あなたがたのための救い主 ルカ 2:8~20


クリスマスおめでとうございます。

クリスマスは、今や日本の国民的行事であり、プレゼントを交換したり、お祝いをするのは、24日のクリスマスイブです。クリスマスは12月25日ですが、何故、24日のイブが盛大に祝われるのでしょうか。

クリスマスの日時は、もともと、教会歴によって決定されました。教会歴での1日は、前日の日没に始まり、今日の日没に終わるからです。冬至のころは日没が4時半過ぎですから、教会歴では、24日の夕方4時過ぎから、今日の夕方までがクリスマスとなります。クリスマスイブは、24日の夕方から深夜までで、クリスマスの夜という意味、英語のクリスマスイーブン(Christmas even)に由来します。

実際に、欧米では12月25日を中心に、年明けまでがクリスマスシーズンで、仕事がお休みになるところが多いと聞きます。ですから、このときに、普段以上に、神様の沢山のご愛に感動できたら本当にいいですね。

イエス様は、今から2000年前に、地中海に面した北にヨーロッパ、南にアフリカに面した現在のイスラエル、昔はユダヤと呼ばれる地方に生まれました。その生涯は33年半の短い生涯でした。特に、30歳から3年半の間は、神の国の福音を宣べ伝え、病人を癒し、罪人に寄り添い、最後に十字架で死を遂げられました。ところが三日目に、復活され、40日の間、弟子たちに現れ、その後、弟子たちに見送られ、天国に帰られました。

それでは、ルカの福音書2章から、イエス様が誕生された日に起こった出来事を一緒に学びましょう。

1.飼葉桶のみどりご

2:8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。

2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。

2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」

これらの出来事は、イエス様の誕生されたその日に起こった出来事です。

羊飼いたちは、ユダヤの町ベツレヘム周辺の野原で、夜、羊を見守っていました。突然、明るい光が彼らの周りを照らし、ひとりのみ使いが、羊飼いたちの前に現れたのです。

羊飼いたちは、光とみ使いを見てとても恐くなりました。み使いは言います。

「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」

当時のユダヤは、強大なローマ帝国に支配されていました。ローマの権力闘争に伴う数十年にわたる内戦に苦しみ、人々は困窮し、畑は荒らされ、至る所で盗賊がはびこっていました。

このような中、ユダヤ人たちは、神様を信じ、耐えてきました。それは、救い主が生まれるという聖書の約束を待ち望んでいたのです。救い主が生まれれば、ローマ帝国の支配から解放され、ユダヤ国家が独立するという希望をもっていたのです。

人々が救い主を待望する中、み使いが、この救い主の誕生を知らせたのは、この羊飼いたちだけでした。み使いによれば、「この民全体に与えられる、大きな喜び」の知らせ、「あなたがたのために救い主がお生まれに」なった大きなニュースを、多くの人々ではなく、少人数の羊飼いに、また、時の権力者でなく、社会的地位もなく、当時、人々から嫌われていた羊飼いだけに伝えたのです。羊飼いの多くは犯罪歴を持ち、人のものは自分のものという価値観から、人々は避けていた人たちのようです。

み使いによれば、救い主は「布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりご」というではありませんか。

これを聞いたとき、世の中の様々な宣伝と比較すると、まったくの期待外れ、見かけ倒しの出来事のように見えます。

もし、救い主の誕生を時の権力者に伝えれば、救い主の命が狙われるか、政治的に利用されることでしょう。実際に、東方の博士の言葉から、イエス様はヘロデ大王から命を狙われました(マタイ2:13)

マタイ2:13 彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」

また、救い主が裕福な家庭に生まれたらどうでしょうか。

救い主は、この世界の様々な教育を受け、立派に育つことでしょう。しかし、全ての民に含まれる、貧しい民、社会的地位の低い民を救うことは出来なかったのではないでしょうか。ご存じのように、モーセは、エジプトのパロの子として育ちましたが、彼は大人になったとき、同胞の奴隷のユダヤ人の立場が理解できなかったのです。

出エジプト2:14 彼は言った。「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。おまえは、あのエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか。」そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知られたのだと思った。

救い主は神様ですから、全能、無限、力と栄光と富に満ちていました。しかし、人間として生まれたとき、彼は、しもべ、奴隷のように仕える者となり、自らが貧しく、謙虚になることを選ばれました。

Ⅱコリント8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

使徒パウロは、私たちがキリストによって富む者になるためだというのです。

  • キリストが貧しいので、全ての人が救いの対象となれる。
  • キリストが貧しいので、キリストへの愛の奉仕により富むことを許されている。
  • キリストが貧しいので、この世界の価値観を正しく見極められる。
  • キリストが貧しいので、代価なしに永遠のいのちと天国を頂ける。

マザーテレサは、以前に、このように話されました。

「もし私たちがほんとうに神を愛したかったら、どのように神を愛するか、みなさまと私が思い起こしてみることはとても美しいことです。神はどこにおられるのでしょう。神はすぐそこにおられます。どこ?貧しい人々の中に、私の家庭の母、兄、妹、夫、妻の中に、そこにいらっしゃるのです。そして、私がその人々にすることはすべて、神にしているのです。することはなんでも。聖書を読むと、私たちが死ぬときイエスはこういわれるとあります。『私が飢えていた時、あなたは食べ物をくれた。私が裸だったとき、あなたは衣服をくれた。私が家無しだったとき、あなたは泊めてくれた。ごらんなさい、あなたはこれらのことを私にしてくれた。あの男は、あの老いた男は、わたしだったのです』」

マザーテレサが語られたこの言葉で、キリストの貧しさをもっとも教えて下さっているのではないでしょうか。

私たちは、家庭や職場、そして教会で、色々な人に接します。マザーテレサは、その人々の中に、イエス様を認めよというのです。その人々の中にいるイエス様は幼子のような状態かもしれません。彼は、時には泣き叫び、悲しみ、私たちに乳でなく、愛が足りないと訴えてくるかもしれません。そして、時には、彼の笑顔の眼差しが私たちを喜ばせてくれるでしょう。

私たちは、普段、彼らに接したとき、苛立ったり、喜んだりします。実は、彼らの中の幼子イエスは、私たちの中の、そう、飼葉桶のように汚れて貧しい心の中の、幼子イエスに語りかけてくるのです。

私たちは、彼らに接するとき、幼子イエスを見つけることが必要かもしれません。そうすれば、彼らを愛することができるからです。

2.み使いの喜び

2:13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。

2:14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

喜びの知らせを告げたみ使いに加え、おびただしい数、数千もの天の軍勢、み使いたちがそこに現れました。そして、高らかに「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」と歌いました。

み使いたちの賛美は、「いと高き所」、天国におられる神様の栄光を讃えています。そして、イエス様が誕生された地上の、「みこころにかなう」、神様がお喜びになる人々に、「平和」、イエス様の十字架による神様との和解があることを願っています。

これは、イエス様の誕生による、旧約聖書で預言者らにより語られた救いの計画が開始されたことを宣言しています。すなわち、救いの計画をお立てになった神様の栄光を褒めたたえ、罪人の滅びを望まない神様のお心を喜ぶ人々に、イエス様の十字架の死による贖いが与えられることを願っているのです。

これらのことから、イエス様もたとえでこのように言われました。

ルカ15:10 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」

罪人の悔い改めによるみ使いたちに大きな喜びが起こります。悔い改めとは、失われ迷い、神様から離れた人々が神様に立ち返ることです。そのとき、み使いたちの前に喜びが沸き上がると聖書はいうのです。なぜなら、神様の御心は、一人の罪人も滅びることを望まないからです。父なる神様は、そのために、愛する御子イエスをこの世に与えられたのです。

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

私たちは、賛美の中で、グロリア、インエクセルシスデオ(ラテン語で、「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように」の意味)と歌うときに、いつも、神様が私たちを想うご愛と、そのために行われた贖罪の真実、イエス様の十字架の死を思い起こすべきなのです。

3.イエス様を見つけよう

2:15 御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」

2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。

2:17 それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。

2:18 聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。

2:19 しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。

2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

喜びの知らせを受けた羊飼いたちは、早速、ベツレヘムに行って、み使いが告げた出来事を見ることにしました。彼らは、ベツレヘムに駆けつけ、宿屋を次々と探しました。彼らは、飼葉桶に寝かされた生まれたばかりの赤子を見つけました。

彼らは、救い主の喜びの知らせを聞き、すぐに行動を起こしました。そして、彼らは、幼子の発見に興奮し、彼らの感動を人々に証言したのです。

そこには、羊飼いたち、ヨセフとマリア、そして、羊飼いたちの証言を聞いた人々がいたようです。

羊飼いたちの証言を聞いた人々は、出産に立ち会った人かもしれませんし、羊飼いたちの騒ぎに駆けつけた人かもしれません。彼らの反応は驚きでした。

マリアの反応は、「心に納めて、思い巡らし」ました。

羊飼いたち自身の反応は、「神をあがめ、賛美しながら帰」りました。

彼らの証言を聞いて驚いた人々は、しばらくすると忘れ去ってしまったのではないか。結局、彼らは、目の前の飼葉桶にいる救い主を見つけることはできませんでした。

一方、マリアは、羊飼いたちの証言を、それまでの自分の体験(受胎告知、処女降誕、ヨセフの夢)と重ね、神様への信仰を深めたと思います。彼女は、救い主を宿し、共に生きる人です。

羊飼いたちは、救い主を見つけるという実体験から、神様を信じ、あがめ、賛美しました。神をあがめるとは、「神が生きて働いておられることを認め、それに相応しい生き方をする」ということです。彼らの賛美は、その相応しい生き方の表れです。

私たちは、生活の中で、救い主を見つけることができるでしょうか。

聖書には、不思議なことが沢山記されています。処女降誕、み使いの出現、東方の博士たちの来訪、イエス様の復活、これらを聞いて、驚くと共に疑わない人はいません。直ぐに、これらを真実と受け入れるなら、それこそ、どんな迷信でも信じてしまう恐れがありますね。羊飼いたちは実際に救い主を捜した経験を持ちました。マリアは、更に、救い主と共に生きる経験から、羊飼いの証言を信じ受けとめました。実は、私たちも、同じなのです。聖書の沢山の奇跡は、驚くものの、そのままに信じることは難しいと思います。しかし、羊飼いのように、救い主と出会い、マリアのように、救い主と共に歩むなら、私たちは、救い主を人生のいたるところで発見できるのです。

箴言3:6 あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。

これは、私の小さな証言です。

私と家内が結婚したとき、披露宴の司会をして下さった方がいます。今は、長岡の教会の役員をしており、非常に熱心なクリスチャンです。Yさんと言っておきましょう。その方が教会に来られる前に起こった出来事です。当時、教会で、特別伝道集会を予定し、私も伝道部に所属していましたので、使節者届けというアイディアを提案しました。これは、今まで教会に一度でも来てくださった方の名簿を作り、その名簿から、教会の方々に、使節者に名乗り出て頂きます。使節者になった方は、その方に手紙と伝道集会の案内を郵送していただき、その方の救いと祝福を神様に祈り願うというものです。

Yさんは、十年ほど前に教会に来られたことがある方で、その後、教会に来ることもなくなったという方でした。Yさんの使節者は、友人のH君です。伝道集会の当日、なんと、Yさんが来られました。私は、Yさんに挨拶し、教会からの案内をご覧いただいたの確認しました。ところが、Yさんは何も知らないというのです。後でH君に確認したら、案内は住所不定で戻ってきて、届かなかったといいました。Yさんご自身の意思で教会に来られたようです。そして、このYさんは、その後、イエス様を受け入れ、熱心な信仰を持っておられます。私は、神様が祈りを通して、働いておられるのを知りました。

まとめですが、

イエス様は私たちのために貧しくなられました。それは、私たちの汚い貧しい心の中に住んでくださるため、そして、私たちと接する人々の中にも、幼いイエス様が生まれるためです。

私たちは、私たちの人生の中にイエス様を発見すること、私たちの接する人々の内に、イエス様を発見することです。それは、私たちにとって大きな喜びにつながり、また、相手を愛することができるようになるからです。

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 神様の祝福が豊かにありますように。

勧士 高橋堅治