大きな喜びの知らせ ルカ2:10~12


ルカ2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。

2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」

アドベントの第三週になりました。アドベントの間、4本のろうそくが順番に灯されます。これらのろうそくは、4つの日曜日を表しています。通常、これらのろうそくの色は、白、または紫です。しかし、アドベント第三週は、ピンク色のろうそくを用います。それは、喜びの日曜日、ローズ・サンディ(バラの日曜日)だからです。そして、西欧の礼拝では、ガウデテ・イン・ドミノ・センパー(常に主において喜べ)という祈りで始められます。この祈りの言葉は、ピリピ人への手紙4:4-6、詩篇85:1を用いています。

ピリピ4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

4:5 あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。

4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

詩篇85:1  主よあなたはご自分の地に恵みを施しヤコブを元どおりにされます。

ルカの福音書2:10の「この民全体に与えられる、大きな喜び」と語り、キリストがお生まれになることが、私たちに与えられる大きな喜びであることが判ります。実際に、当時の人々は、ローマ帝国の支配に苦しみ、旧約聖書に記されたいくつかのキリスト預言が成就することを待ち望んでいたようです。そして、み使いが語るように、人々にとってキリストの来臨は、大きな喜びだったのです。旧約聖書に記されたキリスト預言に、キリストはダビデ王の子、ダビデ王の主、そして、ダビデ王の王位を継ぐものと記されています。

そこで、ダビデの子、ダビデの主、ダビデの王位のキリストから、私たちに与えられた喜びの知らせを学んでまいります。

1.ダビデの子キリスト

マタイ1:20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。

マタイ1:18からの話は、ヨセフの目からみた物語が記されています。マリアは、み使いから御子の受胎を知らされました(ルカの福音書1章)。彼女は、それを神様の御心と受け止めました。そして、彼女は、自分の体の変化を知って、そのことをヨセフに知らせたのです。ところが、ヨセフは彼女が聖霊によって身ごもったという奇跡を信じることは出来ませんでした。ヨセフは「二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていること」を知ったのですが、彼は、そのようなことを信じることができず、「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った」のです。

悩み、苦しんだ末、マリアとの別れを決意したヨセフでしたが、その彼の元にみ使いが現れました。み使いがヨセフを呼びかける声は、「ダビデの子ヨセフ」でした。み使いは、なぜ、ダビデの子と呼びかけたのでしょう。

ダビデは、紀元前1000年頃に、ユダヤを統治した王様でした。ダビデ王は、信仰深い、神様に忠実な王様でした。そして、彼が神様のために神殿を建てようとしたとき、神様は彼に、ダビデの子孫からキリストが生まれると告げたのです。

Ⅱサムエル7:13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

み使いが、ヨセフを「ダビデの子ヨセフ」と語りかけたのは、マリアと別れる決意をした彼に、大切なことを伝えて、思いとどまるようにしたかったのです。それは、こんな様に「ヨセフ、あなたはダビデの子孫です。マリアと結婚することを恐れないで下さい。キリストとなる子どもは、ダビデの子孫としてお生まれになるのです。もし、マリアと結婚せずに、そのまま、彼女を去らせてしまったら、生まれる子はダビデの子と呼ばれなくなることでしょう。」み使いはここまで言ったかはわかりませんが、ヨセフはキリストがダビデの子孫から生まれることを知っていたはずです。

さて、私は1つの疑問を持ちました。ヨセフがマリアと結婚しても、その子どもは、ヨセフの実の子どもではないのだから、ダビデの子孫ではないのでは?という疑問です。

実は、ユダヤ社会は、法定相続人をもっとも重要視します。ですから、もし、ヨセフが、生まれてくる子が実子でなくとも、自分の子どもとして受け入れるならば、その子はダビデの法的な子として認められることになります。

マタイの福音書1:1-17には、イエス様の父ヨセフの法的な系図が記されています。マタイの福音書が、ユダヤ人のために書かれたためだと思います。当時、この系図は、相続などの相続権の有無を証明するために、ユダヤの役所に登録されていたようです。

ユダヤ人が系図を重んずる理由は、アブラハムとの繋がりから自らがユダヤ人であることを証明するため、所属する部族を明確にして土地の権利を立証するため、特にレビ族の場合は祭司となる資格を得るため、ダビデの系図ではキリストを証明するためなのです。

少し脱線しますが、ユダヤ人の歴史をみると、イエス様はダビデの子孫を証明できる最後の時代に生まれたと言えます。

当時、ユダヤ人の系図は、役所などの公的機関に保管されていました。ルカの福音書2:1-3で、皇帝アウグストゥスによる住民登録のために、ユダヤ人が自分の町に帰ったひとつの理由は、系図管理のためと考えられます。

ルカ2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。

2:2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。

2:3 人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。

ところが、西暦70年に、このユダヤ人の系図は消失しました。それは、ローマ帝国とユダヤ人の間で起こったユダヤ戦争が原因です。ですから、この西暦70年以降、ユダヤ人の系図は全て無くなったのです。イエス様のお生まれになった年代は、ダビデの子孫であることを証明できる最後のときだったのです。

話は戻りますが、ヨセフは、自分の決断が神様のご計画、キリストの誕生に関わることを知りました。彼も、マリアと同様にキリストの誕生にとって大切な存在でした。ですから、ヨセフは個人的な決断を取りやめ、マリアと生まれてくる子を受け入れたのです。そして、このとき、ダビデの子キリストが定まったのでした。

私たちの決断も、実は神様のご計画に関わっていることを忘れてはなりません。もし、重大な決断を必要とするとき、私たちは、祈りと御言葉によって、神様の御心を求めたいものです。

2.ダビデの主キリスト

詩篇110:1 【主】は私の主に言われた。「あなたはわたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」

マタイ22:42 「あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」

22:43 イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、

22:44 『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」』と言っているのですか。

22:45 ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」

22:46 するとだれ一人、一言もイエスに答えられなかった。その日から、もうだれも、あえてイエスに質問しようとはしなかった。

ダビデの主キリストです。ダビデは詩篇110:1でキリストを主と呼んでいます。

イエス様は、ダビデの子と呼ばれておりました。それはイエス様こそ、キリストだからです。ところが、イエス様ご自身はキリストを「ダビデの子」と呼ぶ人々に、「あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。」と問われました。それは、ダビデが書いた詩篇110:1のキリスト預言で、ダビデ自身が、キリストを「私の主」と呼んだからです。そして、イエス様は、ダビデ本人がキリストを「私の主」と言っているのに、あなた方はどうしてキリストはダビデの子というのかと尋ねられています。

聖書では、神様を、主と呼んでいます。ユダヤ人たちは、神様の御名をむやみに唱えてはならないために、神という言葉を普段は使いませんでした。そこで、ユダヤ人は、神様を主、アドナイと呼んだのです。私たちが主と呼ぶのは、聖書で神様を主と呼ぶからです。ですから、主という言葉は、神様と等しい意味です。そして、この主という言葉は、ギリシャ語でキュリオスと呼びます。イエス様の時代のローマ帝国の皇帝もキュリオスと呼ばれていました。キュリオスとは、主君という意味があるからです。

私たちは、時々、イエス様を、主、主キリスト、主イエスと呼びます。これは、「自分の全生活を支配する主であり、自分の生命は彼のものであり、自分はイエス様のしもべであるということ。イエス様を信じることは、父なる神様を信じることと同じで、イエス様から永遠のいのちを受けることは、命の源である父なる神様から受けることに等しい」という信仰告白なのです。一般の民衆がローマ皇帝をキュリオスと呼ぶ中で、ローマ時代のキリスト者は、イエス様をキュリオスと呼んでいたのですから、彼らの信仰告白は命懸けでもありました。

キリストは、事実、ダビデの子孫でした。この「ダビデの子」という意味からは、人々が、キリストがダビデ王と同じくユダヤ人の王となって、ローマ帝国からユダヤ人を救い出す方という考え方がありました。実に、ダビデが詩篇110篇で記したキリスト預言は、「(キリストである)あなたは、(父なる神である)わたしの右の座に着いていなさい。(父なる神である)わたしが(キリストの)あなたの敵をあなたの足台とするまで」という意味です。

つまり、キリストは、敵である悪魔を踏みにじるまで、神様の全能をもって世界を支配する、神様の右の座に座られるお方を表しています。

創世記3:15に、聖書の最初のキリスト預言が記されています。それは、最初の人アダムとエバが悪魔の誘惑により罪を犯したとき、やがてキリストが悪魔の頭を打って勝利することを示しています。

創世記3:15 わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」

このように、キリストは単なる政治的な王様ではなく、神様と等しいお方、人類の罪を贖い、悪魔を倒すお方なのです。

3.王キリスト

ルカ1:32 その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。

1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」

ダビデの子、私たちの主であるキリストは、王でもあります。

ルカの福音書1:26-38に、マリアへのみ使いの受胎告知が記されています。み使いは、マリアに、子どもがどんな人になるかを話します。彼は、32節にあるように大いなる者、すべての名にまさる名を持ち(ピリピ2:9)、いと高き方の子、神の御子(へブル1:5)なのです。

ピリピ2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。

ヘブル1:5 神はいったい、どの御使いに向かって言われたでしょうか。「あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ」と。またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」と。

父なる神様は、「彼にその父ダビデの王位」をお与えになります。旧約聖書では、イザヤ書の他にも、エレミヤ書、エゼキエル書、ホセア書に記され、それぞれ、キリストを「ダビデの王座」、「ダビデの若枝」、「ダビデ」と呼んでいます。

イザヤ9:6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。

キリストは、王になりますが、その王国はこの世界のものではありません。(ヨハネ18:36)。

ヨハネ18:36 イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」

彼の王国は、神様の王国、天国なのです。そして、私たちは、キリストによって、神様の御国、天国を受け継ぐ者になりました。(エペソ1:11)

エペソ1:11 またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。

このように、イエス様は、人間としては、ダビデの子孫として生まれ、そして、私たちが主と呼ぶにふさわしい、私たちの人生すべての主人であり、神の国の王様として、全てを治められるお方です。

このことをパウロは、次のように述べています。

ローマ1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、

1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。

すなわち、肉によれば、人間としてはダビデの子孫であった。聖なる霊、神様としては、死者の中からの復活により、神の子として公に示されたお方、主イエス・キリストなのです。

さて、クリスマスは、私たちに与えられる大きな喜びの知らせです。私たちは、ダビデの子、私たちの主であるお方、王キリストの喜びの知らせを頂いたのです。

そして、その喜びは、ピリピ人への手紙4:4-5に主にあって喜ぶ、喜びなのです。

4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

4:5 あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。

それから、テサロニケ第一の手紙5:16には、「いつも喜んでいなさい」という御言葉があります。

私たちは、この喜びの知らせを受けている者です。いつも喜んでいますか?

このアドベントの季節に、是非、考えてほしいのです。本当に、いつも喜んでおりますか?どんなときでも、喜んでおりますか?

いつも喜んでいる方は、その喜びがどこから来ているのかを考えてみて下さい。

いや、実は喜びがないと思う方は、主にある喜びを頂きたいと思いませんか。神様は、キリストにある喜びをあなたに与えて下さるのです。

勧士 高橋堅治