「神が私たちとともにおられる」 イザヤ7:1~15


今年は11月27日からアドベント(待降節)が始まりました。このアドベントという言葉は、ラテン語のアドベントゥスに由来し、キリストの来臨、そしてキリストの再臨を意味します。アドベントは、11月30日、聖アンデレの日に最も近い日曜日からクリスマスイブまでの期間を指し、今年は、暦上、アドベントの最も早く始まる年です。このアドベントは、本来、洗礼前の断食と悔い改めの時期です。

このアドベントシーズン中に、聖書の中心的なお方である、イエス様に心を留めるときが得られたらどんなに幸いでしょう。

以下に、イエス様の誕生に関するインマヌエル預言、イザヤ書7章ついてお話し致します。どうして、イザヤは、突然、イエス様の預言をしたのでしょうか。不思議だと思いませんか?

今日は、そのことについて、一緒に考えてみましょう。

1.人生の土台

イザヤ7:1 ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時代、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、戦いのためにエルサレムに上って来たが、これを攻めきれなかった時のことである。

7:2 ダビデの家に「アラムがエフライムと組んだ」という知らせがもたらされた。王の心も民の心も、林の木々が風に揺らぐように揺らいだ。

この1節に記されているように、ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時代の出来事でした。これは紀元前735年、今から約2750年前の話で、日本ではちょうど弥生時代の頃になります。

それまでのイスラエルの歴史を簡単に紹介します。紀元前1000年頃、ダビデという王様が、イスラエルを統治しました。その後、ソロモン王がダビデ王朝を継いだのです。しかし、その子レハブアム王のとき、イスラエルは、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂しました。その後、ダビデ王朝は南ユダ王国にのみで継承されました。この物語に登場するアハズ王は、ダビデ王朝の13代目の王様でした。彼は20歳で王様となり、15年間の間、ユダを統治しました。彼は、ダビデ王朝の最悪の王のひとりでした。(もう一人はマナセ王)

アハズは、ダビデ王朝が何世代にもわたって継承してきた神様への信仰を守らず、偶像礼拝をしました。彼は、忌み嫌われるモレクの神を信仰し、自分の子どもですら生け贄に捧げたほどです。

彼が偶像礼拝に傾いた理由は、次のことが原因と思われます。4歳のとき、祖父ウジヤが亡くなりました。ウジヤは、宗教改革を行い、優れた王でしたが、晩年、祭司しかできない神殿での祭儀(祭壇の香を焚く)を強行し、これが原因で重い皮膚病になり、政治生命を追われました。そして、その子ヨタムが王様になりました。ヨタムの時代は、人々の生活は堕落し、不信仰でした。ヨタムは41歳で亡くなり、その子アハズが20歳で王となったのです。彼は、祖父ウジヤ、父ヨタムの生き様を見て育ちました。当時の隣国、北イスラエル王国は、他国との交易により経済的に栄え、神様から離れても活気のある社会でした。祖父ウジヤのたった1つの罪による失脚、父ヨタム統治下の不信仰な社会、そして、物質的繁栄の北イスラエル王国が、彼の偶像礼拝を後押ししたのだと思います。

それから、この当時のユダの周辺の国々は次のような情勢でした。

南ユダ王国の北側にサマリアを首都とする北イスラエル王国、その北側ダマスコ(現在のシリア・アラブ共和国の首都)周辺にアラム王国、そして、ユダ東部にアッシリア帝国(現在のイラクの辺り)がありました。

この頃、アッシリア帝国の力は強大で、当時、周辺諸国は帝国への貢物を余儀なくされていました。このアッシリア帝国に対抗するため、アラムのレツィン王と北イスラエルのペカ王は同盟を結びました。そして、南ユダのアハズに、一緒にアッシリアに対抗するように強要したのです。

このとき、「ダビデの家(アハズ)に「アラムがエフライム(北イスラエル)と組んだ」という知らせがもたらされた。(アハズ)王の心も(南ユダの)民の心も、林の木々が風に揺らぐように揺らいだ」(2節)のです。アハズを含む南ユダ王国の人々は、アラムと北イスラエルが同盟を結んだことを知って、自分たちの将来がどうなるのか、心配したのです。

アハズと南ユダの人々は、真の神様への信仰を失っていました。偶像礼拝は、ときの権力や繁栄を象徴するもので、自らの商売繁盛や子孫繁栄を神に形どります。それは、実際、自分の心・願いを神とするものなのです。彼らは、自分が築いてきたものに自らの人生の土台を据えていました。そこで、大きな時代の流れ(アラムと北イスラエルが同盟を結び、南ユダに強要するような)の中、彼らの心は、「風に揺らぐように揺ら」いでしまったのでした。

私たちの土台は、何に据えているでしょうか。もし、その土台を移ろいやすいもの、自分自身、財産、仕事、日本の社会に据えていれば、健康的問題、経済的な危機、失業、社会情勢(疫病、戦争など)で、私たちは将来への不安を大きくします。そのことは、このアハズの時代の人々と同じではないでしょうか。はどうでしょうか。私たちは、通常、新聞、テレビ、そして最近ではインターネットから、多くの情報を入手しています。そのような情報は、私たちにとって有益であるだけでなく、逆に、私たちを不快にさせることがよくあります。コロナ感染症による後遺症や死の恐怖、物価上昇による貧困への恐怖、エスカレートする戦争への恐怖など、私たちの恐怖心を煽る情報はたくさんあります。これらの情報が、私たちを怖がらせ、私たちの生き方を消極的にするなら、それはアハズとユダの人々と同じ状況なのかもしれません。

マタ7:24 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。

イエス様は、イエス様のお言葉を聞いて行う者は、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえています。私たちの土台をイエス様のお言葉の上に据えるなら、岩のように不動な生き方を与えて下さるのではないでしょうか。

2.神の宣告

イザヤ7:3 そのとき、【主】はイザヤに言われた。「あなたと、あなたの子シェアル・ヤシュブは、上の池の水道の端、布さらしの野への大路に出向いて行ってアハズに会い、

7:4 彼に言え。『気を確かに持ち、落ち着いていなさい。恐れてはならない。あなたは、これら二つの煙る木切れの燃えさし、アラムのレツィンとレマルヤの子の燃える怒りに、心を弱らせてはならない。

7:5 アラムは、エフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企てて、

7:6 「われわれはユダに上ってこれを脅かし、これに攻め入ってわがものとし、タベアルの子をその王にしよう」と言っているが、

7:7 神である主はこう言われる。それは起こらない。それはあり得ない。

7:8 アラムのかしらはダマスコ、そのダマスコのかしらがレツィンだから。──エフライムは六十五年のうちに、打ちのめされて、一つの民ではなくなる──

7:9 エフライムのかしらはサマリア、そのサマリアのかしらがレマルヤの子だから。あなたがたは、信じなければ堅く立つことはできない。』」

アハズとその民が、アラムと北イスラエルとの同盟に不安になっているその時、神様は、預言者イザヤに語られました。

「あなたと、あなたの子シェアル・ヤシュブは、上の池の水道の端、布さらしの野への大路に出向いて行ってアハズに会い、彼に言え。『気を確かに持ち、落ち着いていなさい。恐れてはならない。あなたは、これら二つの煙る木切れの燃えさし、アラムのレツィンとレマルヤの子の燃える怒りに、心を弱らせてはならない。(3、4節)

神様は、ユダの人々が大きな不安の渦中にあることを知っていました。そして、神様は、そのアハズと人々を憐れみました。そこで、アハズに会い指示するために、神様は、だれを遣わすか、どこで会うか、どんな言葉を言うべきか、イザヤに指示をしたのです。まさに、有事の際の、司令官が発する的確で具体的な指示・命令です。

アハズに対する彼らが企てた悪事は、「われわれはユダに上ってこれを脅かし、これに攻め入ってわがものとし、タベアルの子をその王にしよう」(6節)で、アラムと北イスラエルが、共同でユダを攻撃し、アハズのダビデ王朝を打倒し、タベアルの子に置き換えようとするものでした。タベアルの子は、当時のシリア貴族ベン・タベアルと言われています。

そう、彼らの計画は、ユダのダビデ王朝を終わらせ、別の王を据えることでした。

ところが、神様は、「神である主はこう言われる。それは起こらない。それはあり得ない。」(7節)と言いました。神は、まことの神ヤーウェの名を示しており、そのまことの神の宣言は「絶対に起こらない」こと、決して「達成されることは無い」ことと、断固否定しているのです。

一方、神様は「あなたがたは、信じなければ堅く立つことはできない。」(9節)と言って、アハズに神様の御言葉に信頼を置くように語っています。しかし、残念なことに、アハズは、この神様の御言葉を信じませんでした。それどころか、神様よりも、彼は、アッシリア帝国に助けを求めたのでした。

さて、私たちは、もし、神様から特別に御言葉を示されたとき、それをどう受け止めるでしょうか。

もし、神様から与えられた御言葉だと信じ受け入れるなら、周りがどう思おうと、それを貫ける人になりたいものです。もし、その御言葉が貴方にとって、とても受け入れられないと思ったら、素直に神様の前に、そのことを告白してみてはどうでしょうか。

私は、2019年の夏、松原湖聖会の第一回目の聖会の中、突如、イエス様が私に直接、語りかけて来られました。それは、幻とも言えるのでしょうか、イエス様が悲しみの道で十字架を担ぎ、多くの群衆が見る中で登って行かれる姿でした。ふと、イエス様は振り向かれ、私に語られました。それは「わたしに従って来なさい」というお言葉でした。私は、そのときに、感動と共に、何事か?と不安に感じました。この不思議な体験を、私は家内に話し、私の心の内に大切にしまっておきました。この後、私の職場での仕事が大きく変化していきました。仕事での大きな挫折を始めとし、パワハラ、責任のなすり付け(スケープゴート)、とうとう、過労から体調を崩し、聖会から半年後に、休職に追われたのです。この期間、私を支えたのは、ただ「わたしに従ってきなさい」という聖会での出来事でした。それまで、職場では、次の事業副本部長ではないかと噂され、人々から尊敬の眼差しを受けて、権限・行動の何をとっても充実していた時期から、急転直下の落日です。復帰後、人々からのあわれみの眼差し、職位、権限が全て取り去られ、過去の栄光にしがみつくこともできず、心身障害者のレッテル、全てが私にとって、受けたくなくとも受け入れざる得ない事実になりました。神様は、仕事、地位、これまで自分が誇りとしていたものを取り去りました。しかし、私に、神様は、私がいるではないか?私では不服か?と問われているように感じました。私にとって、先のものは、砂の土台で簡単に崩れ去るもの、しかし、聖会で与えられた神様の御言葉は、私にとって、岩のような存在でありました。私は、これらのことから、今も活ける神様が働かれておられること、そして、神様がどれほど、私を気にかけ、愛しておられるかを知ったのです。

さて、アハズは神様を信頼せず、結果的に目に見える強大な力、アッシリア帝国に寄り頼んだのでした。彼のこの行動により、彼はアッシリアから王国の財産、権力などが奪われたのでした。神様を信頼しないで、他のものを信頼するほど愚かなことはないのです。

3.神が私たちとともにおられる

7:10 【主】はさらにアハズに告げられた。

7:11 「あなたの神、【主】に、しるしを求めよ。よみの深みにでも、天の高みにでも。」

7:12 アハズは言った。「私は求めません。【主】を試みません。」

7:13 イザヤは言った。「さあ、聞け、ダビデの家よ。あなたがたは人々を煩わすことで足りず、私の神までも煩わすのか。

7:14 それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。

7:15 この子は、悪を退けて善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる。

アハズの不信仰にかかわらず、その後、神様は再び、預言者イザヤを介して、アハズに語りかけました。この不信仰なアハズに、神様ご自身にしるしを求めるように言われました。不信仰なアハズに、しるしを見て神様を信じるように勧めたのです。更に神様は、「よみの深みにでも、天の高みにでも」(11節)と、どのようなしるしを求めてもよいとまで言われたのです。

ところが、アハズの答えは、「私は求めません。【主】を試みません。」(12節)でした。神様を試みませんと、一見、謙遜のように見えますが、実は、彼はしるしを求めることを嫌ったのです。それは、アハズは、神様に従いたいのではなく、自分が望むこと、すなわち、アッシリア帝国に助けを求めたかったのでした。ですから、アハズは、もし、神様から何らかのしるしが与えられたとしたら、自分の望みを押し通すことが出来なくなると考えたのです。

このアハズの返事に、イザヤは怒りました。イザヤは神様のユダに対する憐みと譲歩を知っていたからです。そこで、イザヤはアハズに言います、「さあ、聞け、ダビデの家よ。あなたがたは人々を煩わすことで足りず、私の神までも煩わすのか」。このとき、イザヤが語った神様のしるしが、インマヌエル預言なのです。

「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(14節)

※インマヌエル:神が私たちとともにおられる

このしるしは、不信仰のアハズには見ることも、授かることもできませんでした。しかし、神様を信じ、神様の真理を受け入れた人々にとって、このしるしは真のしるしになりました。

アラムと北イスラエルがユダに攻め上り、ダビデ王朝を滅ぼし、代わりにタベアルの子を王とする計画は実現しない。それは、将来、ダビデの子孫、処女が身ごもって男の子が生まれるべきだからだという、神様の約束のしるしだからなのです。

ダビデ王朝に将来メシアがお生まれになるという約束は、以下の御言葉で語られています。

Ⅱサム7:13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

神様は、しるしを通して、ダビデと交わした契約を守ることを明らかにされました。そして、この神様のしるしは、今から2000年前に、そのユダヤの地で成就したのです。

実は、神様は、紀元前735年のこのインマヌエル預言からイエス様の誕生まで、ユダヤがどのような状況にあっても、インマヌエル、「神が私たちとともにおられる」という約束を守り続けてこられました。

イエス様が生まれ、救いの御業を成し遂げられた後、今の私たちにも、神様はインマヌエルをお約束しておられるのです。

マタ28:20見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

さて、聖書は、最初(創世記)から最後(ヨハネの黙示録)まで、一貫して、ひとりの方に焦点を当てています。旧約聖書の天地創造の後、人間は、罪にて堕落がしましたが、聖書は、メシアが来ることを教え、そこに、神様が人類と共におられることを示されてきました。そして、アハズのときのようなダビデ王朝の存続の危機であっても、その約束は変わらないことを伝えられたのです。そして、聖書は約束の通りに、世の終わりまで続くと証ししています。

神様が共におられるから、私たちはイエス様の十字架の死と復活による新しいいのちを得、神様が共におられるから、日々を励まされ喜びに生きることができるようになりました。

そして、もうひとつのアドベント、その共にいて下さるお方、イエス様の御顔を拝する再臨がやがて来るのです。

私たちと共におられる、父なる神様の深いご愛と、インマヌエルなる御子、聖霊の交わりを褒めたたえましょう。

勧士 高橋堅治