生き返った方の言葉を聞く ルカ16:19~31


本日は、金持ちとラザロのたとえを学びます。前回は、不正の管理人のたとえから、私たちにとって、最も価値あるもの、それは永遠のいのちであることを学びました。この金持ちとラザロのたとえを、イエス様は、誰に対して語ったのかが、本日のこのメッセージの大切な鍵となります。もちろん、週報にも記してありますので、ご確認ください。

1.金持ちと貧しい人ラザロ

ルカ16:19 ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

16:20 その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。

16:21 彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。

このたとえの中には、金持ちと貧しい人ラザロという二人の人物が登場します。この二人の人生は、大きくかけ離れていました。金持ちは、紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日をぜいたくに遊び暮らしたとあります。紫色の衣は、当時、王族や貴族など身分が高い人が着る服でした。そして、亜麻布も、当時はとても高価なものであったのです。金持ちは、自分がとても尊い人間であると思っていましたので、高貴な人が着る服装を自ら身に着けていました。更に、彼が持つ多くの金銀によって、彼は、その人生を謳歌していたのです。

一方、貧しい人はどうでしょう。彼は、金持ちの門前に寝ていたといいますから、彼には住む家がありませんでした。そして、彼は、金持ちの食卓から落ちる物で、お腹を満たしたいと願うほど、食べ物に困っていました。当時、裕福な人々が食事をするとき、食器をパンで拭くという習慣がありました。このパンは、汚れたものとして捨てられるのですが、貧しい人は、そのパンを食べたいと思ったのです。この貧しい人には、身体の至る所にできものがあり、犬がやってきて、そのできものを舐めていたというのです。

このたとえは、ルカの福音書14節に、イエス様の不正の管理人のたとえを聞いた、金銭を好むパリサイ人たち、すなわち金持ちのパリサイ人が、イエス様をあざ笑った、イエス様のことを馬鹿にしたのがきっかけでした。イエス様は、「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。」と言い、このたとえをもって、彼らに警告したのでした。

ルカ16:14 金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた。

16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。

パリサイ人はユダヤ社会の指導者階級に位置し、裕福な人々でした。そして、パリサイ人の考えには、金持ちは神様に祝福された者であると信じ、自分がいかに尊く裕福であるかを、人々に見せびらかすために、豪華な服装とぜいたくな暮らしをしたのでした。

このように、このたとえに登場する金持ちは、まさにパリサイ人を示しています。

ルカ16:15では、パリサイ人らを「人々の前で正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じ」と言いました。パリサイ人は、見栄のために、自分自身を着飾り、神様に祝福された者のように振舞うのですが、実際、その心の内は、強欲と放縦に満ちており、神様から忌み嫌われる者であるというのです。

マタ 23:25 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。

それでは、この貧しい人とは誰でしょうか?

イエス様のたとえで、名前のある人物が登場することは珍しいのです。ですから、ここに、イエス様の意図があるはずです。しかしながら、このラザロは誰か?ということについては、様々な解釈があるようです。

ひとつに、ラザロという名前は、新約聖書には、このたとえにあるラザロと、ベタニア村のマルタとマリヤの弟ラザロが登場します。しかも、ベタニア村のラザロは、病気で死んだ後、イエス様によって死から蘇りました。ゆえに、このたとえのラザロは、このベタニア村のラザロではないかという考え方があります。それは、よみがえったラザロを殺そうと相談したとあるように、ラザロのよみがえりが、イエス様を証ししたからです。すなわち、もし、この人物がベタニア村のラザロであれば、イエス様の証し人を指し示していると言えます。

ヨハ 12:10 祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。

更に、もうひとつ、このラザロという名前を、ヘブル語にすると、エレアザルという名前になります。エレアザルは、アロンの子で大祭司です。そして、その名エレアザルは、神の助け手、神の仲保者という意味をもっており、キリストの型(タイプ)であるとも言われています。だとすれば、このたとえの大祭司の名を持つ貧しい人は、金持ちに象徴されたパリサイ人らから、軽蔑され、ご自身の家であるユダヤ人の社会から追い出され、そして、その体には病を負っていた、そう、イザヤ書53:3で記されているイエス様のお姿を示しており、イエス様ご自身であるという解釈もあります。

イザヤ53:3 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。

従って、このたとえは、一見、金持ちと貧しい人との対比に見えますが、金持ちが見栄を張り、人々から尊いと思われることを好んだパリサイ人、貧しい人ラザロがイエス様を証しする者、若しくはイエス様ご自身として、対極的に構成されているのです。

そして、たとえは、金持ちの生前と死後の状態に焦点が当てられます。

ヨハネ15:19 もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。

2.死後の定め

16:22 しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。

16:23 金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。

16:24 金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』

16:25 するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。

16:26 そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』

しばらくして、この貧しい人が死にます。この貧しい人は、御使いたちに迎えられ、アブラハムの懐に連れていかれます。アブラハムの懐とは、天国を表します。ユダヤ人の先祖アブラハムは、ユダヤ人の希望であり、ユダヤ人は、天国に行って、アブラハムの懐、すなわち、その隣で宴会に参加することが望みでした。

その後、金持ちが死んで葬られました。彼は、しもべらによって盛大に葬られました。

しかし、金持ちは、黄泉で苦しみながら目を上げたとあります。そして、金持ちのところから、天国にいるアブラハムとラザロが見えたというのです。

聖書には、死後の世界についての、色々な言葉があります。

天国と等しい言葉は、このアブラハムの懐の他、ルカ24章43節に記されたパラダイスがあります。

地獄は、ゲヘナとも呼ばれ、それはユダヤにあるベン・ヒノムの谷のことを言います。この谷には、当時、犯罪者の死体、動物の死骸、また、あらゆる汚物が廃棄された場所で、病気を防止するため、絶えず、火が燃えていたところだったようです。聖書では、火の池とも言われています。

更に、黄泉とよばれる中間状態があるようです。ギリシア語でハデス、ヘブル語でシュオールと言い、最後の審判前まで、死者がいる場所と言われています。

黙 20:13 海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。

黙 20:14 それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。

そして、この死んだ金持ちは、黄泉にいたと記されています。

金持ちは、その黄泉での苦しみを感じていました。そこで、彼はアブラハムに叫びました。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』

金持ちは、ラザロをみつけて、アブラハムにラザロを黄泉に送るように願ったのです。それは、彼の舌を冷やしたいから、炎の苦しみから逃れるためでした。25節のように、アブラハムの答えは、金持ちに、生きている間を思い出し、死んだいまのことを認めよということでした。これは現実を認め受け入れよ、という厳しい答えです。更に、天国と黄泉では大きな淵があり、渡ることができないこと、すなわち、一度、入ったら最後、そこから抜け出すことが出来ない、これが死後の定めなのです。これが、地獄や黄泉には、もはや後悔しかないと言われる所以かもしれません。

ここで、私たちが学ぶべきことは、聖書が語る死後の定めは、すべて生前に決定するということです。この死後の定めは、私たちが死んだ後、どうやろうとも、何も変えることができない定めというのです。

私たちの寿命は、80年余り、長くても100年程度と言われています。一方で、私たちの死後は、永遠に続くのです。それが、たとえのように、黄泉のような苦しみの場所であるなら、その苦しみは永遠に続くということになります。それは、恐ろしいことです。それであるから、不正の管理人のたとえで、イエス様は、世の富を用いてでも、すなわち、どんなことをしても、天国に入りなさい、永遠のいのちを得なさいと言われたのです。この聖書の言葉が真実であるなら、私たちにとって、これほど、重大なことは無いのですから。

神様は、私たち人間に、永遠を思う想いを与えられました。それゆえに、私たちは、死後の世界を考えるのだと思います。

死後の世界なら、仏教の教えもあるではないかとお思いの方もいると思います。しかし、実は仏教には、本来、死後の世界の教えはないといいます。極楽浄土という思想は、後になって、中近東から伝来した思想が仏教に取り込まれたのだそうです。現在、仏式による葬式、先祖供養が行われていますが、仏教は死後を扱う宗教ではなく、生きている人間のための宗教なのだそうです。すなわち、どう生きるかを問う宗教であり、ある面、哲学と言っても良いのかもしれません。ところが、葬式仏教になった理由は、江戸幕府のキリスト教禁令によって、キリスト教の葬式を禁じるために、江戸幕府が仏式の葬式を強要したためなのです。そのため、葬式仏教をよしとしない仏教者も多くおられるようです。

一方、キリスト教は、死と死後のいのちに目を留め、イエス様の十字架の死と復活による永遠のいのちを持つことによって、今をいかに生きるかを問う宗教だと言えます。このたとえのように、私たちの生きている今、現在が、私たちの死後を定めるものと教えており、私たちは、いま現在を、いかに生きるか、真剣に考える必要があるのです。

3.生き返った方の言葉を聞く

16:27 金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。

16:28 私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』

16:29 しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』

16:30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』

16:31 アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

金持ちは、もはや、黄泉での苦しみから逃れることができないと悟りました。そこで、彼はアブラハムに、別のお願いをします。それは、ラザロを自分の家族に送ることでした。金持ちには、兄弟が5人いて、彼らがこんなに苦しい場所に来ることがないように警告してくださいという願いでした。彼は、死んだ者が生き返って、彼らのところに行けば、彼らが悔い改めるはずだと考えていました。しかし、アブラハムの答えは、NOでした。それは、「彼らにはモーセと預言者がいる」からです。「モーセと預言者」とは、律法と神の御言葉、すなわち、聖書です。聖書の御言葉に耳を傾けないなら、死人から生き返った人の言葉も、受け入れることはしないと答えたのです。

金持ちは、パリサイ人を表しており、その兄弟5人は、ユダヤ人たちを表しています。ユダヤ人は、神様から、聖書を賜りました。しかし、彼らは、聖書に記された神様の御言葉を受け入れませんでした。そればかりか、救い主であるイエス様を十字架にかけて殺したのです。イエス様は復活しましたが、ユダヤ人の中で、死人の中から生き返った方、復活の主を聞き入れる者がほとんどいなかったのでした。

ここまでが、たとえによる、金銭を好むパリサイ人らに語った、イエス様の警告です。

さて、私たちの場合はどうなのでしょうか。

私たちは、この「死人の中から生き返った方」、イエス様の御言葉を聞き入れ、悔い改めて、神様のもとに返ることができます。それは、復活の主、イエス様の御言葉を聞き入れることで、私たちに天国への門が開かれるのです。

ただし、現代の私たちにも、私たちの生前の生き方、イエス様の福音を受け入れるか否かが、死後の私たちの定めを決定づけると聖書は述べております。ですから、私たちは、今日、死人の中から生き返った方の声を聞き、その福音を受け入れること、すなわち、イエス様が、私の背きの罪のために十字架に架かられたこと、イエス様の復活のいのちを頂き、私も永遠のいのちに生きる者とされたことを信じる必要があるのです。

ルカの福音書24章では、一人の犯罪人が十字架上で、その死の直前に、イエス様を信じ、イエス様から、パラダイスに行く約束を頂きました。彼の信仰告白、それは、ただ、ひとこと、

ルカ23:42「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」だけでした。

しかし、私たちが、どのような者であっても、そして、たとえ死の直前であっても、その小さなひとことで、イエス様は、私たちを天国に導かれるのです。

ルカ23:43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

ですから、既にイエス様を信じている私たちは、イエス様から頂く天国の希望をもって人生を最期まで歩んではいかがでしょう。更に、愛する私たちの隣人、家族、親族に、私たちの救い主キリストを、どんなときでも証ししてはいかがでしょうか。

勧士 高橋堅治