イエス・キリストの証言 ヨハネ5:31~47

イエス・キリストの証言

これまで、ヨハネの福音書の5章で、38年の間、病気で苦しんだ人がイエス様によって癒された話から学びました。イエス様はその人に、「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」(ヨハネ5:8)と言いました。このことは、今まで依存していたもの(病人にとっては床)を手放し、イエス様によって新しく生活を始める意味でした。

ところが、この癒された人は、ユダヤ人たち(当時の宗教指導者たちを指す)から安息日の戒律を破ったことを指摘され、彼は恐れから、イエス様のことを告げ口してしまいました。このことがきっかけとなり、ユダヤ人たちによるイエス様の迫害が始まったのです。

ユダヤ人の非難を浴びたイエス様は、「わたしの父(なる神)は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです」(5:17)と答え、父なる神は創造以来、休まずに働いているのだから、わたし(イエス様)も働いていることを宣べました。しかし、これを聞いたユダヤ人たちは、イエス様を殺そう思いました。それは、イエス様が安息日の戒律を破っただけでなく、神を父と呼んだからでした(5:18)。

ユダヤ人たちは、「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない」(出エジプト20:7)という聖書の言葉から、父と呼ぶイエス様が神を冒涜したと考えたのです。ところが、旧約聖書には、神を「父」と呼んでいる箇所が14か所もあります。

例えば、

あなたがたはこのようにして主に恩を返すのか。愚かで知恵のない民よ。主はあなたを造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く立てた方ではないか。 申命記 32:6

まことに、あなたは私たちの父です。たとえ、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから「私たちの贖い主」。 イザヤ 63:16

などです。それだけでなく、イエス様が神を「父」と呼んだのは、神にとって、イエス様が「わたしの愛する子」(ルカ3:22)だからです。

イエス様は、ユダヤ人たちに、ご自分と父なる神との親子の関係から、父から与えられた権威(永遠のいのちの付与と裁き)を話しました(詳細は、2023年6月、メッセージ「父なる神との関係」を参照https://anzunosato.net/?p=183)。

これらのことを聞いたユダヤ人たちには、理解できず、受け入れ難い話だったはずです。彼らはイエス様を信用しません。そこで、イエス様は、ご自分の証しが本当であることを証明するため、「もしわたし自身について証しをするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません」(5:31)と、ご自分以外の証言を必要としました。

「証言」(証し)は、「自分が知っていることや見たこと、体験したことを正直に話す」ことと辞書にあります。特に、裁判においては、証言によって事実関係が明らかになり、正しい判断を下すことができます。イエス様も、他の証言によって、自分のことが正しいことを証明する必要がありました。

ここで、ヨハネの福音書が書かれた目的を再確認しますと、それは「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである」(20:31)です。私たちにも、「イエス様が神の子キリストであること」の証言が必要です。何故ならば、証言によって、神の子キリストであることを受け入れ、私たちも永遠のいのちを得るためです。

今日は、ヨハネ5章33節から47節までに記された、イエス様が私たちに提供される、イエス・キリストの証言を学びます。それらは、4つ(ヨハネの証言、キリストの御業、父なる神の証言、聖書の証言)あります。

1.ヨハネの証言

あなたがたはヨハネのところに人を遣わしました。そして彼は真理について証ししました。

わたしは人からの証しを受けませんが、あなたがたが救われるために、これらのことを言うのです。

ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました。

ヨハネの福音書 5:33-35

バプテスマのヨハネの証言は、イエス様が神の子キリストであることを示す証言のひとつです。

ユダヤ人たちは、バプテスマのヨハネが「キリストかもしれない」という噂を聞き、真実を確かめるために祭司やレビ人をヨハネのところに送りました。彼らが「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、ヨハネは迷うことなく、「私はキリストではありません」と答えました(ヨハネ1:19-20)。

ヨハネがバプテスマ(洗礼)を執り行う理由のひとつに、キリストを探す目的がありました。神から「水でバプテスマを授けるように」と命じられたヨハネは、もし、聖霊がある人に降りて、その人に留まるのを見たら、その人が聖霊によってバプテスマを授ける者である(ヨハネ1:33)と教えられていました。ある日、ヨハネがイエス様にバプテスマを授けたとき、ヨハネは、イエス様の上に聖霊が降りてくるのを見ました。後に、ヨハネは「私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです」(ヨハネ1:34)と証言しています。

ところで、イエス様は、「わたしは人からの証しを受けません」と述べ、ヨハネのような人の証しは不要と言っていますが、これは、イエス様自身の権威と使命が父なる神から直接与えられたものだからです。ヨハネの証しが無くても、「その方(父なる神)がわたし(イエス様)について証しする証言が真実であることを、わたしは知ってい」(5:32)るので、人の証しは不要というのです。

しかし、イエス様は、「あなたがた(ユダヤ人たち)が救われるために」は、ヨハネの証言が有用であるとも言われました。ヨハネは、ユダヤ人たちにとって「燃えて輝くともしび」(知識と信仰の光)であり、尊敬する人でした。イエス様は、イエス様を否定するユダヤ人たちが、ヨハネの証言によって、キリストによる救いを望まれたのです。

ヨハネの証言のように、私たちの信仰体験の証しの良し悪しによって、イエス様が神の子キリストである立場を揺るがすことはありません。そればかりか、私たちの証しは、イエス・キリストを否定する、私たちの隣人(家族、友人、知人)の救いのために、神はお用い下さるのです。ですから、恐れることなく、私たちは、私たちの主イエスの素晴しさを語ればいいのです。

ですからあなたは、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。

                                                    テモテへの手紙 第二 1:8

2.キリストの御業(奇跡)

しかし、わたしにはヨハネの証しよりもすぐれた証しがあります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのです。

                                                            ヨハネの福音書 5:36

イエス様は、父なる神が与えられた「わざ」、すなわち、御業(奇跡)を行われました。これは、イエス様が神の子であり、父なる神から遣わされたことの証言です。イエス様は、多くの人々の病を癒し、死者を蘇らせるなど、人間には到底不可能な奇跡を行いました。イエス様の奇跡は、イエス様が神様の権威を持っていることを表すのです。

ベテスダの池で人を癒したことは、ユダヤ人たちにも知られた奇跡でしたが、ユダヤ人たちは、その奇跡を受け入れませんでした。イエス様は「たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい」(ヨハネ10:38)と述べています。人間は、嫌いな相手は受け入れ難いものです。しかし、嫌いな相手が行った事実は、事実として受け入れざる得ないものです。イエス様は、イエス様自身の御業(奇跡)を見るように言ったのです。

二千年前の聖書の奇跡も、現代に生きる私たちには、信じ難いものではないでしょうか。特に、科学が進歩し、多くの人が奇跡を疑問視するようになりました。しかし、それだけで、聖書の奇跡を軽視してよいのでしょうか。

イエス様の最も大きな奇跡である復活が、もし起こらなかったら、どうなっていたかを考えてみましょう。

イエス様が十字架に架けられたとき、イエス様の弟子たちは群衆を恐れて隠れていました。復活が無ければ、弟子たちはもうイエス様を振り返らず、忠誠を尽くすこともないはずです。パウロはイエス様に出会うことはなく、彼は手紙を書くこともなかったでしょう。イエス様を信じる人々は起こらず、教会も誕生しない筈です。ところが、いま、全世界に多くの教会があります。この二千年間に教会は、私たちの社会に大きな貢献をもたらしました。例えば、芸術、教育、言語、法律・政治、医療福祉、そして科学の分野において、教会は大きな役割を果たしてきました。

芸術では、ダビンチやミケランジェロなど、聖書物語を扱った偉大な芸術家たちが現れました。教育では、多くの教育機関が修道会や宣教師によって設立され、広範囲にわたる知識の普及が行われました。

言語に関しては、聖書の翻訳と普及のために多くの言語が文字化され、教育が促進されました。法律・政治では、「人は神の前に平等である」という原則を基に、現代の基本的人権の保障につながりました。医療福祉では、クリスチャンたちの未開拓地での医療奉仕や赤十字運動を通じて、世界中の人々を助けました。科学でも、多くのクリスチャンの学者が神様の創造を探究し、重要な科学理論の確立に寄与しました。たとえば、ガリレオやニュートンなどです。

そして、キリストの御業は、今も、キリストを信じる私たちに起こっているのです。

信仰生活はよく結婚生活に例えられます。クリスチャンであれば誰にも、イエス様との出会いがあり、イエス様を救い主と受け入れ(プロポーズ)、このお方と一生を添い遂げる誓いをする洗礼(結婚)をします。このときから、信仰生活(夫婦生活)が始まるのです。信仰生活では、私たちは神に慰められ、励まされ、癒され、祈りが聞かれる体験をします。それだけでなく、夫婦の間に危機が生じるように、信仰につまずき、イエス様や他のクリスチャン、教会を疑うこともあります。しかし、イエス様は、私たちを愛し、受け入れ、理解して下さったはずです。この人生の只中でキリストの御業(奇跡)が起こり、イエス様に出会ったときよりも、更に深く神を知り、キリストを知ったのではないかと思います。

私は、若い頃、教会の礼拝に初めて出席してから、一年後に洗礼を受けました。地元企業に就職後、信仰につまずき、教会から離れました。会社を辞め、親を含む、色々な人に迷惑をかけながらも、なんとか編入した大学に入ったものの、自分の理想とかけ離れた事実に落胆していたとき、再び、私は教会に導かれました。当時、大学から紹介された唯一の下宿は、教会から最も近い下宿でした。そこに学年で唯一人のクリスチャンが同宿していたのです。彼とは親しくもなく、交流もありませんでした。ある日、下宿のごみ箱に、教会の集会案内が沢山棄てられていました。私は、その集会案内を拾い、近くの教会の集会に参加したのでした。私は、このことがきっかけとなり、信仰を取り戻したのです。社会人になり、ある礼拝のとき、私は、信仰を取り戻したときのことを思い巡らしていました。このとき、私が洗礼を受けたそのときから、主はいつも私と共におられたこと、私が教会から離れていたときも私と共におられたことに気付きました。それから後、神は、私の人生に奇跡をもって多くの恵みを与えて下さったのです。イエス様に出会ったときよりも、より深く、神の愛を知ることができました。

永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。

ヨハネの福音書 17:3

イエス様は、神とイエス・キリストを知る(体験する)ことが、永遠のいのちであると言われました。私たちは、私たちの人生の只中で起こる神の御業(奇跡)によって、より深く、神の愛とキリストの救いを体験するのではないかと思います。永遠のいのちは、私たちが死んだ後に与えられるものではなく、イエス・キリストと共に歩むことを始めたときから、私たちは永遠のいのちの中を歩み始めているのです。

3.父なる神の証言

また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともありません。

また、そのみことばを自分たちのうちにとどめてもいません。父が遣わされた者を信じないからです。

                                                           ヨハネの福音書 5:37-38

父なる神の証言は、キリストの神性と使命を証ししています。

イエス様がバプテスマを受けられた際、父なる神は「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:21-22)と呼ばれました。また、イエス様がペテロ、ヤコブ、ヨハネと共に山に登ったとき、イエス様が変貌し、光り輝く雲から、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」(マタイ17:5)という父なる神の声が聞こえました。

父なる神の証言を、ユダヤ人たちに話しても、彼らは体験もなく、受け入れ難いでしょう。しかし、イエス様を信じる私たちにとって、この父なる神の証言は、イエス様がまことに神の御子であることを裏付けます。イエス様が神の御子であれば、御子をお与えになるほどの大きな神の愛を実感し、また、イエス様の救いの業、十字架の死と復活が父なる神のご意志であることを知るのです。まさに、次の御言葉をそのまま、私のことと受け入れることができます。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

                                                           ヨハネの福音書 3:16

4.聖書の証言

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。

わたしが、父の前にあなたがたを訴えると思ってはなりません。あなたがたを訴えるのは、あなたがたが望みを置いているモーセです。

もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから。

しかし、モーセが書いたものをあなたがたが信じていないのなら、どうしてわたしのことばを信じるでしょうか。」

                                                           ヨハネの福音書 5:39,45-47

イエス様は、ユダヤ人たちが聖書を研究し、永遠のいのちを求めていることを知っていました。しかし、彼らは、聖書がキリストについて語っているということを見落としていました。聖書(旧約聖書)を具現化した存在がキリストなのです。聖書は、単に道徳や歴史を記したものではありません。聖書の目的は、救い主キリストによる救いと永遠のいのちを与えることにあるのです。

ですから、聖書全体がキリストを証言しています。例えば、イザヤ書53章では、苦難の僕としてのキリストが、人々の罪のために苦しみ、犠牲となることを預言しています。また、詩篇22篇には、私たちの罪に苦しまれるキリストと十字架の死を詳細に表現しています。その他、様々なキリストの預言が記されています。それから、聖書には、キリストによる約束が記されています。そのひとつが、アブラハムの子孫、キリストによって世界中の国々が祝福を受けること(創世記22:18)が約束されているのです。キリスト誕生前のキリストの顕現も記されています(例えば、ダニエル10:5,6)。また、出エジプト記やレビ記に記されたモーセの儀式律法は、キリストの贖いを象徴するものです。

私たちは、聖書を通して、キリストの十字架の死と復活が歴史上の事実であること、神が存在し、真実なお方であることなどを学ぶことが出来るのです。

例話:リー・ストロベル氏

ストロベル氏は、アメリカ出身のクリスチャン作家、元ジャーナリスト。彼は、1952年、アメリカ、イリノイ州で生まれ、現在72歳。熱心な無神論者だった彼は、29歳のとき、キリストを信じる。現在まで、キリストに関わる多くの著書をもち、牧師、神学大学の教授も経験。

ストロベル氏は、中学生の頃、次の疑問を持っていた。

– 神が愛なのに、なぜ、地獄があるのか?

– なぜ、イエスが神への唯一の道なのか?

この質問にクリスチャンの友人らは答えられなかった。

彼は、高校時代、スタンリー・ミラーのアミノ酸生成実験で生命の起源が自然発生であると教わる。そして、大学の歴史でのイエスの講座から、聖書を疑い、無神論を信じる。

しかし、ストロベル氏が29歳のとき、彼の妻がキリストを信じる。その後、彼女の態度や行動が明らかに変わり、ストロベル氏はキリスト教に興味を抱く。ストロベル氏は持ち前のジャーナリズムと法律知識を活かし、イエス・キリストの信ぴょう性を徹底的に調査。科学、哲学、歴史を調査、多くの文献を読み、専門家に質問、考古学を研究。その結果、創造主の存在を示唆する科学的証拠とイエスの復活を支持する歴史的証拠を見つけ、無神論者を続けるよりもキリストを信じる方が合理的だと結論づける。

ストロベル氏は、彼の妻の証言でキリストに興味を持ち、聖書の証言からキリストを信じたと言えます。

これまで、4つのイエス・キリストの証言を学びました。

  • 信仰の証しを隣人の救いのために用いられること
  • 人生での神の御業(奇跡)により、私たちは神とイエス様をより深く知る(体験する)
  • 父なる神の証言は、神の愛と、御子の救いを確信させる
  • 聖書の証言は、イエス様の救いが歴史的事実であると確信させる。

永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。

                                                           ヨハネの福音書 17:3

イエス・キリストの証言により、私たちは父なる神とイエス・キリストを更に深く知る(体験する)ことができます。そして、その体験自体が、永遠のいのちに生きることなのです。

主イエスが共におられますように。

勧士 高橋堅治