私たちは、イエス様のたとえを読むとき、当時の人々の生活習慣を知った上で、イエス様が何を伝えたいかをよく思い巡らすことです。そうすると、イエス様のお心をより深く学ぶことができます。

1.王位を授かって戻られる主

19:11 人々がこれらのことばに耳を傾けていたとき、イエスは続けて一つのたとえを話された。イエスがエルサレムの近くに来ていて、人々が神の国がすぐに現れると思っていたからである。

19:12 イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。

19:13 彼はしもべを十人呼んで、彼らに十ミナを与え、『私が帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。

19:14 一方、その国の人々は彼を憎んでいたので、彼の後に使者を送り、『この人が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません』と伝えた。

ルカ19:11から始まる、このたとえ話の冒頭で、「人々がこれらのことばに耳を傾けていたとき」とあります。このたとえは、人々がイエス様のお話に耳を傾けていたときに、話されたことが分かります。この出来事は、ルカ19:1から記されている取税人ザアカイの物語です。

イエス様は、エルサレムへの最後の旅をしていました。あと1日もすれば、エルサレムに到着する場所、エルサレムの東30kmにあるエリコという町に到着しました。大変に短い距離ですが、エリコは海抜-400mと低地にあり、向かおうとしているエルサレムは海抜700mもあり、エルサレムまで1100mも登らなければなりません。しかも、この区間は荒野であり、盗賊も出没していましたから、移動は昼間しかできません。そこで、旅人はエリコで宿泊して、翌朝早く旅立つことが多かったようです。イエス様と弟子たちは、取税人ザアカイの家に泊まりました。そして、イエス様の訪問により、8節のように、ザアカイは自分の生き方を変えたのです。そこで、イエス様は、次のように言われました。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(9節、10節)

続いて、イエス様はこのたとえをそこにいた人々に話されました。その理由は、「イエスがエルサレムの近くに来ていて、人々が神の国がすぐに現れると思っていたから」でした。人々は、イエス様がエルサレムに着いたら、神の国を建て、ローマ帝国の支配からイスラエルを解放することを心待ちにしていました。

ところが、イエス様がエルサレムに行く目的は、彼らの期待とは裏腹でした。それは、イエス様ご自分は、エルサレムで十字架につけられること、そして三日後に復活することを知っていたからです。そこで、イエス様は、彼らに12節からのたとえを話しました。

12節と14節をみると、

  • ある身分の高い人が王位を得るために遠い国に行って戻ること、
  • 国の人々は彼が王になることを望んでいなかったこと

が記されています。このたとえが話されてとき、当時の人々は、ある出来事を思い出したことでしょう。

その出来事は、紀元前4年ごろ、ヘロデ王の息子アルケラオの事です。当時、ユダヤは、ローマ帝国によって支配されていましたが、実際にユダヤの国の統治は、ヘロデ王が行っていました。

ヘロデ王は、マタイの福音書に記されている、ベツレヘムの幼子を殺したヘロデです。彼には、3人の息子、アルケラオ、アンティパス、ピリポがいました。アルケラオは、ヘロデの遺言により、最も王位を継ぐ可能性が高い息子でした。そこで、アルケラオは、亡くなった父ヘロデの葬式を盛大に行い、既に王様に相応しく立ち振る舞っていましたが、正式な王になるには、ローマ皇帝の承認が必要でした。彼は、ローマに出向き、ローマ皇帝から承認を受けることにしました。

亡くなったヘロデは悪名高い王であったため、人々はヘロデの生前の行いを抗議し始めました。アルケラオは、彼らの好意を得るために、なんとか話し合いで解決しようとしました。しかし、白熱する抗議によって、とうとう、彼は、3000人もの人々を殺しました。

アルケラオがローマに行き、王位を授かろうとしたとき、弟アンティパスとユダヤ人らは、この3000人殺害の事件をローマ皇帝に伝え、残酷なアルケラオが王位に値しないと主張しました。アルケラオは、なんとか王位を得ましたが、ローマ皇帝は彼を信頼せず、即位後10年で彼は追放され、ユダヤはローマの属州になりました。このように、アルケラオは王位を授かるためにローマに旅立ったこと、国民はアルケラオが王になることを望まなかったのでした。この当時の出来事をイエス様はたとえで用いました。

それは、イエス様も、正式に王位を授かるため、天の御国に行って再び戻ること(再臨)、人々は、イエス様が神の国の王になることを望んでいないことを伝えました。

更に、13節のように、旅立つ前に、10人のしもべに10ミナ、すなわち1人当たり1ミナを与えたとあります。そして、しもべたちに商売するように伝えたのです。1ミナは、現代で100万円ほどの金額になります。すなわち、私たちひとりひとりに、1ミナずつを商売するために与えられたというのです。この1ミナは何なのでしょうか。一緒に考えてみましょう。

2.主人の心を知る

19:15 さて、彼は王位を授かって帰って来ると、金を与えておいたしもべたちを呼び出すように命じた。彼らがどんな商売をしたかを知ろうと思ったのである。

19:16 最初のしもべが進み出て言った。『ご主人様、あなた様の一ミナで十ミナをもうけました。』

19:17 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』

19:18 二番目のしもべが来て言った。『ご主人様、あなた様の一ミナで五ミナをもうけました。』

19:19 主人は彼にも言った。『おまえも五つの町を治めなさい。』

19:20 また別のしもべが来て言った。『ご主人様、ご覧ください。あなた様の一ミナがございます。私は布に包んで、しまっておきました。

19:21 あなた様は預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取られる厳しい方ですから、怖かったのです。』

19:22 主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はおまえのことばによって、おまえをさばこう。おまえは、私が厳しい人間で、預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取ると、分かっていたというのか。

19:23 それなら、どうして私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうしておけば、私が帰って来たとき、それを利息と一緒に受け取れたのに。』

「彼は王位を授かって帰って来ると、金を与えておいたしもべたちを呼び出すように命じ」(15節)ました。彼は、しもべたちに与えたお金がどうなったのか、知りたいと思ったのです。

このたとえに、3人のしもべが登場します。

  • 1ミナで10ミナ儲けたしもべ、
  • 1ミナで5ミナ儲けたしもべ、
  • 1ミナをそのままにしておき、何もしなかったしもべ

1ミナで10ミナ儲けたしもべに、主人は答えました。

『よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』(17節)

これは「でかした!有能なしもべだ!おまえは、この取るに足らないような小さい物に忠実であった。だから10の町を支配させよう」という意味です。

そして、1ミナで5ミナ儲けたしもべには、『おまえも五つの町を治めなさい。』(19節)、

これも「よし!おまえには5つの町を支配させよう」という意味です。

主人は、しもべたちの忠実な仕事を、自分のことのように喜びました。主人は、しもべらの仕事の成果は異なりましたが、忠実な彼らをとても喜びました。

さて、1ミナをそのままにしておき、何もしなかったしもべに注目しましょう。

このしもべは、与えられた1ミナを全く使わず、布に包んでしまいました。その理由は、

19:21 あなた様は預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取られる厳しい方ですから、怖かったのです。』

彼は、主人が怖かった。なぜなら、主人は彼が持っていないものを取り立て、彼に支払うべきものをさえ与えず、彼が行うことさえ出来ない仕事と奉仕を彼に要求する人物だからだというのです。このしもべは、主人が恐ろしく、主人がいないとき震えて過ごしたのです。それは、恐ろしい主人が、彼に1ミナを与えた。もし、その1ミナを失えば、主人はどれほど彼を叱責し、罰を与えるだろうか。彼は、そんなことなら、この1ミナを使わずに、そのまま返すのがいいと判断したのです。

主人は、このしもべの答えを聞いたとき、次のように答えました。

19:22 主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はおまえのことばによって、おまえをさばこう。おまえは、私が厳しい人間で、預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取ると、分かっていたというのか。

19:23 それなら、どうして私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうしておけば、私が帰って来たとき、それを利息と一緒に受け取れたのに。』

主人は、このしもべを「悪いしもべだ」と言いました。それは、「役立たずのしもべだ」とも言えます。主人はしもべについて嘆きました。彼の主人への誤解は、甚だしいものでした。そこで、主人は、しもべが言ったことをオウム返ししました。この「分かっていたというのか」という主人の言葉に、「どうして、私の心が分からないのか?」という嘆きが隠されています。

主人は、しもべが主人に対する誤解を伝えるために、23節のように話します。「設けることを考えたら銀行に預けるだろう。では、なぜ、私はあなたに1ミナを与えたのか?私がお金を儲けるためではないということが分かるだろう。私は、あなたが言うように、本当に『預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取る』ような厳しい者なのか?」

さて、「悪いしもべ」の何が悪いのでしょうか?善いしもべと悪いしもべの違いは何なのでしょうか?

それは、主人の本当の心を知っていたかということではないかと思います。

善いしもべは、主人の心を知っていました。ゆえに、彼は主人を信頼し、主人を愛しました。そして誠心誠意、主人に仕えようとしたのです。

ところが、悪いしもべは、主人の心を知らず、主人を誤解していました。主人を怖れ、心から主人に仕えることが出来ませんでした。

ところで、聖書を学ぶとき、私たちは聖書のさまざまな戒めを学びます。聖書には、モーセの十戒をはじめとするたくさんの戒めがあります。それらは、「○○しなさい」、「○○してはならない」と書かれています。私たちは、聖書の言葉を学んだとき、この言葉を守ろうと努力します。しかし、それは長く続きません。無理があるからです。

そして、私たちは、聖書の言葉を守れない自分自身を裁き始めるのです。「私はクリスチャンに相応しくない。クリスチャンらしくない。聖書的ではない」と。また、聖書を学び始めた方には、「このようになれたら、私もクリスチャンになろう」と考えるのではないでしょうか。

では、私たちが努力すれば、聖書の言葉を守れるのでしょうか。私たちが頑張れば、信者らしい生き方が出来るのでしょうか。

しかし、聖書には、律法(聖書の教え、聖書の言葉)の行いによって、神の前に義と認められる者、すなわち、クリスチャンに相応しい生き方が出来る者は、だれもいないと書かれています。

ガラ3:10 律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。

3:11 律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです

また、イエス様は、律法学者やパリサイ人の行為を偽善だと言っています。彼らは、聖書の言葉に基づいて、生活のひとつひとつに沢山の戒律を作り、それを実行しようと自ら努力しました。たとえば、彼らは安息日に決して仕事をしてはいけないと戒律で定めました。そのため、彼らは安息日に病人を治すことを一切しなかったし、他の人々にもそれを強要しました。しかし、彼らは、そのために大切なことをおろそかにしてしまいました。すなわち、安息日を守ることより、病人を癒すことの方が大事ということです。彼らは人が優先すべき、命を助けるということができませんでした。それは、彼らの神への信仰は形式的なものであり、それさえ守れば、正しいと判断していました。彼らの神観は、厳しく、厳格なお方という考えがありました。

マタ23:23 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。

このようなことは、現代を生きる私たちにも同様に問われていることではないでしょうか。以前、私はこのようなメッセージを受けたことがあります。「日曜日に礼拝を休んではいけない。もし、礼拝に行かないなら、罪だ」と。もし、こんなメッセージを受けたら、私たちは罪を犯さないために、なんとしても礼拝に行こうとするでしょう。たとえ、病気になっても、不幸があっても、礼拝に行くことを最優先するでしょう。そして、それが正しく、聖書的だと考えます。そして、それが出来ない人々を心の中で裁きます。また、もし、自分が守れないなら、敗北感で一杯になり、私は信仰者として失格だとまで考えてしまうかもしれません。

そして、もし、家の者の誰か、または自分が、病気のとき、私たちはどうするでしょうか。礼拝を優先するでしょうか。

もし、パリサイ人の信仰に立つなら、それは罪になるかもしれません。

ところが、イエス様は、安息日に病人を癒しました。そして、そのことによってイエス様は、パリサイ人から批判を受けたのです。私たちは、パリサイ人のような信仰になってはダメなのです。聖書を額面通りに、力ずくで守ろうとすることは危険です。

マタ5:20 わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。

ならば、私たちはどうしたらいいのでしょうか。それには、主人の心を知ることが必要なのです。主人であるイエス様の心を知ることなのです。具体的に言うと、私たちが聖書の言葉を受け、それを実行するとき、「イエス様ならどうするだろうか?」と考えることです。

イエス様ならどうするだろうかと考えるとき、まさに聖書は、私たちに対する本当の答えを教えてくれます。

3.主を愛する心

19:24 そして、そばに立っていた者たちに言った。『その一ミナをこの者から取り上げて、十ミナ持っている者に与えなさい。』

19:25 すると彼らは、『ご主人様、あの人はすでに十ミナ持っています』と言った。

19:26 彼は言った。『おまえたちに言うが、だれでも持っている者はさらに与えられ、持っていない者からは、持っている物までも取り上げられるのだ。

19:27 またさらに、私が王になるのを望まなかったあの敵どもは、ここに連れて来て、私の目の前で打ち殺せ。』」

主人は、1ミナしか持っていないしもべの1ミナを取り上げて、十ミナの者に与えられました。それでは、この1ミナとはなんでしょうか。

私は、この1ミナは「主を愛する心」だと思います。

私たちは、イエス様から大きな愛をいただきました。そして、私たちの内に、イエス様を愛する心が芽生えたはずです。最初は、とてもわずかな1ミナの愛です。私たちが、イエス様の心を知り、イエス様を愛して仕えていこうとするとき、私たちの中にある「主を愛する心」は成長していきます。この「主を愛する心」が、成長するに従って、私たちは、更に、イエス様にお仕えしたいと願うようになります。

この心は、結果的に、大きな原動力となります。そして、神様の御業が現れるのです。実際に、この世界でこれまで人類に大きな貢献をしてきた事柄、医療、福祉において、根底に「主を愛する心」があるのに気づくはずです。一方、もし、主の心を知らず、形式的に聖書の言葉を守ろうとするなら、私たちは次第に疲れ、「主を愛する心」は冷めていきます。やがて、私たちの内の「主を愛する心」、1ミナの心ですら、失われてしまうのです。

最後に、イエス様が王となることを望まなかった者はどうなるのでしょう。イエス様は、彼らを敵とみなします。それは、イエス様が差し出す大きな愛を受け入れることもせず、その愛に反抗し、更にイエス様の愛を受け入れる者を迫害するのです。このような状態は、永遠のいのちが無く、滅びる状態なのです。

ルカ13:34 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。

13:35 見よ、おまえたちの家は見捨てられる。わたしはおまえたちに言う。おまえたちが『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』と言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」

イエス様は何度もエルサレムの悔い改めを願ってきた。しかし、それを望まなかった。しかし、イエス様が言われるように、「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と、呼ぶときがやがて来ること、そのようにイエス様の救いが用意されていることも約束されているのです。

聖書を通して、イエス様の心をもっと深く知り、私たちの主を愛する心を育てていきましょう。

勧士 高橋堅治