世に勝つ者 Ⅰヨハネ5:4-5


新年、明けましておめでとうございます。新しい年を迎え、皆様にとって良き年となりますように心からお祈り申し上げます。昨年は、コロナ、戦争、物価上昇といった私達の生活を揺るがす出来事がありました。そのような中、この新しい年をどう歩むべきでしょうか。私達は、私達を超越する存在に目を留め、そのお方の目線で、私達自身の存在を見ると明らかになってくることがあると思います。

信濃毎日新聞の1月8日朝刊に「伝統的な信仰の基盤の喪失」という記事が掲載されておりました。京都大学名誉教授 佐伯氏(経済学・哲学者)によると、「そもそも宗教とは何か、日本人にとって信仰とは何か、大問題が背後にある。戦後日本では、戦前の国家神道への反動もあって、宗教のみならず、日本の伝統的な信仰の基盤までも掘り崩されてしまった。近代の合理的思考が「正しい」とされると、神仏や霊魂といったえたいのしれない観念は、迷信の類いと同列に扱われかねない。とはいえ、人は決して科学的精神のみで日常生活を送るものではないし、また、生活の中からくすぶり出るさまざまな困難によって人生を窒息させられることもある。そこで、伝統的な信仰心を見失った戦後の日本人は、しばしば新しい宗教やスピリチュアルとよばれるものに救いを求めることにもなった」(新聞記事引用)とあります。そして、佐伯氏は、「看取り先生の遺言」という本を通して、日本人が死を直視することをやめたこと、また、人智を超えたものを恐れることがなくなったことを述べておられました。

新年を迎え、私達は、キリスト信仰に立って、この世にあってどうある存在なのかを考えてみましょう。

御言葉:

ヨハネの手紙第一 5:4-5

神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。

世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

1.世に打ち勝ったイエス様(ヨハネ16:33)

ヨハネ16:33 これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。

聖書に、イエス様の生涯を記したマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書があります。これらの福音書のうち、マタイ、マルコ、ルカの3つは、内容が似ており、ほぼ、同時期に記されたもので、共観福音書と呼ばれ、ます。一方、ヨハネの福音書は、使徒ヨハネが晩年に書いたもので、他の福音書と明らかに内容が異なっています。ヨハネの福音書は、ヨハネが、キリスト教の異端の台頭、ローマ帝国による迫害の激化により、当時のクリスチャンを励ますために書き記したものといってよいでしょう。

ヨハネ16:33はイエス様が十字架に架けられる前に、弟子たちと時間を過ごした最後の晩餐におけるイエス様が弟子たちに送った最後の言葉です。弟子たちは、これまで指導して下さったイエス様から別れることを知り、悲しみにくれました。

ヨハネ13:1 さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父(なる神様)のみもとに行く、ご自分の時(受難の時)が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たち(弟子たち)を愛してきたイエスは、彼ら(弟子たち)を最後まで愛された。

ヨハネ16:6 むしろ、わたし(イエス様)がこれらのことを話したため、あなたがた(弟子たち)の心は悲しみでいっぱいになっています。

ヨハネ16:28 わたしは父のもとから出て、世に来ましたが、再び世を去って、父のもとに行きます。

そして、イエス様は、最後のメッセージ、「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」と語られたのです。

弟子たちが住むこの世は、父なる神様を知らず、イエス様を否定する世です。ですから、ここは、弟子たちを憎む世、弟子たちに敵対する世と言えます。したがって、イエス様も弟子たち自身も、彼らの前途に大きな苦しみが待ち受けていることを知っていました。イエス様を信じる弟子たちは、当時のユダヤ人コミュニティの中心である会堂(シナゴーク)から追い出された、すなわち、ユダヤ人社会からの追放されたのです。イエス様は、弟子たちが苦しみのただ中にあることを認めた上で、次のように、続けて言われました。「勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」

勇気を出しなさいは、元気を出しなさいとも言えます。何故でしょうか、その理由は、イエス様がすでに世に打ち勝ったからです。

ここの「勝ちました」というのは、一度だけ、勝ったというのではありません。イエス様が世に勝利し、この勝利は未来へと続き、二度と敗北することはないことを意味しています(ギリシア語の完了形)。

イエス様は、弟子たちの心を理解していました。イエス様がこの世を去ったとしても、彼らはイエス様を否定する世に生き続けなければなりません。イエス様が去った世界には、彼らは不安しかないのです。しかし、イエス様は、その困難な状況にある弟子たちの思いを、イエス様が既に世に勝ったという事実に向けさせようとしました。

ところで、その時のイエス様は、実際に、どういう状況だったのでしょう。

その少し前に、イエス様は、弟子のひとり、イスカリオテのユダの裏切りを知りました。そして、イエス様は、祭司長や律法学者たちが自分を捕まえることを知っていました。さらに、イエス様は、愛する弟子たちが逃げ去り、自分を置き去りにすることを知っていました。ですから、イエス様は自分が一人にされ、一人で苦しまなければならないことを知っていました。

このような状況は、本当のところ、イエス様の敵であるこの世が、誇らしげに勝利を宣言する状況とも見えます。しかし、イエス様は、「わたしは世に勝ちました」と宣言されたのです。何故でしょうか?

手がかりは、13:31,32のイエス様のお言葉にあります。

ヨハネ13:31 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。

13:32 神が、人の子によって栄光をお受けになったのなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます。しかも、すぐに与えてくださいます。

イスカリオテのユダが裏切ったとき、イエス様はこのように宣言されました。そうです、この世に対する神様の救いの計画のクライマックスが始まったのです。これは、神様が、創世記以来何千年もの間、計画してきた救い主メシアによる人類の救いの計画です。この計画を通して、人類は罪の赦しと永遠のいのちを受けることができるのです。

イエス様は、この世の状況、すなわち、ユダの裏切りを通して、救いの計画が完全に整ったことを知りました。この世はイエス様を陥れようとしたにも関わらず、実は、この世によって、神様のご計画が成し遂げられようとしているのです。

この救いの計画は、イエス様が、私達の罪を一切ご自身の身に受け、私たちを「有罪だ!」と訴える罪をご一緒に十字架にくぎ付けされたことです。

コロサイ2:14 私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。

そして、イエス様は十字架の死から復活し、死に勝利されました。

Ⅰコリント15:54 そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に飲み込まれた。」

ですから、イエス様は、「世に勝ちました」と言われたのです。

弟子たち、このヨハネさえも、このとき、イエス様が一体何を言われたのか理解できなかったと思います。もし、彼らが理解できたなら、イエス様を置き去りにして逃げるなどはできなかったはずですから。ヨハネがこの福音書を書いたとき、ヨハネはイエス様のすべての言葉を思い出したのです。そして、当時、異端と迫害により苦しんでいた人々に、イエス様のこの言葉「勇気を出しなさい、わたしはすでに世に勝ちました」という言葉を投げかけ、彼らを励ましたのです。

そして、このみ言葉は、今日、私達にも語られています。私達は人生の中で多くの困難を抱えています。しかし、元気を出しなさい。イエス様は既に世に勝って、これからも変わることがないからです。

2.世に勝つ者、イエスを神の御子と信じる者

Ⅰヨハネ5:4 神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。

5:5 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

ヨハネは、ヨハネの福音書を書いたほぼ同じころ、各教会宛ての手紙を記しました。

神から生まれた者は誰でも世に勝っているとありますが、あなたに質問します。

あなたは、世に勝っていますか?

誤解を避けるために、まず、世間一般の中で、この世の勝利者とは、どういう人かを学びましょう。

私達は、幼い頃から、競争社会で育ちました。バブル景気の頃に、「三高」という言葉が流行りましたが、理想の結婚相手が、高学歴、高収入、高身長と言うものです。だからこそ、当時、誰もが有名大学への進学、大企業への就職、そして安定した生活を夢見ました。バルブ景気が崩壊した後、今度は、勝ち組と負け組というライフスタイルを二分する言葉が現れました。

勝ち組とは、社会的、経済的に成功し、いわゆる競争社会で支配的な立場にある人々を言います。金持ちで、地位が高く、容姿が良く、自分の望む人生を送っている人を指すようです。

一方、負け組については、こんなことが記されていました。負け組になると、朝起きてから夜寝るまでいろいろなことに悩みを持ちます。元気が無く、現状を変えるための解決策もなく、精神的、健康的にもつらい状態にある人々。それが長期間続くと、その人々は何も手につかなくなる。誰もが、負け組になりたくないと思いました。

ところで、あなたはどう思いますか?

そもそも、勝ち負けで人生を決めるのは馬鹿げているようですが、このような世間の評価に私たちは翻弄されているのではないでしょうか。

しかし、聖書は、神から生まれた者は誰でも世に勝っていると言っています。

ここで、聖書が、あなたは「この世で勝つ者だ」とは言っていないことに気付いてほしい。聖書は、あなたは「この世に勝つ者だ」と言っているのです。この世で勝つ者ではなく、この世に勝つ者であるというのです。

「この世で勝つ者」とは、この世界が作り出したルール、規制、法律の中で多くの人・物・金を獲得した人です。家柄、学歴、天性の素質があり、努力と運により結果が得られるのです。そして「この世で勝つ者」は、この世の名声と富を得るのです。

「この世で勝つ者」を体験する方法があります。それは、人生ゲームです。1960年に米国で発売され、その後、大ヒットしたゲームで、ご存じの方も多いと思います。このゲームは、ルーレットを回して、様々なものや経験を手に入れ、全員がゴールした後、それぞれの獲得した金額で勝敗を決めるという、ギャンブル性の高いゲームです。この人生ゲームでは、誰もが、たくさんのお金を稼ぐことを目指します。最も多くのお金を稼いだ人が勝者だからです。そして、このゲーム中は、参加者全員がゲームの虜となります。虜とは、捕虜、心が捕らえられ、夢中になって逃げだせない状態に陥ることです。

自分の人生を、人生ゲームとは考えていないと思いますが、人生ゲームのように他人と自分を比較することで勝ち負けを意識するのではないでしょうか。それが、勝ち組、負け組なのです。そして、人生ゲームが私達を虜にするように、この世の生活、勝ち負けは、私達を虜にするのではないでしょうか。

この世の虜になる恐ろしさは、先に述べた信毎の記事のように、この世を超えたところにある本当に大切なものが見えなくなることです。そして、私達は、本当は大切な事、罪の問題、死の問題を思い出すまいと心に鍵をかけてしまいます。しかし、そのままにしておいては、私達は、この世に勝つことはできません。

ヨハネは、言いました。「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」イエス様を神の御子と信じる者は、「世に勝つ者」なのです。

ヨハネ16:33にあるように、イエス様は、神様の救いの計画、十字架の贖いと復活を成し遂げるために、この世に来られました。そして、この世の「罪の報酬は死」という、私達を支配するルールを書き換えるため、私達の罪を十字架にくぎ付けし、復活により死に勝利されたのです。

ローマ6:23 罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

もし、今まで私達の人生が悲観的と思うなら、それは世の勝敗を考えていたからかもしれません。しかし、もう悲観的になる必要はないのです。イエス様は、この世に勝たれたのです。同じように、神様から生まれた者は、このイエス様の勝利によって人生を歩むことができます。それは、世に勝つ者、罪から解放され、罪の報酬である死から解放されて生きる者、イエス様のようにこの世にあって神様の栄光を表す、人としての真の生き方をする者なのです。そして、この信仰こそが、世に勝利した証なのです。

3.勝利者への約束

ヨハネの黙示録21:7 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

先ほど、人生ゲームの例をお話しましたが、人生ゲームはすべての参加者がゴールした後に勝敗が決定します。私達の人生も、途中、いくら良くても、また、いくらダメであっても、大逆転があり、本当の勝敗は最後のときまで分かりません。人生の最期は死だという方もおられると思いますが、聖書には、死後に人は神様によって裁きを受けると記されています。私達の人生の勝敗は、裁きのときといってもよいでしょう。

ヘブル9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

9:28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。

私達の人生の総決算は、死後のさばき、いわゆる最後の審判なのです。聖書に、勝利者は、神から生まれた者とありますから、実際、私達は、既に勝利者なのです。私達、勝利者に対して、神様は多くの約束をしておられます。これらは、ヨハネの黙示録に記されています。

以下、黙示録より

2:7勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。 ⇒永遠のいのち

2:11勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。⇒第二の死(裁き)からの救い

2:17勝利を得る者には、わたしは隠されているマナを与える。また、白い石を与える。⇒マナはいのちの食べ物、石は神様の承認

2:26 勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。⇒支配の権威

3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。その者の名をいのちの書から決して消しはしない。⇒白い服は栄光と幸福を表す。そして、いのちの書は、永遠のいのちの保証。

3:12 勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱とする。⇒名誉(神殿の柱は名誉を意味する)

3:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせる。⇒神様と同じ権威につく

これらは、神様のもつ限りない財産の相続権を頂く(21:7)という約束なのです。

さて、私はこのメッセージを作るために、「世に勝つ者」の良い例を、歴史の中に無いかを調べました。信仰の偉人と呼ばれる人々は、確かに世に勝つ者と思いますが、彼らは世で勝った者でもあり、私達が目標とするには高すぎる人々でした。私は祈りつつ、思い巡らしていた時、「キリストを神の子と信じる者は誰でも世に勝った者であるなら、私も、またキリストを信じる一人一人が世に勝った者ではないか」と思いました。

箴言3章11,12節に、「主の懲らしめ」が記されています。懲らしめとは、罰ではなく、神様の愛のゆえに、私達を天の御国に備えて訓練されるものです。私達は、キリストの花嫁、キリストに相応しい姿になるため、実に、死ぬまで神様から愛の鞭を頂くのです。

ヘブル12:11 すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。

へブル人の手紙12:11のように、この訓練(試練)は、私達にとって、苦しく思うものですが、神様が与えられる、キリストの花嫁にとって必要な事なのです。 私達は、人生の中で様々な苦しみに出会います。そして、今も苦しみの中のただ中におられる方もいるでしょう。しかし、その苦しみを、キリストの花嫁になるための訓練と受け止めることができるのです。また、苦しみを通して、神様から様々な事を学び、神様を褒めたたえるなら、やはり、私達はこの世の人々とは異なった価値観を持っているのです。苦しみの只中、あなたは神様の愛が注がれているのを知っているからです。このような、あなたこそ「世に勝つ者」ではないでしょうか。あなた自身、あなたの周りのクリスチャンたちは実際に「世に勝つ者」なのです。私達の主を褒めたたえましょう。

勧士 高橋堅治