光の子らの愚かさ、賢さ(不正な管理人) ルカ16:1~13


前回までは、神様は、神様から離れた人を捜すお方であり、見つかったら大いに喜ばれること、私たちは神様の子供である存在であり、神様は、持ち物や能力ではなく、その存在を大切にされるお方であることを学びました。

本日は、16章にある「不正な管理人」のたとえから、学びたいと思います。

15章では、イエス様は、パリサイ人、律法学者らにたとえでお話をされましたが、16章では、弟子たちに対して話されております。

今日の聖書については、次の3つに分けました。1節から7節までが、不正な管理人、8節を光の子らの愚かさ、9節から13節を光の子らの賢さと小題を付けさせて頂きました。

1.不正な管理人(1~7節)

16:1 イエスは弟子たちに対しても、次のように語られた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この管理人が主人の財産を無駄遣いしている、という訴えが主人にあった。

16:2 主人は彼を呼んで言った。『おまえについて聞いたこの話は何なのか。会計の報告を出しなさい。もうおまえに、管理を任せておくわけにはいかない。』

16:3 管理人は心の中で考えた。『どうしよう。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力はないし、物乞いをするのは恥ずかしい。

16:4 分かった、こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、人々が私を家に迎えてくれるようにすればよいのだ。』

16:5 そこで彼は、主人の債務者たちを一人ひとり呼んで、最初の人に、『私の主人に、いくら借りがありますか』と言った。

16:6 その人は『油百バテ』と答えた。すると彼は、『あなたの証文を受け取り、座ってすぐに五十と書きなさい』と言った。

16:7 それから別の人に、『あなたは、いくら借りがありますか』と言うと、その人は『小麦百コル』と答えた。彼は、『あなたの証文を受け取り、八十と書きなさい』と言った。

金持ちは、ひとりの管理人に自分の財産を管理させていました(1節)。(今でいうと、管理人は雇われ社長のようなものです。)そして、管理者を悪く思う人か、何者かがこの管理人の無駄遣いを知って、金持ちに密告したのです。金持ちは、さっそく管理人を呼び、管理人を叱り、最後通告を告げました。「お前はくびだ!会計報告を出せ!」と(2節)。

そこで、この管理人は非常に困りました。今までは、金持ちの主人のお金を浪費しつつも、管理していたのが、もし、管理人を辞めさせられたら、彼は生きていくことができなくなります。彼は、カネ勘定は得意であっても、力仕事は無理、乞食になることは自分のプライドが許さないと、考え抜いた上で、今、管理している金持ちの金を使って恩を売り、借りている人々が家に迎えてくれるようにすればいいという結論に至りました(3,4節)。

ここでは、油と小麦が出てきます。ある人が金持ちに油を借りていたのです。当然、管理人はその貸し借りを管理していました。ある人が返さないといけない油の証文が100パテでした。そして、管理人は、油を借りていた人に恩を売るために、その証文を半分の50パテに書き換えてしまったのです。これでは、油を借りていた人は喜ぶはずですが、金持ちは怒ります。ところが、この管理人のひとつの賢さは、金持ちにも配慮したことです。当時の利子は、貸したものの種類で違いました。油の場合、借りた量と等しい量の利子がかけられ、50パテの油を借りたら、100パテの油を返すのが通例でした。管理人は利子を0にしたのです。ですから、金持ちの持つ油の量は元本割れしません。小麦も同様で、小麦の利子は25%でした。小麦を借りた人は、80コルを借りて、100コルの返済義務がありました。管理人は、元本である80コルに値引いたのです。すなわち、金持ちの元本を守りながら、利子を値引いて人々に恩を売ったのです。

ちなみに、この利子を現在の金額で計算すると、油でおよそ100万円相当、小麦だと150万円ほどになるようです。

(油の値段は、オリーブ油1リットルで約540円。100パテだと200万円ぐらいである。すなわち、この人は200万円を100万円にしてもらった。麦100コル、1コルが370リットルだから、37000リットルとなる。小麦は1kgの価格がおおよそ300円。比重が0.7なので1リットルなら、700gなので210円/リットル。すなわち、1コルの金額は、370×210円=77,700円37000リットルだと、777万円となる。)

このように、管理人は、自分のいのちを守るため、金持ちの富を用いて、人々に恩を売ったのでした。

このたとえの金持ちは神様であり、神様は、私たち人間に神様の財産を管理するように委ねられました。すなわち、この管理人こそ、人間を指しています。私たちは、神様から預かったものを適切に管理するようにと、神様から委ねられています。この財産は、私たちの身体、健康、富、そして時間もそうかもしれません。神様は、私たちの無駄遣いを見抜かれます。神様からお預かりしたものを無駄遣いしてしまったということもご存じなのです。それは、本来、使うべきところに使わず、自分のために浪費することです。十分な管理ができていないことを知られるのです。そして、神様からの最後通告があります。私たちは、この浪費した財産を神様にお返しすること、死をやがて迎えます。そして、私たちは、会計報告、すなわち、裁きをうけることになるのです。

聖書には、私たちのすべてが、死ぬことと、死んだ後にさばきを受けると言っています。

ヘブル

9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている

聖書に記されている通りに、私たちが、死ぬこと、死後にさばきを受ける者であるとしたら、管理人のように、私たちは、自分のいのちを守るため、私たちが定まっている死と裁きから逃れるためにどうしたらよいか、私たちは十分に考える必要があるのではないのでしょうか。

2.光の子らの愚かさ(8節)

16:8 主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。

主人は、不正をした管理人のその賢く行動したのをほめたとあります。これは、ありえないことです。イエス様のたとえで、イエス様が特に強調して述べたい事柄は、このありえないと思われる箇所にあります。この主人は神様ですから、神様が、管理人が自分のために悪知恵を働かせた行為自体を良いとはしていません。神様は、管理人が、他人の富を用いて、不正をしてでも、自分のいのちを守ろうとした行動そのものを、あっぱれと言ったのです。彼が、富よりも、自分のいのちを大切に取り扱ったからです。

一方、光の子ら、すなわち、たとえを話している相手であるイエス様の弟子たちであり、神様を信じている人々、そして、クリスチャンたちは、彼らに比べて、一見、愚かのようにみえます。

へブル人への手紙11:36-38に、

11:36 また、ほかの人たちは嘲られ、むちで打たれ、さらに鎖につながれて牢に入れられる経験をし、

11:37 また、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、困窮し、圧迫され、虐待されました。

11:38 この世は彼らにふさわしくありませんでした。彼らは荒野、山、洞穴、地の穴をさまよいました。

とあるように、彼らは、信仰の故に、その生活、そしていのちをも失くすからです。

もし、これが不正の管理人、この世の子らであれば、どのように世渡りをするかは一目瞭然です。あざけられ、むち打たれること、牢に入れられること、様々な迫害を負うことも、その時代の人々の上手い扱い、すなわち、上手い世渡りによって回避したことでしょう。相対して、光の子ら、神様に従う人々の行動は、愚かに見えます。

みなさんは、浦上四番崩れという話を聞いたことがあるでしょうか。江戸幕府は、キリスト教禁止令を出して、クリスチャンを仏教に改宗させ、改宗しないものを処刑するという政策をしました。

この影響は、少なからずも現代に残っており、村八分、檀家制度、そして、本来の仏教の教えに無い教えを組み込んだ葬式仏教という風習は、江戸幕府のキリスト教禁止令の政策によるものです。

江戸幕府の末期、1864年にカトリックの神父が来日し、長崎に大浦天主堂を建てました。そのとき、それまでに隠れて信仰を守ってきたクリスチャン、すなわち、隠れキリシタンが名乗り出て、キリスト教信仰を表明しました。1867年に浦上村の信徒らが仏式の葬式を受けることを拒否し、68名が捕縛されました。江戸幕府が倒れ、明治政府になった1868年に、長崎の信徒らが次々と捕縛され、厳しい拷問や処刑されたようです。もし、彼らが、保身を考え、仏式の葬式を拒否せず、また、信仰を表明しなければ、隠し通せば、拷問を受けて、死ぬことはありませんでした。しかし、彼らは、彼らの信仰を表明し、自ら捕縛のために手を差し出し、拷問、処刑に従ったというのです。

これは、一見、非常に愚かなように見えます。彼らは、信仰のために、自分のいのちを差し出したのですから。

イエス様は言われました、「世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢い」、逆に言えば、光の子らには、時代を超えた真の賢さを持っているというのではないでしょうか。

3.光の子らの賢さ

16:9 わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。

16:10 最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。

16:11 ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。

16:12 また、他人のものに忠実でなければ、だれがあなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか。

16:13 どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」

ならば、光の子らの賢さとは何でしょうか。

9節にあるように、イエス様は、不正の富、この世の富を用いてでも、友だちを作れと言われます。それは、天国に迎えられるためです。管理人が自分のいのちを守るために富を用いたように、イエス様は、私たちに、天国に入るために富さえも用いよというのです。

このことは、不正な管理人の富を用いて一時の地上のいのちを守る行動を賢いとするなら、もっと価値がある永遠のいのちを得る行動は、更に賢いということなのです。

ですから、富や金に、奴隷のように仕える必要はないのです。富や金は、私たちが管理し、用いるもので、それらは、永遠のいのちに比べて、ずっと価値の低いものであるのです。

迫害を受け、それに耐え抜いて来られた先輩のクリスチャンたちをもう一度、思い起こしてみましょう。そこには、隠れキリシタンらもいます。彼らの主人は、神様でした。彼らは、その主人のために、委ねられた富、財産、身体、そして、地上のいのちですら、手放しました。それは、彼らは地上のものではなく、彼らのために用意された、永遠のいのちに希望をもっていたからです。

教父と呼ばれる一人にポリュカルポスという人物がおります。ポリュカルポスは、スミルナ教会の監督でした。この教会は、黙示録2:8-10にも記されているように、ローマ帝国から厳しい迫害を受けていた教会でした。

2:8 また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり終わりである方、死んでよみがえられた方が、こう言われる──。

2:9 わたしは、あなたの苦難と貧しさを知っている。だが、あなたは富んでいるのだ。ユダヤ人だと自称しているが実はそうでない者たち、サタンの会衆である者たちから、ののしられていることも、わたしは知っている。

2:10 あなたが受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない。見よ。悪魔は試すために、あなたがたのうちのだれかを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあう。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。

この教会の監督ポリュカルポスが捕らえられ、彼は競技場に引き出されたのです。ローマの総督は、このポリュカルポスに言います「お前はいい年をして、少し自分を大切にしたらどうだ。皇帝陛下の守護神にかけて誓うがよい。そして、悔い改めて、無神論者(キリスト教徒)は滅びよ、というがよい」と。ポリュカルポスは厳しい顔で、競技場に集まった異教徒をみつめ、手でさして、ため息をつき天を仰ぎつつ、「無神論者ども(異教徒)は滅びるがよい」と言いました。更に総督は「誓え、誓ったら釈放してやろう。そしてキリストをそしるがよい」と。ポリュカルポスは答えました「私は86年間もキリスト様にお仕えして参ったが、ただの一度たりとも、キリスト様は私に対して不正を加え給うようなことはなさらなかった。どうして、私が、私を救い給うた王を冒涜するようなことができようか。」こうして、ポリュカルポスは生きたままで火刑にされてしまいました。彼の火刑での姿は、この物語に記されていますが、見ていたすべての群衆が驚いたと記されているほど、神様の栄光を表すものでした。

私は、ここに、自らのいのちすら省みない光の子の愚かさを感じました。一方、「私を救い給う王を冒涜することができようか」と、イエス様の十字架のご愛を受けた者だけがもつ気高さ、実に、2000年という時代を超えても、今もなお色あせない、麗しいほどに私たちを感動させる姿、光の子の賢さがそこにあると思います。

さて、私たちの番です。

私たちには、このポリュカルポスの時代のような命をも奪われるような迫害はありません。また、隠れキリシタンの時代のような、国家によるキリスト教禁令もありません。

しかし、私たちは今もなお、日本の人口の1パーセント未満の僅かな者です。私たちの生き方や考え方は、他の人々から見れば、他の人と相容れることができない者、変わり者、愚か者に見えるかもしれません。そして、自分の生き方や考え方が違っていることに気付くとき、心細くなったり、不安になったりするかもしれません。

そんなとき、ヨハネの福音書21章でイエス様とペテロの間で交わされた、この言葉を思い起こしてください。

イエス様はあなたに問いかけられます。「あなたはわたしを愛していますか」

貴方は何と答えればいいでしょうか。ペテロのように、ただ、

「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と答えるのです。このように、イエス様との愛の関係を確認するのです。

その応答に、イエス様は次のようにお答え下さるはずです。

また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。 マタイ19:29

勧士 高橋堅治