三つのうめき ローマ人への手紙8章18~28節

自然破壊

コロナウィルスによる感染拡大が増し、千曲市もコロナ感染警戒レベルが5となってしまいました。毎日の生活においても、仕事、買い物、また、家族や人との交わりにおいて、感染を防ぐために自重した生活が必要なこの頃です。教会も、集会を自粛し、皆様には家庭での礼拝を強いることとなりました。コロナウィルス感染症のような疫病は、私たちの命や生活に著しく恐れを及ぼします。本日は、疫病を通して、「うめき」ということを学んでみたいと思います。

第一 被造物のうめき

本日、学ぶ聖書箇所は、新約聖書のローマ人への手紙です。ローマ人の手紙は、使徒パウロが、三回目の伝道旅行のときに、ローマの信者たちに書いた手紙です。紀元56年頃、当時のローマ帝国の首都ローマには、初期のイエス様を信じる教会がありました。当時は、未だ、新約聖書が無く、更に使徒の教えを受けたことがなかったので、その信者たちに、神様の恵みの福音の福音について教えるために手紙を記しました。

このローマ人の手紙8章には、3つの「うめき」について記されています。「うめき」とはどのようなことだと思われますか?辞書には、痛さや苦しさのあまり、低い声を漏らすこと、ため息をつくこと、動物が低くうなると記されています。いずれにしても、「うめき」とは、痛み、苦しみ、または失望などから、音にならないような声を発することのようです。

8:18に、「今の時のいろいろの苦しみ」とパウロは述べております。イエス様を伝えることによる迫害による苦しみもあり、また、信仰を守ろうとするときに、生じる自分自身との戦いによる苦しみを経験すると述べております。しかし、パウロは、私たちへの栄光の約束、それはキリストに似る者にさせて頂くという約束に較べれば、取るに足らないものであると語っています。

そして、22節に第一の「うめき」、被造物全体がうめき続けていると語っています。被造物とは、私たちと取り巻く自然であり、宇宙であり、神様がお造りになった全てです。それが、苦しいうめきの声を漏らしているというのです。創世記3章には、人類の最初の人、アダムとエバが罪を犯したことが記されています。そして、創世記3:17には、「また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。」とあり、人が罪を犯した結果、土地、すなわち、被造物全体が呪われてしまったことが記されています。被造物は、「滅びの束縛から解放され」(21)るため、「神の子どもたちの表れを待ち望んでいる」(19)とあり、被造物も、キリストによる救いによって滅びの呪いから解き放たれることを待ち望んで(頭を真っ直ぐにし、目を期待する方向に向けて待つ)いるのです。

さて、コロナウィルスも被造物のひとつです。ウィルスというと、私たちは疫病をもたらす厄介なものと考えてしまいます。実は、ウィルスは、他の動植物と一緒でないと活動できないものなのです。この地球上には、多くのウィルスがおり、その数は驚くほどの数だそうです。例えば、海水を小さじ一杯(5mL)すくったとき、その中には100万から1億個ほどのウィルスがいるそうです。しかし、私たちは、彼らに気付くことはありません。健康な人間の中には、数十種類のウィルスが存在しているようです。また、人間の遺伝子の中にウィルスが組み込まれている(内在性レトロウィルスと呼ばれる)ようで、このウィルスが、母親と胎児の間に「合胞体性栄養膜」をつくり出すときに働くとのことである。この栄養膜が無いと、胎児は母親の免疫による攻撃を受けて生きることができないようです。コロナウィルスは、コウモリの体中に住むようですが、今回は何かの原因で人に感染するような変異をして広まったのがこの感染症なようです。被造物であるコロナウィルスは、人間と関わりを持ちたいとは思っていなかったはずです。それは、彼らは人間の体内ではどちらかが死滅するまで戦うため、生きることが出来ないからです。しかし、何かの事で人と関わってしまった。コロナウィルスのうめきが聞こえてきそうです。

第二 私たち自身のうめき

「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」(22)。御霊の初穂とは、聖霊による手付金、私たちの救いの証明です。イエス様の十字架によって贖われた私たちは、皆、御霊の初穂を頂いており、私たちもキリストに似た者になること、キリストと同じ栄光の体にされることを待ち望んでいるのです。私たちは、自らを省みると、罪に汚れた自分、弱い自分、本当に惨めな自分の姿を見てしまいます。故に、私たち自身がうめきながら、キリストに似たような者になりたいと心から願うのです。

現在、入試のために努力しておられる学生さんが多くいると思います。彼らは、何を求めて努力し、また心配しているのでしょうか。それは、志望校からの合格通知が届くことです。もし、合格通知を手にしたら、彼らは更に入試のために努力し、心配するでしょうか。4月からの志望校での入学が保証されているのですから。

それと同じように、私たちは御霊の初穂、救いの約束を既に頂いているのです。まだ、キリストに似た者にはなっていませんが、神様はそれをすべての信じる者に約束して下さっています。信仰を持って、待ち望んではどうでしょうか。

第三 御霊のうめき

「御霊も同じように、弱い私たちを助けて下さいます」(26)とあり、「言いようもない深い

うめきによって、私たちのためにとりなしてくださ」るとあります。聖霊は、私たちが神様にどう祈ればいいか分からないときに、その言葉にならないようなうめきをもって、聖霊自らが私たちを執り成して下さると約束しております。私たちのために、苦しみを共にしながら、うめきをもってとりなして下さる方が、共におられるとはどんなに心強いでしょうか。そして、人の心を見抜くお方である神様は、その聖霊の求めと執り成しをご存じなのですから、私たちは、そのまま、神様に向かって心を開いて、祈るだけで良いのです。

私は、会社を休職中、毎週月曜日に、ある心療内科クリニックに通院しておりました。通院後に、時間があり、よく城山公園の方に出向き、ひとりで祈る時間をもっていました。そのとき、自分の今ある状況、将来に対する不安、様々な想いがよぎり、祈りになかなか集中できませんでした。少し高い所まで登り、そこから長野市一帯をみたとき、その家々があり、そこに人々が様々な生活をおくっていると感じました。そして、そんなときに、神様が従ってきなさいと言われたお言葉と、私のように不安と寂しさの只中にいる人に寄り添うことが出来るなら幸せなのだろうと思いました。神様は私の心を知り、また、私と共にうめきをもって執り成される聖霊がおられ、私の祈りにならない祈りが聞き遂げられたと思いました。神様は、いつも私を孤児にせず、見守って下さっていることを深く感じたときです。

私たちは祈れないとき、また、祈っても無駄と考えてしまうときはないでしょうか。そんなときでも、ただ、神様と声を出してみてください。聖霊が私たちを執り成しておられると信じながら、そして、神様はそれを受け入れておられることを信じながら祈ってはどうでしょうか。

最後に、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(28)とあります。

3つのうめきの応答は、「神を愛する人々」。すなわち、イエス様によって救われた私たちは、すべてのこと、それは、私たちの人生の過程で受けたこと、喜び、悲しみ、苦しみ、病い、挫折、これらすべてをもって、私たちに最も必要な救いの恵みを与えて下さる、私たちの祈りを知り、私たちに良いものを与え、聖霊による救いの約束を与えて下さるのです。

勧士 高橋堅治