不正な裁判官と一人のやもめ ルカ18:1~8


前回は、金持ちと貧しい人ラザロのたとえについて、学びました。私たちは、死人から生き返ったお方、イエス様によって、天国の門が開かれており、あのイエス様と一緒に十字架に掛けられた一人の犯罪人とおなじように、人生の最期の最期でも、イエス様を受け入れることでイエス様からパラダイスが約束されることを教えて頂きました。

今日は、ルカの福音書18章から、不正な裁判官と一人のやもめのたとえから学びましょう。

1.再臨と失望

18:1 いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。

イエス様が、このたとえを弟子たちに話したのは、「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるため」でした。

まず、あなたはどうですか?私たちは、よく失望するのではないでしょうか。例えば、朝食のおかずがいつもより一品少なかったとき、また、子供のテストの点数が思ったより低かったとき、更に夫婦で喧嘩したとき、すべて、残念だ、こんなはずではなかったと思います。私たちの失望は、私たちの期待通りにならなかったときに、失望に繋がるのではないでしょうか。

さて、このたとえの冒頭で、イエス様は、どうして、「失望してはいけないことを教え」ようとされたのでしょうか。それは、イエス様のお話が、失望しやすいお話だったからです。ルカの福音書17章20~37節には、世の終わりと、イエス様の再臨について記されているのがわかります。

22節から24節を読みますと、

17:22 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない日が来ます。

17:23 人々は『見よ、あそこだ』とか、『見よ、ここだ』とか言いますが、行ってはいけません。追いかけてもいけません。

17:24 人の子の日、人の子は、稲妻がひらめいて天の端から天の端まで光るのと、ちょうど同じようになります。

この22節には、「あなたがたが、人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない日が着ます」と記されています。これまで、イエス様が語られた再臨の主を見たいと願ってきたクリスチャンたちに語られているのです。今日、イエス様が天に帰られて、すでに2000年が経とうとしています。過去2000年間、私たちの先輩クリスチャンたちは、ずっと、イエス様の再臨の日を待ち続けてきました。

そして、今こそ、イエス様が再臨されると言い、様々な聖書解釈によって、イエス様の再臨がいつ、何時に来るとまでいう人々が表れました。

終末預言には、キリスト教の異端、エホバの証人が1914年にイエス様が再臨すると宣べました。また、韓国のタミ宣教会は、1992年にキリストの再臨があると予言し、2万人もの信者が、韓国で社会的危機と言われるほどの騒ぎを起こしました。ある女性は、再臨が来るというので、妊娠7か月の胎児を中絶した、また、再臨が来ることに耐え切れず4人の信者が自殺した、更に、再臨が来るというので、200人が40日間以上の断食をし、そのうち、ひとりが栄養失調で死んだ。予告された当日、再臨が来るというので、自分の持ちものを燃やしてしまったと言います。ところが、その当日、再臨も何も起こらず、このタミ宣教会は解散したのでした。更に、ウィリアム・ミラーという牧師が、行き過ぎた聖書解釈の結果、1943年にイエス様が再臨すると予言したようです。その再臨運動には6万人もの人々が賛同し、再臨が来るというので、ある人は自分の財産を売り、ある人は仕事を辞めた。ところが、やはり当日、何も起こらなかった。この6万人もの人々は、失望のあまり、ある者は、精神不安に陥り、病院に収容されたのでした。

期待が高ければ高いほど、期待が満たされないときの失望は大きくなります。ところが、聖書には、次のように記されています。

「ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」マタ 24:36

私たちは、このイエス様が言われたことを心に留めておくべきです。聖書に記されているように、イエス様の再臨の日は、いつか、必ず、やって来るということを覚えておかなければなりません。しかし、イエス様が言われるように、私たちには、それがいつなのかは誰も知らないのです。そのため、行き過ぎた聖書解釈による、再臨の予告日があった場合、それを信じてはなりません。それによって、私たちが、イエス様に失望してしまわないためです。

では、私たちは、再臨にどう向き合うべきでしょうか。

2.不正な裁判官と一人のやもめ

18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。

18:3 その町に一人のやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私を訴える人をさばいて、私を守ってください』と言っていた。

18:4 この裁判官はしばらく取り合わなかったが、後になって心の中で考えた。『私は神をも恐れず、人を人とも思わないが、

18:5 このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう。そうでないと、ひっきりなしにやって来て、 私は疲れ果ててしまう。』」

そこで、イエス様は、不正な裁判官と一人のやもめのたとえを話されました。

ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいました。それは、すなわち、自分さえよければいいという身勝手な裁判官です。彼は、自分の為にならない無駄と思える仕事は一切、ひき受けませんでした。

同じ町に、ひとりのやもめがいました。彼女には、彼女を訴えようとする人がいました。彼女は、このままだと、訴えられてしまいます。ですから、彼女は、速やかに、なんとかしなければいけない、と考えました。そして、同じ町の裁判官なら、私のために、訴えようとする人を裁いて、私を守ってくれるかもしれない、と考えました。それは、彼女にとって、かすかな希望だったかもしれませんが、彼女の最後の手段でした。そして、彼女は、裁判所に出向き、裁判官に裁きを求めることにしたのです。

さて、彼女は、裁判所に到着しました。

「ごめんください。ええと、ここに裁判官様がおいででしょうか?」

役人が出てきて、「何事だ?」と尋ねたので、「実は、わたしは、かくかくしかじかの者で、このたび、かくかくしかじかのような理由から、是非、こちらの裁判官様に、私と○○さんとの間を裁いてほしいのですが・・・」。

役人は、「ちょっと、待て」と言って、奥の方に行きました。しばらくすると、戻ってきて、「おい、そこの女、裁判官様は、今は忙しいようで、その方の相手などしている暇はないそうだ。今日は、帰れ」と言いました。彼女は、「しょうがない、突然来たのだから。明日こそ、会ってくれるはずだ」と考え、その日は、帰ることにしました。

そして、翌日、早速、裁判所を訪ねて、再び、「実は、わたしは、かくかくしかじかの者で・・」。役人は、「また、来たのかぁ」と、しかたなさそうに、裁判官に聞きに行きました。また、暫くして、戻って彼女に言いました。「今日も、忙しいから、帰れ」と。彼女は、追い返されましたが、まったく、動じません。それから、毎日、毎日、彼女は裁判所に行き、同じように裁判官に会うのを願いました。そして、役人は、彼女を追い返しました。

役人は、少々うんざりして、裁判官に言いました。「あの女は毎日やってくる。大変だからそろそろ、なんとかしてください」。裁判官は、しょうがないから、今度は自分で彼女を追い返しに行きました。それから、毎日、彼女は裁判官にお願いにあがります。裁判官は、彼女を毎日、追い返すという日が続きました。人に振り回されるのが大嫌いな裁判官は、このやもめに毎日、振り回されるようになったのです。

そして、ある日、とうとう、裁判官はつぶやきました。「私は神をも恐れず、人を人とも思わないが、このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう。そうでないと、ひっきりなしにやって来て、 私は疲れ果ててしまう。』

こうして、ひとりのやもめのしつこい頑固な行動は、裁判官を苦しめ、彼女は裁判官から裁判を勝ち取ったのでした。

3.神のお心に委ねる姿勢

18:6 主は言われた。「不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。

18:7 まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。

18:8 あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

イエス様は、言われました。「不正な裁判官が言っていることを聞きなさい」

不正な裁判官は、最終的に、やもめの訴えを受け入れました。このような、自分の利益しか考えない裁判官すら、このやもめのしつこい訴えを受け入れるのだから、神様は、昼夜を問わず、叫び求める訴えに対して、放っておかれることはないと言われました。

このやもめのように、神様にしつこく祈れば、必ず答えて下さるというのではありません。

イエス様は、神様は、真実なお方で、私たちの訴え、叫びを聞かれ知られ、それをそのままにしておくことは絶対にない。神様を信頼するようにと言われているのです。

故に、私たちは、心配のあまり、間違った期待、行き過ぎた解釈をすべきではないのです。なぜなら、私たちが、失望し、信仰を失くさないためです。

特に、再臨、イエス様がすぐに来られるから、私たちが将来のために備えなかったり、仕事など、やるべきことを怠ることは、間違ったことです。私たちは、神様を信頼すること、神様は、私たちの祈り、私たちの願いを知っておられるのだ、だから、神様を信頼してゆだねていこうとする信仰姿勢が大切なのです。

私は、コロナ感染症によるパンデミックが、今の私たちの社会を不安にし、終末思想をあおっているように思えます。そこに、ロシアとウクライナという戦争があり、もはや、再臨はすぐそこだというように考えるのではないでしょうか。

しかし、歴史を紐解いていくうちに、悲惨だった最近のコロナウィルスのパンデミックやロシアでの戦争以上に悲劇的だったことが過去にあったのを知りました。14世紀、史上最悪のペストが、ヨーロッパを襲いました。このペストにより、2年間で、2億人が亡くなったという記録があり、当時の悲惨さは尋常(じんじょう)ではなかったようです。当時、司祭たちは、ペストの人々を看取るために、病人と接触したため、6割もの司祭が亡くなりました。

当時、彼らは、死を迎えるとき、司祭によって、油を額に塗り、最後の聖餐を受けます。そして、司祭に身体を東の方に向けてもらい、静かに死を迎えるのだそうです。なぜ、身体を東に向けるのか、ヨーロッパでは、イエス様が再臨される場所、エルサレムが東の方向であり、死の床で、イエス様がやがて再臨されるのを待ち望む姿勢で死を迎えるのだそうです。

人々が次々と死にゆく、本当に世の終わりとも思える、そのようなときであっても、彼らには、キリストの再臨を静かに待ち望みながら死を迎えるという姿勢があったのです。これは、実に、神様を信頼し、再臨の主を迎えようとする信仰の姿勢ではないかと思います。

パウロがテサロニケ教会に手紙を送ったとき、テサロニケ教会には、ひとつの問題がありました。それは、やはり、当時もイエス様の再臨が近いと言って、何も仕事をせずに、おせっかいばかり焼いている人たちがいたというのです。

Ⅱテサ3:11 ところが、あなたがたの中には、怠惰な歩みをしている人たち、何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人たちがいると聞いています。

パウロは、

3:12 そのような人たちに、主イエス・キリストによって命じ、勧めます。落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。

と命じました。

私たちは、再臨が近いからと言って、それにより、行うべき生活を放棄するのではなく、自分の死のときですら、再臨を静かに待ち望む姿勢を示すように、神様を信頼して、目を覚まし、自ら身を慎んだ歩みをさせて頂きたいものです。

最後に、テサロニケ第一 5:4~6節を読みます。

Ⅰテサ5:4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。

5:5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。

5:6 ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。

勧士 高橋堅治