神に高くされた者 ルカ 18:9~14


これまでルカの福音書のたとえを学んできました。11月末の待降節が近づく中、今年のイエス様のたとえの最後のメッセージとなります。本日は、パリサイ人と取税人のたとえを通し、神様に高くされた者について、学びましょう。

  1. パリサイ人の祈り

18:9 自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。

18:10 「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。

18:11 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。

18:12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』

皆さまは、お祈りとはどのようなものと思っておられるでしょうか。

日本人は、年末年始に、神社仏閣に出向き、二年参り、初詣を行い、無病息災を祈願しますね。教会でも、毎週の礼拝やお祈り会があり、神様に祈るということをします。

キリスト教は、この世界に唯一の神様、私たち人間を含むすべてのものをお造りになった方がおられると信じています。そして、この神様に語りかけることをお祈りと呼んでいます。神様は、全世界をお造りになった方、お父さんのような存在なので、どんな人でも、神様っ!と語り掛けることができます。そして、この世界をお造りになられた神様は霊であるお方なので、私たちは、教会でなくても、どこでも、家でも、会社でも、田畑でも、車の中でも、神様!と呼びかけることができるのです。

神様に語り掛けるとき、神様は私たちの心の声を聞いて下さると言います。ですから、言葉に出さなくても、心の中で神様!語り掛けることができるのです。是非、神様!語ってみて下さい。朝、起きたら神様、おはようございます。寝るとき、神様、おやすみなさいという挨拶です。つらい時、病気のとき、助けてください、治してください、と語り掛けてください。心からの祈りは、神様は喜ばれます。今日は、この祈ることについて、イエス様のたとえを学びます。

たとえとは、たとえ話で、うさぎとかめの話のように、架空の人物、お話によって、大切な教訓などを相手に伝えるものです。たとえには、極端な話や、ありえない話を出して、教訓となることを大げさに伝えます。たとえば、うさぎとかめの話では、かめが競争でうさぎに勝つということは通常は決して起こらないことですが、あり得ない事柄が、読者に油断は大敵であるということを教えるのです。

さて、本日の聖書箇所の9節から見てまいりますと、イエス様は、このたとえを「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たち」に話されたとあります。このたとえでは、パリサイ人として登場させています。パリサイ人とは、当時のユダヤの支配者階級の人々で、宗教的作法など、きちんと守っていた人々でした。そして、自他共に、信仰心が厚いと認めていた人々でもあります。そして、彼らは高慢なところがありましたから、このたとえの登場人物に相応しかったのでしょう。

もう一人の登場人物の取税人は、当時、ユダヤを支配していたローマ帝国の税金取りです。彼らは同胞のユダヤ人から、法外な税金を取り立てていましたので、売国奴と言われていた人々です。しかし、取税人の中にも、マタイの福音書の著者マタイのように、神様を求める人々もいました。

そして、このたとえでは、神様に義と認められたのがパリサイ人でなく、取税人であったというのは、当時の人々はあり得ないと思うはずです。イエス様が、取税人が義と認められたというたとえにより、何を伝えようとされたのかを考えてみましょう。

10節に、パリサイ人と取税人の両方が、祈るために神殿に行きましたとあります。

そして、11節、12節、パリサイ人は、自らが立ち上がって、心の中でこう祈りました。

『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』

さて、このパリサイ人のいのりを、想像してみましょう。

まず、彼は、人々の前で祈るために神殿に出向きました。そして、いかにも信心深いような清楚な身なりしました。そして、神殿の前に立ちます。目を天に向けて、いかにも神様に語り掛けようとします。彼は、周りの人々からの視線を感じ、優越感を覚えます。彼の心に祈りの言葉が浮かんできました。

「神よ、こいつらは、他人をゆするやつら、不正なやつら、姦淫するやつら、律法を守らない奴らです。こんなろくでもないやつらよりも自分が立派なことを感謝します。」彼は、そこに居合わせた取税人に目を留めました。「この売国奴、律法を少しも守らない取税人め、神殿に何しに来ているんだ。神よ、私がこの取税人でないことを感謝します。神よ、私は週に2度の断食を行い、収入のうち、十分の一を献金して、律法を守っています。」と心の内で言いました。

どうでしょうか?彼は、神様の名を呼んでいますが、神様に祈っていると思いますか?

そうではないようです。彼の心の内は、律法を守らない周囲の人々への軽蔑、神殿に相応しくない取税人への強い軽蔑、それから、律法を守っている自分への賞賛でした。

彼は、神殿に来て、人々から敬われるように、敬虔らしいふりをしますが、彼の心の中は、周りの人々への軽蔑でいっぱいなのです。

マタイ23:5で、イエス様は、パリサイ人が「している行いはすべて人に見せるため」と言っています。彼らの祈りも、実際、単なるみせかけ、パフォーマンスであったのも多かったかもしれません。

23:5 彼らがしている行いはすべて人に見せるためです。彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。

私は、このメッセージを準備していたとき、しばらく祈ることが出来なくなりました。私も、このパリサイ人のような祈りをしていないか?と思ったからです。

私がクリスチャンになる前、始めて神様に祈ったとき、戸惑いながらも真剣に祈りました。なぜ、そのような祈りが出来なくなっていたか?それは、自分の立場や信仰歴などが邪魔をしていたからです。クリスチャンらしく、霊的、聖書的、いろいろな言い方がありますが、もし、神様抜きで、人に良く見られようとしているなら、偽善的な行為なのかもしれません。

私たちの祈りのとき、様々な感情が生じるのではないでしょうか。このパリサイ人のように、よく見られたい、評価されたいという気持ちが起こることもある筈です。もし、そのように思うとき、その神様への祈りを正すことが必要かもしれません。
Ⅰサム16:7に

人はうわべを見るが、【主】は心を見る。

と、あります。

神様は私たちの心をみるからです。神様は、心の中の祈りを聞かれるのです。

では、神様が聞いてくださる祈りとはなんでしょうか。取税人の祈りから学びましょう。

  1. 取税人の祈り

イエス様は、もう一方の取税人の祈りを次のように言いました。

18:13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』

取税人の彼は、パリサイ人のように、神殿の前に立つことをせず、神殿から遠く離れて立ち、目を天にむけず、胸をたたきながら祈りました。そして、彼は、「神様、罪人の私をあわれんでください」と一言、言っただけでした。

彼は、聖なる神様の前に出ることを恐れ、また自分が罪人であることを知っていました。

イザヤ書6章でイザヤは、

イザ6:5 私は言った。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の【主】である王をこの目で見たのだから。」

と、幻の中で神様を見たとき、「ああ、私は滅んでしまう」と叫びました。彼は自分の目で神様の聖なる御姿を見たからです。

出エジプト記33:20に、

出33:20 また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」

とあります。彼は、この御言葉の通り、神様を恐れていたのです。

この取税人の態度は謙遜です。

辞書で謙遜という言葉は、へりくだること、控えめな態度を取ることとあります。しかし、聖書の謙遜は、少し違います。聖書の謙遜は、「自分自身が不十分で尊厳を持たず、価値のない存在であることを認めること、自分のありのままを認めること」です。

私たちが謙遜になるには、神様の臨在、そこに私たちを創造された偉大な神様がおられるということを感じ取ること、そして、その神様に対して、自分に価値が無いことを受け止める心です。

私たちが祈る時、私たちはまず、神様がここにおられるということを信じなければなりません。そして、神様は、私たちを造られた偉大なお方なのです。もし、天皇陛下やアメリカ大統領に謁見するとしたら、私たちはどう行動するでしょう?

恐らく、男性はタキシード、女性はドレスを用意し、話す言葉は前もって慎重に選ぶことでしょう。

そこにある姿が謙遜です。ですから、私たちは、神様の前に同じようになれるはずです。

もし、祈る時、もし、私たちが謙遜になれないなら、神様の臨在を感じられず、そして、自分の価値が無いということを認識せずに、祈るならパリサイ人のような祈りになる恐れがあります。ですから、祈る前に、まず、神様の素晴らしさ、偉大さを思うことを勧めます。そのために、私たちは賛美を歌ったり、聖書の御言葉を口ずさんだりすることができます。

ディボーションの書籍によっても、御言葉の前に静まってもいいと思います。

神様の御前で謙遜になるなら、神様は、私たちの祈りを喜んで下さるはずです。

  1. 高くされた者

18:14 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」

イエス様は、義と認められて家に帰ったのは、パリサイ人ではなく、取税人であると言われました。これは、当時のユダヤ人にとって、「あり得ない」ことでした。

さて、本日の本題ですが、イエス様は、なぜ、パリサイ人ではなく、取税人が義と認められたと言われたのでしょうか。

取税人の謙遜の心を見て、神様は義と認めたのでしょうか?それとも、パリサイ人と比較して、取税人が正しいと認めたのでしょうか。取税人が自らを罪人としたからでしょうか。

そうではありません。先に述べましたように、神様は心を見られるお方、神様の前で謙遜は必要なことですが、それによって義と認められた訳ではありません。何故なら、血を流すことがなければ、罪は赦されないからです。罪の赦しによって、人は義と認められるからです。

へブル9:22 律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。

実は、13節にある「罪人の私をあわれんでください」という言葉の意味にヒントがあります。

取税人の祈りは、『神様、罪人の私をあわれんでください。』のただ一言でした。実は、この言葉に、取税人の信仰が隠されています。

この「あわれんでください」という言葉に、「取り返しのつかない罪を神様が負って下さい」という意味があります。取税人は、自分の罪を自分で償うことはできない罪人であることを知っていました。だから、彼は、ただ神様にたより、神様に代わって罪を負って頂くしかなかったのです。そして、この祈りは、イエス様の十字架によって答えられました。すなわち、イエス様が罪人に代わって罪を負ってくださった、贖罪、贖いと言いますが、十字架で死んで罪を負ってくださったことによって、取税人は義と認められたのです。

そして、罪赦された者は、更に価値のある者にされるのです。

Ⅰペテロ2:9に、

「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」

と記されています。

イエス様の十字架によって罪を赦された者は、神様に、選ばれた民族、王の祭司、聖なる国民、神の民、すなわち、価値のある高い者と、見なされるのです。

一方のパリサイ人は、自分の罪を償わなければなりません。これまで彼自身が持っていた自分への賞賛、また、他の人々から受け取った敬いという偽りの装いは、いずれ、神様からはぎ取られ、彼は恥をかく、すなわち、低くされるのです。

このように、たとえに登場する取税人のような信仰の祈りによって、祈りの答えであるイエス様の十字架による罪の赦しによって、聖なる国民、神の民という価値ある者、高くされた者にされます。私たちは、既にイエス様の贖いによって価値あるとされた者ですから、パウロが、更に、次のように勧めている者となります。

ローマ12:1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

勧士 高橋堅治