溺愛する神(放蕩息子のたとえ) ルカ15:11~32


前回は、100匹の羊、10枚の銀貨のたとえから、神様は失われた者、神様から離れた者を捜される方、そして、見つけたら大喜びをなさるお方であることを学びました。

本日は、有名な放蕩息子のたとえを一緒に学びましょう。この放蕩息子のたとえは、福音書の中の福音書と言われ、今まで多くの絵や音楽、劇などで表現され、人々に愛された物語です。この物語は、またの名を「失われた息子のたとえ」とも呼ばれています。その多くは、24節までの記述、放蕩息子である弟を中心にしておりますが、本日は少し欲張って、このたとえ全体、すなわち、32節までを駆け足で学び、ここに表された父なる神様のご愛を共に学びたいと思います。

さきほど、読んで頂いた11節から32節までを3つに分けると、11から20節までを放蕩息子、21から24節までを溺愛の父、25から32節は父と兄息子と名付けてみました。この物語は、

  1. 父親に、二人の息子がいて、弟の方が遠い外国で放蕩に明け暮れ、財産を失い、飢えて死にそうになる。弟は我に返って、父のもとに向かうことを決心する。
  2. 弟が父の元にかえり、父は息子が帰ったのを喜び、祝宴を開く。
  3. 兄は、弟が帰って、父が祝宴を開くことを聞き嫉妬する。そんな息子を父はなだめるという物語です。

このたとえは、ルカの福音書15章の百匹の羊のたとえ、10枚の銀貨のたとえの続き、三つ目のたとえで、食事のとき、イエス様のお話を聞こうと集まってきた取税人、罪人をみて、パリサイ人、律法学者がイエス様に対して文句を言ったことがきっかけでイエス様が話されたものです。このたとえの登場人物は、主に父、二人の息子で、父が神様、兄がパリサイ人や律法学者のような、神様に従い正しく生きようとする人、弟が取税人、罪人のような、神様から離れている人と表現しています。

1.放蕩息子(11~20節)

11節:父には二人の息子がいました。12節:弟のほうが、父親に、財産を分けてほしいと言い、父親は弟息子の言うとおりにしてやったというのです。父親の存命中に財産を分けるのは罪のように思えますが、当時のユダヤではいけない訳ではなく、また、父親は息子の意思を大切にて分けてやりました。父の財産とは、神様が父親とすれば、私たちが神様から頂いている身体、健康、様々な能力などの賜物を表します。私たちは、生まれてこのかた、神様から多くの財産を分けてもらっているのです。私たちのこの財産は、使い方を制限されず、私たちが使い方を決め、自由に用いることが許されています。すなわち、神様や人々のために使うことも、自分だけのために使うことも許されているのです。

13節:財産を分けてもらった弟の方は、父親の元から遠い国に旅立ってしまいました。弟は、父親のあまりに厳しいしつけが嫌だったのかもしれません。遠い国に旅立つとは、私たちが神様から離れて、自由気ままな生活を行う、神様のいない生活を表しています。また、私たちは、聖書の道徳的な様々な掟、たとえば、嘘をついてはならない、と言われることを聞くのはあまり好きではないと思います。

みなさんは、厳しい親の言葉の裏に、子供を守りたいという気持ちがあることをご存じだと思います。そのように、父なる神様の教え、聖書の御言葉も、本当は私たちが生きていく上で、私たちの人生を守るものなのです。

たとえば、出エジプト記 20:6には、このように記されています。

わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

13節:さて、弟は遠い国で放蕩して、財産を湯水のように使ってしまったとあります。神様のいない生活では、私たち自身を制限するものはなく、実は身勝手な生活に陥いるのです。それが原因で、本来、神様から頂いた私たちの財産である身体、健康や能力をダメにしてしまうことがあります。特に、弟のように、飢饉に出会う、それは、私たちに思いがけない不幸が訪れたときかもしれません、そのようなとき、身体、健康を壊し、能力が低下している状態では、惨めな経験をするかもしれません。このようなとき、私たちは、人生を振り返って、どうしてこうなったのか?、ああしておけばよかったのに・・・、思い巡らすかもしれません。しかし、いくら後悔しても、何の解決にもならないのです。

17節:このとき、弟は我に返ったのです。我に返るとは、他の事に気を取られていたのが、正しい心に返るという意味です。弟は、自分の財産を失った、食べるものすら誰も与えてくれない、飢えて死にそうだと、彼のその状態に気を取られていました。ところが、そのとき、彼は正しい心に返ったのです。弟の正しい心とは何でしょうか。それは、父親の愛に気付くということでした。弟は、「父のところには、食べ物で困っていない雇人が大勢いる」とあるように、雇人をも大切に養う父を思い出したのです。ましてや、父が息子の自分を深く愛していたことを、彼は思い起こしたのです。それなのに、「息子の私は飢えて死のうとしている」。父の愛を受けてきた息子の自分が、今、ここに死のうとしているという事実をみつめました。ここで弟は、父の愛を知り、彼がその父から離れたことが、問題の根源であることに気付いたのです。彼は、父の元にかえることを決めました。さらに、神様に対して、そして、父に対して罪を犯したことを詫びたいと願いました。いままで父の愛を受けながら、それを知らなかった。更にその愛を裏切るような自分には、父の息子に相応しくないとまで思ったのです。

私は、以前に教会学校の教師をしていました。子供たちに神様の教えを教えていたのですが、その御言葉を自分が守れないことに悩みました。私は、いつも「お前は偽善者だ」という心の声が聞こえていました。私はそれが嫌で教会から離れてしまいました。それから、私は、自由だ、もう教会にはいかなくていいと、自分勝手な生活をしました。しかし、ふと、寂しさを感じました。喜びが無いということに気付いていたのです。

仕事先での学歴不足に悩み、うつ病を発症した私は、仕事を辞め、大学に入学しました。ところが、入学後、夢にみた大学生活がむなしく、つまらないものであり、学歴ばかりに目を留めた自分が情けなくなりました。こんなとき、俺は今まで何をしてきたのか?と考え続けました。私は、他の学生との交わりもせず、一人、下宿に住んでいました。私は他の学生とは違うんだと思っていたのです。ある日、私は風邪をひき、熱でうなされていました。私は、これまで親を心配させ、負担をかけてきたこと、大学入学が自分の希望とはかけ離れたものであったと思いました。そして、喜びが無い自分、神様から離れた自分をそこに見つけたのです。私は、もう一度、戻れるなら、神様のところに戻りたいと思い、「神様、助けて下さい」と祈りました。

みなさんも、是非、思い返してみてください。みなさんが、イエス様に出会った頃のことを。どのような出来事がきっかけで教会に出向いたのでしょうか。恐らく、それぞれに、人生の壁にぶつかり、思い悩んだ体験があったはずです。そして、あるとき、イエス様に出会い、神様の愛を知った。そして、その神様のご愛を受け入れたいと願った。

みなさんのそれぞれが、この弟のような放蕩息子、放蕩娘であったと思います。

2.溺愛の父

20節:さて、弟は遠い国の地から自分の父のもとへ向かいました。彼には、以前、父を離れ旅立った時のような豪華な服はなく、たくさんの持ち物もない、裸足でボロボロの服を身にまとい、ただ、父の家に向かって帰って行ったのです。

ここに、この弟の帰りをずっと待っていた人がいました。それは、この息子の父親です。父は、遠い国に旅立った息子の安否をいつも気にしていました。元気なのか、病気になっていないか。旅立った後、父は、安否の知らせで、息子が放蕩で身を持ち崩したことを知りました。そして、その後、息子の安否が途絶えてしまった。父は、どのように思ったことでしょう。おそらく、息子を心配し、眠れぬ日が続いたかもしれません。そして、父親は、息子を捜しました。

だから、父親は、まだ家から遠くにる息子を見つけることが出来たのです。

遠くに、ボロボロな服を着て、唯一人、とぼとぼと歩いてくる人影を見つけました。

私の息子ではないか? 私の息子ではないか?・・・私の息子だ!

息子を見つけた父親は、もういてもたってもいられません。

息子の哀れな姿をみて、かわいそうでたまりません。

どうしたんだ、これほどまでになって、一体、何があったのか、ああ、なんとやつれてしまったのか、ただ、無事に帰ってきてくれたことが嬉しい・・・

父親は急いで息子の元に駆け寄り、彼を抱き寄せました。そして、嬉しさのあまり、何度も息子に熱いくちづけしたのです。

ここには、神様から離れた人を待ち、見つけたときの神様の姿が表現されています。

神様は、私たちに自由意志を与えました。そして、私たちが神様から離れて人生を歩むこともお認めになっておられます。それは、神様は、私たちを奴隷としてではなく、自らが自由意志をもって歩むように、神様に似て造られた者だからです。

私たちは、神様のように造られたものですから、私たちの感情や行動も神様に似ています。私たちは、私たちを愛してくれる者、たとえば、祖父母、両親などのやさしさを懐かしむことがあります。それは、一途に、また、どんな私たちであろうと、私たちを大事にし、私たちを愛して下さるからです。よく、盲目のように愛すること、特に、親や祖父母が子供や孫を愛する姿を溺愛と言います。私は、溺愛とは、その相手の存在を認め、心から大切にしようとする愛の表れだと思います。私は、この溺愛こそが、神様のように造られた人間が持つ、神様のご愛に似た愛だと思います。父が弟を愛する愛は、まさに神様が神様から離れた人を愛する愛を表しています。神様の愛は、溺愛なのです。

神様は、人の存在価値を認めて下さるのです。ですから、神様の元を離れ、神様にとって失われている人の状態に深い悲しみをもっておられます。神様の願いは、神様の前に存在すること、失われていないことなのです。ですから、もし、失われた人がいるなら、神様はその失われた人を捜すのです。

私は、神学校でカウンセリングの学びをしました。カウンセリングでは、相手に存在感と安心感を与えることが必要で、何かの意見などで人から否定されると存在も否定されると考えてしまいやすいそうです。逆に、存在感を高めるために、人を誉めることが必要だそうです。私たちは、人を誉めるということは普段、あまりしないので実はとても難しいと思います。誉めるうえで一番重要なのは、存在を誉めることだそうです。存在を誉めるとは、このような例を教えて頂きました。音楽の授業をしているとき、ベートーベンを暗譜で弾けてしまう男の子がいるそうです。学校の先生は、「A君すごいな、将来、名ピアニストになれるね」と言ったそうです。これは、その人の能力を誉めていることです。彼は褒められたことに嬉しくないといったようです。音楽の先生は「A君の演奏を聴いていると、ベートーベンが大好きなA君の気持ちが伝わってくるよ」と褒めてくれる。それが嬉しいと言ったようです。存在を誉めるとはこういうことのようです。神様も、私たちの存在を大切にしておられるのです。

21節:さて、抱き寄せられた弟は、あらかじめ、言おうとしていた父への言葉を語り出します。彼が、「息子と呼ばれる資格はありません。」と言ったとき、父は、しもべたちに言いました。22節:「急いで一番良い衣をもってきて、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履物をはかせなさい」。父親は、息子から「雇い人の一人にしてください」という言葉を阻んだのです。そして、父親は、自分の息子である身分を表す、服、指輪、靴を与えるのです。更に、牛を屠るという大宴会を行おうとするというのです。

24節:父にとっても、息子は、ずっと、自分の息子でした。ただ、その息子が死んでいた、いなくなっていたのですが、父親のもとから離れていた息子が見つかったことを、父親は喜んだのです。

父なる神様のご愛は、私たちの存在価値を認めてくださるだけでなく、私たちを、本来の神の子たる身分の状態に回復してくださるのです。雇人、すなわち、神様の奴隷にするのではなく、私たちを、本来あるべき姿である、神の子どもに戻してくださるのです。そのために、私たちの汚れた罪でぼろぼろになった衣からイエス様の血によって浄められた衣に着替え、罪の奴隷の状態から、永遠のいのちのしるしが入った聖霊の指輪をつけ、傷と痛みを伴う汚れた裸足を、神様の福音の土台(エペソ6:15)が与えられるのです。そして、神様は、屠られたイエス様の血潮と御身体をお与えになる聖餐に招いて下さるのです。それは、私たちが神の子たる身分をもったことに対する、父なる神様の喜びの表現なのです。

ガラ

4:4 しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。

4:5 それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。

4:6 そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

4:7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。

3.父と兄息子

さて、この父にはもうひとりの息子、兄息子がいました。25節:彼は、父親に忠実な息子で、いつも父親に従って生活をしていました。彼は、いつものように、畑で仕事をしていたのですが、家に近づいたとき、家の中から音楽や踊りの音が聞こえてくるではありませんか。26節:そこで、兄は、しもべの一人に尋ねたのです。27節:しもべは、兄に、弟が帰ってきて、弟にために父が宴会を開こうとしていことを話しました。兄は、弟が父親の財産をもって遠くの国に行って、財産を食いつぶしてしまったということを知っていました。28節:そんな弟に対して、父親が、宴会を開こうとしていることに、兄は腹が立って仕方がありませんでした。そのため、兄は、家に入らかなったのです。兄が家にはいろうとしないので、父親が出てきて、兄をなだめました。29,30節:彼は父親にずっと従ってきた、父親の言う戒めを破ることもしていない。それなのに、こんな忠実な私には何もしてくれない。このように、兄は弟に嫉妬をしたのでした。

父は、弟と違って、兄を憎んでいたのでしょうか?いいえ、違います。父は兄を愛していました。その証拠に、父は自ら、兄といつも一緒にいること、そして父のものはすべてが兄のものであることを知らせました。そして、兄が外ですねているのを知って、父自ら兄の元に行ったのです。弟に対する一時的な激しい愛の表現ではなくても、父にとって、兄も大切な存在、愛する存在なのです。でも、父は、今は、失っていた弟が見つかったのだから、家族として喜び祝うのが当然ではないか、兄に、弟の存在を一緒に喜んでほしいと願ったのでした。

弟は父の元に帰り、宴会の座につきました。兄はどうかというと、家の外で怒ったまま、父の愛を理解できず、弟の存在を受け入れることもできずにいます。彼が自分への父の愛をきちんと理解し、弟の存在に対する父の喜びを受け入れることができるまでは、家に入り宴会につくことはないでしょう。

パリサイ人や律法学者らは、兄のように神様の教え、律法を事細かに守ろうとする者でした。しかし、彼らは、取税人や罪人が、この弟のように、イエス様に喜ばれて招かれるのが気に入らなかったのです。

兄は、父と生活を共にしながら、その父の愛が分からなかった。彼は、ただ、父に言われるとおり、父の奴隷、雇人のように仕えてきたのでした。

私たちは、神様の愛を知り、イエス様の十字架の贖いによりクリスチャンになりました。本来、私たちは、その神様の愛に応答して、神様と人に仕えていくのです。しかし、いつの間にか、奉仕が義務的になり、言われたことを行うだけになることはないでしょうか。そして、他の兄弟姉妹の奉仕や態度をみて、彼らを裁くとしたら、それは、兄のように、父の愛を知らず、弟の存在を喜べない者なのかもしれません。私たちは、まず、神様がどれほど、私たちの存在を大切にし、愛して下さっているかを知ること、また、神様の家族である兄弟姉妹の存在に対して、神様と一緒に喜ぶことを知る必要があるのではないでしょうか。

最後に、もういちど、言います。

神様は私たちを溺愛されています。神様は、あなたがた一人一人の存在が大切でしかたがありません。可愛くてしょうがないのです。大切でしょうがないのです。あなたが可愛くてしょうがない、溺愛の神様なのです。

その証拠は、十字架にあります。神様は、私たちのために、御子イエスを十字架にかけるほど、あなたが存在し、神様の前に生きるために全てのものを恵もうとしておられるお方なのです。

ロマ 8:32

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。

勧士 高橋堅治